日進月歩でその姿を変えつつある書物と貨幣。本稿ではその変化において何が不可視化されているのか、ブラックボックスに入れられているのは何か、それを辿っていきます。
今回、主に取り上げるのはアマゾン社、特にアマゾン社の思想的指導者にして創業経営者、現在のアメリカを代表する億万長者ジェフ・ベゾスです。いまではEC大手として知られているアマゾン社はそもそもオンライン書店として登場し、日本でも多くの出版社と書店に打撃を与えました。
そもそもベゾスの出自はアメリカの、つまり世界の金融界の中心地であるウォール街のヘッジファンドでした。金融のプロだったベゾスは、当時注目を集め始めていたインターネットに可能性を見出し、若くして手に入れていた経済的安定を捨ててアマゾン社を起業したのです。
したがってベゾスのアマゾン社が金融業を始めるとなれば、それはある意味で原点回帰なのです。もっとも、「アマゾン銀行」が誕生するとしても、ベゾスがかつて在籍していたヘッジファンドとは同じ金融業界といえど、その内実は大きく変わるはずです。
現在のアマゾン社とベゾスが手掛けている市場は、いわゆるオンライン書店にも、その拡張版である超大手ECにもとどまりません。Kindleという電子書籍、音声AIであるAlexaによるIoT事業、世界中に建設された巨大サーバー群によるクラウド事業AWS、ネットフリックス社と競合するアマゾン・プライム・ビデオなどなど、その範囲は多岐にわたります。通常は回避するべき自社内での各部門の競合化を恐れず、ベゾスとアマゾン社は何を実現しようとしているのでしょうか。
アマゾン社の出自、クオンツファンド
2020年の春頃から全世界的に新型コロナウィルスの流行を危惧したパニックが巻き起こりました(本稿はその渦中で書かれています)。
このコロナ騒ぎのなかで、アメリカの富裕層が資産を何十兆円も増大させているというニュースが話題になりました。
世界一の富豪であるジェフ・ベゾスも当然、その「富裕層」の一員です。CNNの記事によれば、ベゾスひとりの資産だけでも2020年3月から6月までの3ヶ月で362億ドル、日本円に換算して約4兆円も増加したというのです。
新型コロナウィルスの蔓延を防止するために世界中の政府が外出自粛を呼びかけ、アマゾン社の売上が急激に伸びたであろうことは想像に難くないのですが、それにしてもベゾス個人やアマゾン社の経営陣だけでなくアメリカの富裕層の資産が全体的に増えているのはどういうことなのでしょうか。
驚異的に見えるこの資産増加の背景には、コロナ騒ぎ以降も好調な金融市場の状況が影響していると言われています。連邦準備制度理事会(FRB)が大幅な金融緩和政策を行ったためです。外出自粛にともなって、アメリカでは失業者が大量に生み出され、とりわけ低賃金で働いていた人たちほど苦境に立たされているにもかかわらず、です。コロナ騒ぎが巻き起こるよりも前から叫ばれていた金融経済と実体経済の乖離が、持てる者と持たざる者との命運を分けるかたちで表れていると言えるでしょう。
ヘッジファンドとアマゾン社
ところで、ベゾスが創業したアマゾン社はもともとはオンライン書店としてスタートし、徐々にフォークやスプーンなどの食器、家具、家電から工具、スキンケア用品やサプリメントまで、書籍以外にもあらゆるものを扱う「エブリシングストア」として成長してきました。現在では、仮想ストレージと計算資源を他社に提供するアマゾン・ウェブ・サービス略して「AWS」というクラウドサービスも展開しており、単なるオンライン書店という創業当初の姿からはかけ離れた会社になっています。
アマゾン社をベゾスが創立したのは、インターネットに注目が集まり始めた1994年。当時ヘッジファンドで働いていたベゾスは30歳でした。アマゾン創業直前に、ベゾスは当時の上司だったヘッジファンドの創業者デビッド・ショーと、インターネットを利用した事業について繰り返し議論を重ねていました。
ベゾスが若くしてシニア・ヴァイス・プレジデントの地位を得ていたこのヘッジファンドは創業経営者の名前をとって「D・E・ショー」といいます。D・E・ショーが設立されたのは1988年、コロンビア大学の情報科学科の教授だったデビッド・E・ショーが作ったファンドです。パーソナルコンピューターが般家庭に普及するよりも前、ルネッサンス・テクノロジーズなどの「クオンツファンド」が次々と立ち上がっている時期でした。
D・E・ショー
