書物と貨幣について考えるために、不可視化(ブラックボックス化)の技術を辿ってきました。モバイル革命とインターネット、パソコン革命を前回まで取り上げてきました。今回は、20世紀を通して発展した電子取引を中心にみていきます。
インターネットとパソコンが革命を起こすよりも前、20世紀では金融市場で電子取引が導入され、取引が加速していく一方で、19世紀までは自明とされていた金本位制が解体されていきました。
20世紀の世界は2度の世界大戦を経験します。1900年頃に15億人程度だった人口が1950年ごろには25億人、そしてその後の半世紀で最終的に60億人を上回るまでに増加します。人口増加によって世界の市場は拡大し、それにともなって金融市場も拡大しました。貨幣の額面に対して決められた量の金や銀と交換(兌換)する本位制度が廃止され、より流動的な管理通貨制度へと貨幣の制度が切り替わり、金融市場には電子取引が導入されたことで取引は加速し、また取引量も増大していきます。
100年前の制度改革を概観することにどのような意味があるのでしょうか。それは、その改革によって何が不可視化されたのか、つまりそこにどのようなブラックボックスが生まれたのかを見出すためです。
先取りしていえば、20世紀の後半に進行した金融市場の電子化と、それに先立つ金本位制度の廃止および管理通貨制度の導入は、ともに貨幣そのものの不可視化の端緒だったと言えます。これは21世紀初頭のいま、私たちが経験している、そして今後経験することになるキャッシュレス化の前触れだと言えるでしょう。
商品通貨と信用通貨
1971年、当時のアメリカ大統領リチャード・ニクソンは金とドルの兌換停止を宣言しました。兌換とは、金や銀などの貴金属と、通貨を一定量で交換することです。2度の世界大戦を経て疲弊していたヨーロッパをはじめ、世界各国の政府はそれぞれが発行している通貨に見合うだけの貴金属を確保できなくなっており、第二次世界大戦末期に金とドルの交換レートを固定する体制になっていたのです。
どうなっていたかというと、兵器の開発や戦線を維持する補給のためにいわゆる「戦費」が必要になります。この戦費を賄うために政府は貨幣を発行するのですが、戦争になったからと言って都合よく貴金属が増えるわけもなく、国内での貨幣と貴金属のバランスは崩れていきます。そのままでは国際経済全体の均衡が危うくなるので、これを回避するため、自国内に大きな損害を受けていない大国としてアメリカが貨幣と貴金属のバランスを保つ役目を担うことになっていたのです。
通貨の意味合いを大きく変化させることになるこの宣言が世界に与えた衝撃は「ニクソン・ショック」と呼ばれます。
この時代、通貨は交換のための媒体として考えられており、金との兌換はその裏付け、価値の保証として必要だと考えられていました。第二次世界大戦後、アメリカはいわば世界の金庫番の役割をになっていたのです。ニクソンの宣言は、アメリカがこの役割を放棄することを意味するものでした。
ところで、これとは別に通貨(貨幣)、つまりお金を、ある特別な商品として考える通貨観(貨幣商品説)があります。この説で貨幣は商品貨幣と呼ばれます。この考え方によれば、通貨が登場する前には人々は物々交換で経済活動をしていたのであり、そこでは売り手が提示する商品に見合った商品として貴金属が使われ、その重さ(量)が数値としてその商品の価値となったというのです。
これに対して、近代貨幣理論が依拠しているのは、「債務証書」としてのお金という考え方です。貨幣が使われたのは、物々交換で買い手の手元に商品の代わりに差し出すモノの持ち合わせが無い場合で、その代償が無いときに使う「借り」を記述したものが貨幣の端緒だというのです。この「信用貨幣」という考え方に立脚すると、「いつか借りを返す」という約束が成立してさえいれば、金による裏付けはもともと不要だったことになります。この考え方の立場からすると、1971年のニクソンの宣言は貨幣の本質から考えて必然的だったとも言えます。
この画期的な宣言以降、世界経済は貴金属による兌換なしで、各国の政府と銀行の「信用」を裏付けにして営まれていくことになりました。
貨幣への攻撃
