カネは書物、書物はカネ 情報流通の2つの顔 第8回

文字と言葉と数、そして金融の始原へ

永田 希(ながた・のぞみ)

 中世以前の世界では、どのような情報流通がおこなわれていたでしょうか。そこでは何が不可視化され、どのようなブラックボックスが生まれてきたのでしょうか。
 2世紀ごろの中国(後漢)では、文字を書き記すメディアとしての紙が登場しました。紙の「発明」がなければ、のちの紙幣も、印刷物の大量出版もありえません。さらに遡ると紀元前7世紀頃に、中東で人類初の金属貨幣が誕生します。文字が刻印された貨幣の登場です。
 それ以前は、紙も貨幣もなかった時代です。粘土板や青銅器、呪術用(占卜用)の亀の甲羅や獣の骨に刻まれる文字が生まれ、文字によっていわゆる度量衡が整備され、天候や吉兆を占うための天文学が進歩しました。
 文字が発明される前には、人々は話し言葉だけを持っていました。生きていくための知恵は世界という暗号からパターンとして読み取られ、口伝えで語り継がれてきました。神話と伝説の時代、語り部の時代です。以下ではその道筋を辿っていきます。

 

流通の加速

 産業革命とその前後の時代から現代まで、人口は増え続け、通信や移動の技術が発達してきました。金融や出版もそれに伴い規模を拡大し、流通の速度を加速させていきます。産業革命の条件は複数考えられますが、事業を推進するための資金が株式によって集められるようになったことがそのひとつとして挙げられます。西洋に紙幣が登場するのはこの時代です。
 紙幣を発明したのは中国でした。紙幣登場後、中国からは硬貨が他国に流出していきます。当時の王朝の名前をとって宋銭と呼ばれる中国の硬貨はシルクロードを経由して遠くアフリカにまで到達していました。
 紙幣の登場は、経済活動の活発化を促しました。溶かして金属塊にすれば商品になる硬貨と異なり、紙幣はそれを公認する政府の信用なくしては単なる手形に過ぎません。経済活動の加速という効果によって紙幣というブラックボックスは、政府に対する不信を不可視化したといえるでしょう。
 紙幣にお墨付きを与える政府を信用しなければ紙幣を使うことはできません。なぜならば政府を信じていなければ、そこにあるのは紙幣ではなく単なる紙切れだからです。経済活動のなかで紙幣のお墨付きに対していちいち疑っていては商いはできません。逆に言えば、仮にそれが贋札だったとしても、そのことが露呈しないようであれば、その場の取引は成立します。
 中世の日本(平安時代から戦国時代)には、中国から輸入した宋銭が金属貨幣(硬貨)として流通します。じつは宋銭以前に日本独自の硬貨が何度も発行されていたのですが、これは普及しませんでした。中国の宋王朝は日本で鎌倉時代が始まるよりも前に滅亡しますが、その後も宋銭は日本国内で流通し続けます。これは、海を隔てた遠方からやってきたことが宋銭の権威づけとなったためだと思われます。貨幣の発行元の信用を不可視化するブラックボックスとして「距離」が機能した例です。
 平安時代、宋から輸入した印刷本「宋版」を藤原道長が天皇に献上したのも、同様の権威づけ機能を利用したものと言えるでしょう。
 ところで、一般に中世は東西の往来がなかった時代としてイメージされがちです。たしかに高速船や飛行機、鉄道もなければ安定した国際郵便の制度もなく、現代のようなインターネットやテレビ、国際電話網どころか、電報のような初期の電信技術すらありませんでした。しかし長いスパンで眺めれば、太古の昔から人類は大陸や大洋をわたり、東西南北で文化的に交流していました。
 その何よりの証拠は、まず何と言っても地球上のほぼあらゆるところに人類が住んできたということが挙げられます。人類学の研究によって、地球上の人類はアフリカ大陸で種として誕生してから他の大陸へと広がっていったことがわかっています。200万年前に北アフリカで発生した人類は、やがて言語を獲得しアフリカ大陸から他の大陸に拡散していきます(いわゆるグレート・ジャーニー)。人類の起源や言語の起源については人類学でまさに今日も研究が続けられており、学説もさまざまで確実と言えるものはまだありません。それらはいまなお正真正銘、掛け値なしのブラックボックスだと言えるでしょう。