「クオンツファンド」とは、コンピュータープログラムと、量子力学をはじめとする現代物理学に応用される高度に複雑な数学を証券取引に活用するファンドのことです。コロンビア大学からモルガン・スタンレーに引き抜かれたショーは、モルガン・スタンレーでコンピューターを用いる取引のためのプログラムの開発に携わったのち独立し、「D・E・ショー」を創立します。
ベゾスの半生を追った伝記『ジェフ・ベゾス 果てなき野望』によれば、D・E・ショーの事務所はマンハッタンのある共産主義系書店の上に(皮肉にも)開設されたそうです。
ベゾスがプリンストン大学を卒業したのは1986年。ショーがコロンビア大学からモルガン・スタンレーに引き抜かれた年です。この年、ベゾスが就職したのは、コンピューターを使って金融取引をするためのスタートアップ企業ファイテルでした。このファイテルから大手金融会社のバンカーストラストを経て、1990年にD・E・ショーに入社したのです。
若くしてD・E・ショーで指導的な立場を得て活躍していたベゾスは、1994年、インターネットでのビジネスアイデアについて、デビッド・ショーと毎週2,3時間のブレインストーミングを行なっていました。のちにアマゾンドットコムが実現する「エブリシングストア」のアイデアはこのショーとベゾスの議論から生まれたものです。
『アメリカン・サイコ』と『ダークナイト』
ところで、2000年にに公開された映画『アメリカン・サイコ』はウォール街で働く証券マンたちの姿を皮肉たっぷりに描く作品です。のちに『ダークナイト』シリーズで大富豪にしてダークヒーロー「バットマン」を演じることになるクリスチャン・ベイルが、日中は魅力的な証券マン、夜は同僚や売春婦を殺害する殺人鬼という、現代の「ジキルとハイド」のような二重人格の人物を演じます。
この映画には次のような有名なシーンがあります。ベイル演じる主人公たちとその同業者たちが互いの名刺を自慢し合う場面です。名刺の紙質や印字のフォントの洗練具合で暗に互いを牽制するというシーンなのですが、そこで誰もが「ヴァイス・プレジデント」という肩書になっている。そんなところに、当時の「成功者」でありながら金太郎飴のような同質性を風刺する制作者の意図がうかがえます。先述のとおり、アマゾン創立前のベゾスはまさに証券マンとして「ヴァイス・プレジデント」の地位にありました。
また『アメリカン・サイコ』の前年1999年には映画『ファイト・クラブ』が公開されています。そのエンディングはチャック・パラニュークによる同名の原作小説とは異なり、現代秩序の象徴として金融センターの高層ビル群が爆破され倒壊していくシーンがあります。『ファイト・クラブ』も、主人公の二面性がテーマとなっており、やはり「ジキルとハイド」的な物語です。
『アメリカン・サイコ』の主人公を演じたクリスチャン・ベイルは、2008年公開の映画『ダークナイト』でも、「バットマン」とその正体である大富豪のブルース・ウェインを演じています。バットマンとブルース・ウェインの一人二役だけでも十分に二面的な性格のある本作ですが、映画制作中に不慮の死を遂げた名優ヒース・レジャー演じるジョーカーの存在によって、この作品にはもうひとつの二面性が付与されます。
ジョーカーは、バットマンが自分を生み出したと語ります。どんな悪人でも決して殺さない、というきびしいルールを自分に課すバットマンに対して、ジョーカーはマスメディアの注目を煽り、自分自身はルールに束縛されない存在として振る舞います。
本論でこの作品に注目したいのは、作中でジョーカーが大量の現金を銀行から強奪しておきながら、自らその現金の山に火を放つという場面があるからです。この行為は、大富豪ブルース・ウェインという「表の顔」の資産を使ってバットモービルなどの特殊装備を整えているバットマンと対照をなします。バットマンは、父親から相続した資産を使って正義のために戦う装備を整える、つまり表には出せない経済活動を遂行します。これに対して、ジョーカーは現金を大量に燃やすことで経済そのものに空隙を作り出すのです。
ベゾスと『日の名残り』