現在、普通の人が物を売買する実体経済と、株式や公債を取引する金融経済との規模の差は驚異的なものです。株式の時価総額だけでも総額は89兆ドル(約9400兆円)。これに対して、実体経済は金融経済の十分の一の規模しかないと言われています。
この乖離は1980年代から始まり、21世紀に入ってからさらに加速しており、国際通貨基金(IMF)などがますます大きくなる実体経済と金融経済の乖離に対して警鐘を鳴らしています。他方で、巨額の金融取引には世界経済を維持し活発化させる役割があるとする見方もあります。
『ファイト・クラブ』で金融センターの高層ビル群が爆破されたのは、そのビルの中に設置されていたであろう何百台というコンピューターを、その中のプログラムごと破壊するためだったかもしれないし、『ダークナイト』のジョーカーが大量の現金を燃やしたのは、現金の発行量を政府と中央政府が管理する管理通貨制度にダメージを負わせるためだったのかもしれません。
なお、現代でも貨幣の破壊は罪に問われます。たとえば日本には「貨幣損傷等取締法」という法律があり、貨幣を損壊したり鋳潰したり、またはそのために集めたりすると、「1年以下の懲役又は20万円以下の罰金」を課されます。1984年、フランスの人気歌手でプロデューサーでもあったセルジュ・ゲンズブールはフランス国営テレビの生放送中に500フラン紙幣に火をつけ灰にしました。また1994年には、イギリスのバンドThe KLFが100万ポンドの紙幣に火をつけ、その大半を焼きました。『ダークナイト』のジョーカーの行為は彼らが現実に行った犯罪行為を映画という虚構内で再演したものと考えることもできるでしょう。
貨幣を勝手に印刷したり鋳造したりすることは贋金づくり、貨幣の偽造という罪に問われます。金本位制ではなくなっている現在、政府や中央銀行という「お墨付き」を与える特権の無い立場の者が貨幣を作って使用すると、流通量の管理ができなくなるためです。これについては現代美術家の赤瀬川原平が千円札の片面を印刷した作品が問題とされた1963年の「千円札裁判」が有名です。
電子取引とバブル
ニクソン・ショックと並行して進行していたのは、証券取引所の電子化(金融市場の電子化)です。1980年代には国際的な金融市場の中心のひとつであるロンドンの取引所が既に電子化されていました。証券取引所はコンピューターによる取引に対応し、これが先述のクオンツのようにコンピューターとプログラムを駆使するファンドを生み出すことになります。このコンピューターと電子取引のネットワークによって、1987年には株価の大暴落(ブラック・マンデー)が発生しています。
ブラック・マンデーののちに、日本ではそれまでの高度経済成長の結果として都市部の地価が高騰、いわゆる不動産バブルの状態になりました。このバブルは、1990年に発表された土地関連の融資に対する引き締め(総量規制)などにより急激に縮小、いわゆるバブル崩壊となり、現代まで続く不況の引き金となったと考えられています。
日本の不動産バブルが崩壊したあとも、世界ではインターネット関連企業に対する期待が高まり、2000年に向けてインターネット・バブル(ハイテク・バブル、ITバブル、ドットコム・バブル)と呼ばれる状態になっていきます。アップル創業者でありながら内紛によって取締役を解任されていたスティーブ・ジョブズは、90年代末にアップルの暫定CEOに返り咲き、1998年にパソコンiMacを発売、世界的大ヒットを生み出します。ジョブズはのちの2001年にiPod、そして既に触れた通り2007年にはiPhoneを世に送り出し、パソコン革命、インターネット革命をモバイル革命へとつなげていく役割を果たします。
パソコン以前のコンピューター
第一次世界大戦で初めて登場した戦闘機の威力は、第二次世界大戦ではいっそう重視されるようになりました。ドイツとイギリスはともに莫大な費用をかけ、自国の英知を結集して戦闘機や爆撃機を開発します。そして、敵国が開発した航空機による攻撃を回避するために、対空砲が活躍します。
対空砲は、空中を高速で移動する敵機に対して砲弾を命中させる必要があるため、複雑な弾道計算を必要とします。当時は「コンピューター(計算者)」と言えばこの弾道計算を行う人員を指していました。