製紙法の改良と硬貨の登場

 さて、まずは2世紀ごろの話です。当時の中国を治めていたのは漢王朝。中国最初の統一王朝である秦が滅亡し、再度これを統一した王朝です。西暦8年から23年まで国号が「新」に変えられていたので、これを境に西暦8年までを前漢、西暦25年以降を後漢といいます。しばしば「紙の発明」として言及されるのは、この後漢の時代、蔡倫という宦官が質の良い実用的な紙を皇帝に献上したことを指しています。もっとも植物の繊維を砕いて漉いた「紙」はこれ以前の時代の遺跡からも出土しており、蔡倫は紙の発明者ではなく、製紙法の改良者だったとする説が現在は通説になっています。
 蔡倫の製紙法で作られた紙は「蔡侯紙」と呼ばれ普及しました。蔡倫以前の紙は脆くて書字には適さず、もっぱら包装用に使われていたと考えられています。蔡倫以前、文字は紙ではなく、木や竹を薄く細く切ったものを紐で繋いだ木簡や竹簡、そして絹に書かれていました。木簡や竹簡、絹は嵩張ったり高価だったりしたため、蔡侯紙が普及して以降の中国、そしてのちに中国の製紙法が普及した地域では、紙が書字メディアの取り回しの不便さを忘却させる、つまり「不可視化」したと言えるでしょう。これはちょうど、現在の社会でそれまで紙ベースで生じていた面倒事が電子化によって不可視化されていることとパラレルな出来事だといえます。
 漢代の中国にはまだ紙幣はなく、型に溶かした金属を流し込んで作る鋳造貨幣が使われていました。また一部では、装飾や埋葬用の呪物としても使用されていたタカラガイという種の貝殻が貨幣として使われていたことが伝えられています。
 人類初の金属貨幣はユーラシア大陸の西に目を移し、遠く中東、現在のトルコ共和国に位置するリュディア王国で紀元前7世紀頃に作られました。砂金がとれる地方だったので、その金の粒の重さをはかり、その重さと動物などの図像を刻印し、王国政府が品質を保証していました。これをエレクトロン貨といいます。
 それまで金を市場で使うときには都度、秤で重さを計量していたのですが、重さの刻印があり王国が品質を保証しているエレクトロン貨であれば、都度の計量の手間を省くことができます。あらかじめ重さを刻印された金属貨幣は、いわば都度の計量という手間を不可視化しているのです。
 なお、ほぼ同時期の中国(春秋戦国時代)では、鋤や刀などの実用品の形を模した鋤貨、刀貨が作られていました。実用品による物々交換から、携帯性を追求して小型化したものではないかと考えられています。鋤貨や刀貨は、それぞれが模した実用を用途を不可視化し、経済活動のためだけに小型化したものだと言えるでしょう。
 これらの硬貨は商取引で都度、判定される商品の価値を不可視化するブラックボックスだとも言えるでしょう。エレクトロン貨が不可視化した、取引の際の毎度の計量という手間や、鋤貨や刀貨が不可視化した実用品の用途は、商取引の際に商品の価値を硬貨の額面というブラックボックスに収納するために不可視化されたのです。
 商品とその価値は、硬貨の登場によって、かつてなく厳密に数値化されることになります。硬貨のない時代の商品の価値は、その品質と市場でどれだけ求められるか(需要)、さらに品質と需要の兼ね合いのなかでその量が考慮されて決まっていたと思われます(硬貨の登場後も、これらを考慮せずに市場価値が定まっていたとは考えにくいのですが)。
 硬貨は、鉱山による算出、発行益、そして貯蔵が可能となったことで、市場取引を安定したものにしました。硬貨が登場するよりも前の経済は物品経済といい、そこでは価値の尺度は、硬貨が普及する前の日本であれば絹、あるいは家畜や農作物の種子などではかられていました。硬貨が登場することによってこれらの物品にも価格が付与され、貨幣経済のなかにとらわれていくことになります。さまざまな商品を取引できる共通の単位としての価格が登場することによって、のちの計画経済や財政が可能になったのです。
 2世紀以降の中国で普及した「書字媒体としての紙」もまた、原料となる木材や木綿を不可視化したといえます。原料を不可視化し、また取って代わる先行の書字媒体を不可視化するものとして紙は登場し、その後、現在に至る約2000年の歴史を歩み始めたのです。
 蔡倫以降も製紙法は改良を重ね、紙の価格は時代を追って低下します。改良された活版印刷技術と産業革命を経て、紙は貨幣や書籍の材料として、それらの桁外れとも言える大量生産を可能にしていくのです。