さて、モルガン・スタンレーから独立して自分の名前を冠したヘッジファンドを作ったデビッド・ショーのように、ベゾスも独立したいと考えました。急成長中のD・E・ショーからの独立をデビッド・ショーに切り出した頃にベゾスが読んでいたのはカズオ・イシグロの『日の名残り』だったというエピソードは印象的です。『日の名残り』は、イギリスの旧家で執事をしていた主人公が、歴史が移り変わるなかでアメリカからやってきた新しい主を迎え、老境にさしかかった自分を認識しながら職業人としての「偉大さ」とは何か、を自問する作品でした。ベゾスは急成長中の高給の職を辞して、世界一の大富豪への道を歩み始めるのですが、この時どのような「偉大さ」を『日の名残り』から受け取ったのでしょうか。
何が不可視化されたのか
金融経済に物理学などの抽象的で高度な数学モデルを持ち込み、コンピューターを駆使する人々、いわゆる「クオンツ」たちの姿を追った書籍『ウォール街の物理学者』には、D・E・ショーの名前も登場します。
『ウォール街の物理学者』には、複雑系とカオス理論の発展に中心的な役割を果たした研究者たちが1990年代に立ち上げたプレディクション・カンパニーという集団が登場します。プレディクションカンパニーは、のちにUBS(いわゆるスイス銀行)に買収される投資会社から投資を受けます。プレディクション・カンパニーはその後もUBSに大きな役割を果たしていると言われていましたが、2018年に閉鎖されています。
プレディクションカンパニーが開発した手法は、様々なアルゴリズムを物理学の研究から援用する「ブラックボックスモデル」と呼ばれています。アルゴリズムとは計算方法、とりわけその手順を意味する言葉です。2020年公開されたノーランの映画『テネット』でもひとつのキーワードになる「アルゴリズム」は、単に計算方法やその手順という意味を超えて、あるパッケージに閉じられたブラックボックス的なニュアンスを帯びています。
「予想」を意味する「プレディクション」を名乗っているとはいえ、プレディクション・カンパニーはこの「ブラックボックスモデル」で金融市場そのものの予測を行っていたわけではありません。気象やギャンブルのような現象の不確実性を扱う現代物理学や数学の理論から、アルゴリズムを援用したのです。
アルゴリズムとは、計算方法のこと、とりわけその手法や手順のことを指します。プレディクション・カンパニーは、現代物理学などから、この計算方法だけを借りてきて金融取引に利用していると考えられています。彼らの手法が「ブラックボックスモデル」と呼ばれるのは、援用している計算方法がなぜ金融取引に有効なのか説明がつかないからです。
D・E・ショーやプレディクション・カンパニーのような「クオンツ」たちが高度な数式を金融取引に活用するためにはコンピューターが必要でした。コンピューターは高度な数学的計算を不可視化するブラックボックスなのです。
コンピューターは、カタカナで書くとわかりにくいのですが、もともとは「Computeするもの」つまり「計算者・計算機」という意味です。入力された情報に対して機械的に計算を行い、その結果を出力するものがComputerです。この意味のコンピューター、すなわち電子計算機について研究する学問は情報科学や計算機科学と呼ばれます。先のデビッド・ショーもコロンビア大学で教えていたのは、情報科学でした。
コンピューターは「機械的に計算」するところが曲者です。人間が紙や鉛筆を使って「計算」する可視的な「計算」ではなく、機械のなかで不可視的に「計算」が行われる、つまりそこがブラックボックスになっているからです。
コンピューター革命からインターネット革命へ
1970年代以降、コンピューターは小型化し軽量化し、計算速度が加速し、しかも低価格化してきました。この頃からコンピューターのユーザーは大衆化し、ネットワークで繋がり、さらに普及していくという時代に突入していくのです。
一般にコンピューターとして認識されているものは、モニター(もしくはディスプレイ)と呼ばれる「画面」表示機器と、あるいはそこの画面に表示させる情報を入力するキーボードとを組み合わせたものですが、コンピューターの本体は、その入力と表示を処理して実行(出力)しているマイクロプロセッサーです。入力と出力をひとつの個体(デバイス)でおこなっているスマホが「ちいさなパソコン」と呼ばれるのはそのためです。スマホがひとつのブラックボックスと呼べるのは、このコンピューターとしての機能が、携帯電話機というパッケージによって不可視化されているからです。
1968年にインテルを創立するメンバーのひとりゴードン・ムーアは、インテル創立に先立つ1965年に発表した論文のなかで、のちに「ムーアの法則」として知られることになる「法則」を提唱しました。「マイクロプロセッサーの集積度(実質的にコンピューターの性能を意味する)が1年半で倍になる」というもので、2010年代になるまでその有効性が認められてきました。