既に軍事的には実用化されていた電信技術による遠隔通信を傍受するという情報戦も展開されていました。敵国に自国の重要な機密を漏らさないために各国は競って暗号を開発します。暗号技術の開発は同時に暗号解読技術の開発でもあります。ドイツの有名な「エニグマ」は解読不可能と思われた最強の暗号機でしたが、イギリスのアラン・チューリングらによって解読のための理論が構築されることになります。
チューリングが開発した暗号解読機械は、その後の本格的なコンピューター発明の基礎のひとつになったと言われています。
このようにして開発が始まったコンピューター(電子計算機)は、1950年頃に商用化され、巨大な「メインフレーム」と呼ばれるものを生み出します。1970年代以後、産業の主軸は小型化したパソコンへと移っていきますが、メインフレームは現在でも製造され使用が続けられています。
膨大な量のデータを使って「計算」をするコンピューターの登場により、高度な計算はこれ以降「不可視化」され、世の中に徐々にブラックボックスとしてのコンピューターが普及していくことになります。その結果、現在は至るところに「計算」が埋め込まれ、人々はそれを意識しないまま暮らすようになっているのです。
近い将来、私たちの身の回りにはさらに多くのコンピューターが設置され、様々な「計算」が不可視化されたまま行われるようになることが予想されています。いわゆるIoTですが、これはかつてユビキタス・コンピューティングとも呼ばれていました。
第一次世界大戦と経済
1914年に勃発した第一次世界大戦は、近代兵器の投入、近代的な情報技術の活用などによって、当時における人類史上最大規模の戦争となりました。
産業革命の結果としてかつてなく緊密に結びついていた「世界」は、結びつきの過程で軋轢を蓄積させ、第一次世界大戦という暴力的な衝突のかたちで、そのツケを急速に「精算」しようとしました。その「精算」は、第一次世界大戦だけでは完了せず、第二次世界大戦、その後の冷戦や現代にも禍根を残しており、いまだに「負債」として私たちに担わされています。
19世紀末までに産業革命の先進国として世界帝国を築いていたイギリスは、ドイツの躍進を警戒しドイツを包囲するべくフランス、ロシアと結びつきを深めていきます。この時期、世界を覆いつつあった通信網はフランスのアヴァス社、イギリスのロイター社、そしてドイツのヴォルフ社の三社の系列に集約されていきます。なお「通信社」とは、新聞や雑誌に掲載する情報や企業向けの情報を取りまとめて配信する組織のこと。現在の日本で有名なのは共同通信社や時事通信社ですが、広告代理店として世界的に知られるようになった電通も、もとは日本電報通信社という通信社でした。
第一次世界大戦は、ドイツが世界に進出することをイギリスをはじめロシア、フランスが押さえつけるかたちで引き起こされました。ドイツとオスマントルコとのあいだには、オーストリア=ハンガリー、ブルガリアがありますが、これらの国は第一次世界大戦ではドイツ側について参戦しています。
ドイツからオーストリアハンガリー、ブルガリア、そしてオスマントルコという国々の「連なり」を、それを包囲するイギリス、フランス、ロシアが「押さえ込もう」とした、第一次世界大戦はヨーロッパの地図の上ではそのように見える戦争です。
しかし、このヨーロッパでの「押さえ込み」の戦争が、ヨーロッパの各国が植民地化していた世界の各地でも戦われることになります。ヨーロッパの戦争が世界各地に広がっていったことはよく「飛び火」と形容されます。その飛び火の広がる速さはまさに世界中を網目のように覆いつつあった電信の普及と発達によって加速されていたのです。
大恐慌から第二次世界大戦へ
1919年のベルサイユ条約で正式に第一次世界大戦が終結します。戦禍に巻き込まれることなく戦勝国となったアメリカには「狂騒の20年代」、あるいは「ジャズ・エイジ」と呼ばれる時期が到来します。当時流行し始めていたジャズをBGMに、公的には禁止されていた酒を飲んで浮かれ騒ぐ時代です。第一次世界大戦直後には深刻な不況があったのですが、それに続く約十年間、アメリカの連邦準備制度は企業に積極的に融資を行い、金融市場はかつてない好景気を迎えます。