ディオニュシオス1世の改鋳

 このように、2世紀ごろの中国で実用的な製紙法が登場し、そのさらに数世紀前には中東と中国でそれぞれ硬貨が誕生していました。紙は安価で取り回しのきく書字媒体として、硬貨は経済活動の円滑化のために活用されたのです。紙も硬貨も、いずれもそれ以前にあった不便を克服し(すなわち「不可視化」し)、現代まで続く人間社会の繁栄に寄与しました。
 リュディア王国から始まった硬貨発行はさらに西の地中海に伝播し、ヨーロッパでも貨幣経済が開始されます。紀元前5世紀から紀元前4世紀ごろ、現在のイタリア、シチリア島にあったシラクサという都市で僭主の地位にあったディオニュシオス1世は、市民たちからの借金で首が回らなくなったため興味深い対策を採用しました。市民たちを脅して貨幣を供出させ、もともとの額面の倍の額を上から打刻し、受け取った半分を返却するというものです。そうすることでこの都市の豊かさは何も変わらないまま、流通している貨幣の額面が突然倍になったのです。倍額を打刻したことによってディオニュシオスは貨幣の発行益をまるまる得たことになります。
 ここで重要なのは、ディオニュシオス1世が倍額を打刻するという発想を得たということです。貨幣の額面が、その重さや実用性と結びついていたら、額面を変えるだけでは役に立ちません。通貨の単位がこの時点では確立されており、貨幣の重さや実用性を不可視化していたことが指摘できるでしょう。この不可視化があったからこそ、のちに極めて軽量で、燃やすくらいしか実用性のない紙幣や、実体がほぼ存在しない電子貨幣のようなものが登場できるのです。
 ディオニュシオス1世の時代の通貨の単位は「ドラクマ」でした。ドラクマは紀元前6世紀ごろから紀元前1世紀まで長きにわたり、地中海世界で広く使われ、イランやインドまで広がっていました。鋳造の際には品質を保証するために額面あたりの重さが決められています。つまり、ディオニュシオス1世は勝手に通貨を改鋳したことになります。シラクサの市民は他の都市との交易の際、価値が半分になった硬貨を使用せざるを得ず、信用を失ったのではないかと考えられます。
 ところで、通貨の価値と重さに対応関係を持たせるためには、それぞれについて「単位」というものの制定が必要になります。いわゆる「度量衡」です。度量衡は中国を初めて統一した秦で使われた言葉で、長さ(度)・体積(量)・重さ(衡)の基準を定めた制度を指します。地中海世界でも古代メソポタミアから伝わった60進法に基づく度量衡がエジプト経由で導入されていました。
 度量衡は、租税の取り立てを管理するために必須のものです。何をどれくらい、いつまでに納めるかということは、長さ、重さ、体積の単位なしに布告することができないからです。また、取り立てるものの単位を定めても、自国にどれくらいの民がいるのか、彼らがどれくらい豊かなのかを把握しなければ、適切な課税量を検討できません。過重に取り立てれば民は疲弊し、国家を栄えさせることができないからです。このため、漢でも古代ローマでも国勢調査が行われました。
 そして当然、「いつまでに納めるか」を定めるために暦、つまりカレンダーが必要になります。暦は、民の側でも農作物の種播きや収穫などの段取りのために必要ですし、交易をする商人たちも時期によって農作物の量が変わったり、貿易のための風向きが変わったりするために必要になります。はやくから人類は天体の動きの法則性を見出し、その周期性をもとに暦を作っていました。

文字と数が不可視化したもの

 度量衡、国勢調査、暦などの整備によって、広い範囲を勢力下に収める帝国が出現したのが、人類最古の文明のひとつといわれる古代メソポタミアです。現在のイラク共和国の一部にあたるチグリス川とユーフラテス川の流域、メソポタミア地方に紀元前7世紀から遥か紀元前5000年代まで遡る歴史を持つこの文明の遺跡からは、現存する人類最古の「書物」が出土しています。紀元前3300年ごろに作られたと思われるその「書物」は、取り立てた税のリストつまり帳簿だと考えられています。
 この粘土板には人の名前と思われるものや、動物や食料品が数字とともに楔形文字で刻まれています。これより古い出土品に文字の書かれたものが発見されていないため、このころ文字が発明されたと言えます。
 古代メソポタミアの人々は文字を粘土板に刻むようになる前には、トークンと呼ばれる粘土玉を作って税収の管理を行なっていました。このことをもって、文字よりも先に数の概念があった、と言うこともできるでしょう。紀元前18世紀に成立したハンムラビ法典には、貸し借りの際の利子についての項目があります。つまり貨幣が生まれるよりも前から金融が行われていたと言えるのです。
 金融の起源について語るために、少し遠回りしましょう。紀元前5世紀から4世紀の古代ギリシアの哲学者プラトンは、その著作『パイドロス』(以下、引用はプラトン『パイドロス』、藤沢令夫訳)で自らの師ソクラテスと友人パイドロスの対話を描きました。このなかでソクラテスは古代エジプトの神話を参照しつつ、言葉のふたつの在り方について語ります。
 ソクラテスの語る神話は次のようなものです。古代エジプトに住んでいたテウトという神は「算術と計算、幾何学さらには将棋と双六を発明した神」でした。このテウトが、当時のエジプトの「王様の神」タモスに文字を発明したことを告げ、エジプトの人々に広く伝えることを勧めます。テウトが発明したさまざまな技術を吟味したタモスは「文字の発明」には苦言を述べます。
 テウトは文字を学べば、人々の知恵は高まり、物覚えは良くなるだろう、と主張したのですが、タモスはテウトの発明の才を讃えつつも、文字によって人々は「記憶力の訓練がなおざりに」なり、「彼らは、書いたものを信頼して、ものを思い出すのに、自分以外のものに彫りつけられたしるしによって外から思い出すようになり、自分で自分の力によって内から思い出すことをしないようになる」と指摘します。