ただし2010年代に入ると、コンピューターの基板を分子レベルで開発する必要が出てきて、現代物理学の限界に迫るため、計算速度の向上は鈍化を見せており、ムーアの法則が限界にきていると言われています。
1970年代には、スティーブ・ジョブズらによるアップル社のAppleⅡが登場しました。それまでコンピューターといえば官公庁や企業、研究機関で使われていた、複数人がシェアするメインフレームと呼ばれる大きな機械を指していましたが、1970年代以降は、個人(パーソナル)が所有して個人で使うパーソナルコンピューター、略してパソコン(PC)がコンピューターを代表するようになります。
1970年代末にゼロックス社のパロアルト研究所を訪れたジョブズは、アラン・ケイが主導していたグラフィカルユーザーインターフェース(GUI)にインスパイアされて、当時アップル社で開発中の新型商品に組み込もうとしていました。
GUIが登場するよりも前に一般的だったのはコンピューターに文字列(コマンド)を打ち込んで動作させる、キャラクターユーザーインターフェース(CUI)と呼ばれる形式です。これに対してGUIはコンピューターグラフィックとポインタを画面に表示することで、より直感的な操作をが可能にしました。「直感的」ということはつまり、それまで求められていた複雑な入力手順、つまり「手間」が省略されることを意味します。GUIを実装したパソコンは、それまでのコンピューターが露呈していた機械操作のための「手間」を不可視化するという意味でもブラックボックスなのです。
コンピューター登場後の現在から振り返れば、それらの「手間」は「コンピューター」というパッケージによって覆われ、「手間」がショートカットされ、不在化//不可視化されることになるのです。
アップル社がMacintoshで先行したGUIは、ビル・ゲイツが創立したマイクロソフト社がWindowsシリーズに導入したことで世界的に普及しました。Windowsはオペレーティングシステム(OS)として、現在でも圧倒的な世界的シェアを占めています。コンピューターの本体とOSをセットで販売することにこだわったアップル社よりも、本体メーカー複数社と契約してOSだけを開発したマイクロソフト社の方が普及したのです(これはモバイル革命後の、iPhoneを製造販売するアップル社のiOSと、その他のスマホでメーカーを横断してシェアを拡大しているグーグル社のAndroidの対比にも似ています)。
インターネット革命
1970年代末から1990年代がパソコン革命の時代だとすると、1990年以降はインターネット革命の時代です。
1960年代からアメリカ国防総省の高等研究計画局(略称ARPA、後にDARPA)の出資を受けたプロジェクトがARPANETを設計し、開発しました。ARPANETは、当時まだパソコンが普及する前であり、貴重な「資源」だったコンピューターの計算能力を、複数のユーザーが共有(タイムシェアリング)するためのネットワークの仕組みでした。
やがてARPANETの他の通信ネットワークを繋ぐ標準のプロトコルとしてTCP/IPが開発され、1980年代にはインターネットの概念が提唱され各国の学術ネットワークが繋がるようになり、現在のインターネットの姿に近づきます。1990年代になると、OSとブラウザを一体化してインターネット接続機能を強化したWindows95やWindows98の登場により、パソコン革命はインターネット革命へと展開していきます。
インターネット革命が不可視化したものは、ネットワークで繋がれた無数のコンピューター群です。インターネットを介して、かつてメインフレームをタイムシェアリングで分け合っていたように、インターネットのユーザーは遠隔地にあるコンピューター(サーバー)の機能を利用できるようになりました。インターネットのユーザーは、手元のスマホやパソコンからインターネットに接続し、接続先の複数のコンピューターを利用しながら、手元のデバイスのことだけを意識していればいいのです。
ベゾスのアマゾン社に代表されるIT企業は、このユーザーから不可視化された領域を開発することで利益を生み出していると言えるでしょう。
※次回は12月1日配信予定です。