株式市場は高騰を続け、あらたに投機家になる人が続出しました。この時期、証券会社に借金をして投機を行う「信用買い」が広く行われるようになります。多くの人々が、証券の価格上昇を見込んで借金をしていたのです。
一方、第一次世界大戦で敗戦国となったドイツは、戦勝国に対して賠償金として千数百億金マルク(純金換算で45,000トン以上)を支払う条約を締結させられることになりました。この金額はドイツの当時の年間国民総所得の2倍以上であり、現実的に支払い可能なものではありませんでした。
1914年の第一次世界大戦勃発時に金本位制を離脱していたドイツは紙幣を濫発しており、これに非現実的な賠償金の請求が追い討ちをかけた結果、ドイツの物価水準は開戦前の25,000倍まで高騰しました(ハイパー・インフレーション)。のちに第二次世界大戦を引き起こすアドルフ・ヒトラーがナチスを率いておこしたミュンヘン一揆はこの時期のものです。
ドイツのハイパー・インフレーションはその後、アメリカの介入で新しくライヒスマルクという通貨が発行されいったん終息、ドイツも金本位制に復帰します。しかし1929年、既に世界金融の中心地のひとつになっていたウォール街で株価が暴落します。この暴落はとどまるところを知らず長期化し、投機で増大していた人々の資産を一気に目減りさせ、いくつもの企業が連鎖的に倒産することになりました。この大暴落に続いて、世界各地の金融市場が長期的な不景気に陥りました。大恐慌、もしくは世界恐慌と呼ばれる現象です。
大恐慌の原因については諸説あります。そのうちのひとつに、第一次世界大戦前までは世界の基軸通貨であったイギリスのポンドとフランスのフランが、アメリカのドルにその座を譲ったことを原因とする説があります。当時の金本位制は各国が保有する金によってそれぞれの通貨を兌換するものでした。ドルは新たに国際経済の基軸通貨となりましたが、この時代のアメリカは戦後の好景気に沸き返っていました。複数の原因が考えられる大恐慌ですが、この時期の世界の基軸通貨となったドル経済が暴走気味だったことは無視できません。
第一次世界大戦前までは、通貨はその額面に対して法律で決められた重さの純金との交換(兌換)が定められていたのですが、戦争のための膨大な費用を捻出するために各国は金本位制を離脱しました。その後、各国は金本位制を復活させようと試みますが大恐慌によって諦めざるを得なくなります。
1930年代にはにイギリスが、そしてアメリカとフランスが、相次いで金本位制を廃止しました。それまでの200年間、欧米の物価はほぼ変化しなかったのですが、世界大戦の時期に物価が3倍に高騰したのです。
『21世紀の資本』と文学
日本でも大ベストセラーとなった『21世紀の資本』でトマ・ピケティは、19世紀までの世界と20世紀、とりわけ第一次世界大戦以降の世界との違いを、文学作品における登場人物の財産や収入の書き方に見てとっています。
「r>g」つまり「資本収益率」が「経済成長率」よりも常に高く保たれてきたことを歴史的に辿った『21世紀の資本』は退屈に思われがちな経済学と歴史学の記述について、文学に絡めたりドラマや映画に言及したりしながら語っており、この語り口の軽妙さも読みどころだと思います。
ピケティは、オノレ・ド・バルザックのような19世紀の自然主義の作家が登場人物の描写にその資産や収入を具体的に書き込んでいたのに対して、それ以降の時代の作家が数字を明確に書かなくなっていることを指摘しています。これは、19世紀までは金本位制によって各国の通貨の価値が比較的安定しており、資産や収入について書くことでキャラクターをわかりやすく描写できたという事情があったからだ、とピケティは書いています。これに対して、金本位制が揺らぎ始める第一次大戦以降は物価や所得のことを書くのは文学者にとって退屈きわまりないことになった、というのです。既に述べたように、20世紀にはいってから物価の変動はますます激しくなり、登場人物の所得を明記しても、それがどれくらいの所得なのかを読者が把握しにくくなったために「退屈」になった、とも言えます。
なおピケティは言及していませんが、文学と金本位制の崩壊についての関係は、哲学者のジャン=ジョゼフ・グーが『言語の金使い』という本で論じています。
20世紀文学と貨幣
第一次世界大戦が終結した翌年に発表された芥川龍之介の短編「魔術」は、インド独立運動の活動家ミスラから魔術を学んだ主人公が、銀座で友人たちに魔術を披露するという物語です。
暖炉の石炭を金貨に換えて友人たちを驚かせた主人公は、友人からその金貨を賭けたカルタ(トランプ)ゲームを挑まれます。その場にいる友人たちの燻らせる葉巻の煙が立ち込めるなか、「欲を出せば魔術は使えなくなる」というミスラの警告を胸に賭けに勝ち続けた主人公でしたが、負けのこんだ友人から最後の勝負に「地面も、家作も、馬も、自働車も、一つ残らず」と自分の財産すべてを賭けると言い出され、つい欲をかいてしまいます。その途端、主人公はミスラの家で我にかえり、銀座の場面がほんの2、3分の夢だったと気がつくというのがオチになっています。
いわゆる夢オチなのですが、石炭が産業革命を加速させたエネルギー源だったこと、銀座が当時としては新しい街であり、またその名の示す通りもともと銀貨の鋳造をおこなっていたこと、そしてこの時期に金本位制が動揺していたことを考えると、コンパクトな構成に複層的にモチーフを織り込んだ作品であることがわかります。なお19世紀のオカルティズムを主導したブラバッキー夫人ら神智学協会はインドに拠点を置いて活動し、イギリスの植民地の立場から独立しようとする愛国主義者に支持されていました。この作品の主人公に錬金術のような「魔術」を教えたミスラがインド愛国主義者として登場しているのも、このような背景をうけてのことかもしれません。
また、1925年にフランスでアンドレ・ジッドが発表した『贋金づくり』も金本位制から管理通貨制度への転換期の動揺を描いた作品でした。ジッドは夢オチの手法は使っていませんが、作品名と同名の作中作を登場させたり、手紙や日記の記述を挿入させるなどメタフィクション的な手法を果敢に採用し、現実と虚構、金本位制的なものと管理通貨制度的なものとが入り乱れ、何が本物なのかが決定困難になる状況を描き出そうと試みていました。
さらに後の時代でも、1973年に刊行されたミヒャエル・エンデの児童文学作品『モモ』では、人々から「無駄な時間」を掠め取り葉巻のように燃やしてしまう「時間泥棒」が登場します。エンデは膨張を続ける資本主義経済に疑問を抱き、額面の価値が時間経過にともなって減っていく貨幣を導入した経済理論を研究していました。
管理通貨制度と電子化が不可視化したもの
管理通貨制度に移行する前の制度である金本位制度などの本位制度は、貨幣と貴金属とを交換する(兌換する)という建前に基づく制度です。本位制度下での貨幣は、兌換可能な貴金属を不可視化していました。なぜなら、偽造の可能性や、精度を維持する政府が兌換可能な貴金属を十分に保持していない可能性など、約束されてはいるものの本当に兌換が可能かという点について、貨幣には常に疑念がつきまとうからです。貨幣は、その疑念ごと、兌換される予定の貴金属「そのものではない」ということを不可視化しているのです。
これに対して、管理通貨制度を維持しているのは、その貨幣の量を管理する政府に対する信用です。貨幣は兌換されるかどうかという疑念から解放され、政府が流通量を管理することで価値が維持されるという信用を裏付けにして使用されるようになります。つまり貨幣は今度は、政府が流通量の管理に失敗して、価値が暴落するかもしれない、という疑念を不可視化する能力を持たされることになります。
他方で電子取引は、それ以前は限られた取引人の手作業に限定されていた証券取引を、機械化し高速化しました。これによって最初に不可視化されるのは、取引所への「距離」です。遠隔地からでも証券を取引することができるようになり、これにともなって「時間」も不可視化されることになります。それまで証券取引所で取引をするには、取引所まで移動する必要があり、その移動に時間もかかったからです。さらにコンピューターがこの電子取引に接続されたことにより、「計算」が不可視化されることになります。
管理通貨制度への移行と、証券取引所の電子化によって、貨幣は信用を不可視化したブラックボックスとなり、金融は距離と時間と計算を不可視化したブラックボックスとなりました。