 注目したいのは、このくだりに続けてソクラテスが次のように語ることです。いわく「絵画が創り出したものをみても、それは 、あたかも生きているかのようにきちんと立っているけれども、君が何かをたずねてみると、いとも尊大に、沈黙して答えない 。書かれた言葉もこれと同じだ。それがものを語っている様子は、あたかも実際に何ごとかを考えているかのように思えるかもしれない 。だが、もし君がそこで言われている事柄について 、何か教えてもらおうと思って質問すると、いつでもただひとつの同じ合図をするだけである。それに、言葉というものは、ひとたび書きものにされると、どんな言葉でも、それを理解する人々のところであろうと、ぜんぜん不適当な人々のところであろうとおかまいなしに、転々とめぐり歩く」 ソクラテスはこのような「言葉」を非難し、そうではない言葉があるとパイドロスに問いかけます。この問いかけに応えてパイドロスは「ものを知っている人が語る、生命をもち、魂をもった言葉のことですね。書かれた言葉は、これの影であると言ってしかるべきなのでしょう」と言います。
 ソクラテスはこのやりとりから、知を愛すること(フィロソフィア)と、見せかけだけの博識とを区別し、前者は「いきいきとした語らい」をするが、後者は「死んだ言葉」をありがたがる、われわれは前者でなければならないと言います。哲学(フィロソフィー philosophy)の由来になる有名なくだりです。
 タモスが苦言を述べ、ソクラテスが非難している「死んだ言葉」は文字として彫りつけられ、問いかけてもまるで絵画のように沈黙をするか、書かれたことを繰り返すのみです。これに対して、「魂をもった言葉」はいきいきとして「語らい」をすることができるのです。
  タモスやソクラテスの態度は、新しい技術が登場するたびに連綿と人類史上で繰り返されてきた保守的な態度そのもののようにも見えます。また、書かれた言葉と話し言葉に不一致を認めてこの差異を埋めようとするのは、口伝えの物語を取り込もうとした中国の白話小説や、ルネサンス期イタリアや明治期日本など世界中で起きた言文一致運動をも思い起こさせます。

文字は「多様性」を不可視化する

 問題は「文字が何を不可視化したか」です。それはごく単純化していえば、文字以前にあった固有の存在がもつ多様性です。たとえば「ウシ1頭」と書いた場合、そのウシはオスでもメスでも、若くても老いていても、太っていても痩せていても、同じになります。ハナコという名前の、乳のよく出る太った雌牛と、タロウという名前の、年老いて痩せた雄牛が同じものとされてしまうのです。単に「ウシ1頭」と言っている誰かがいるならば、その人に詳細を尋ねて答えを得ることもできますが、単に書かれた文字の場合はそうはいきません。不可視化され、「ウシ1頭」と書いてあるだけのブラックボックスがそこにあるのです。
 『パイドロス』を著したプラトンは、これを書くよりも前にピタゴラスという哲学者を祖とする教団で学んでいました。ピタゴラスはいわゆる三平方の定理を見出した人物として知られています(三平方の定理を「ピタゴラスの定理」と呼ぶことがあるのはそのためです)。
 しかしこの定理については、ピタゴラスよりもずっと前から古代エジプトや古代メソポタミアの人々が把握していたことを示す痕跡があり、本当にピタゴラスが発見したのかどうかは疑問視されています。ピタゴラスは古代エジプトの文化を研究していたこともあり、その影響も指摘されています。
 またプラトンは哲学をはじめさまざまな学問を学ぶアカデメイアという施設を作りますが、これの原型はピタゴラスが率いていた教団にあるともいわれています。『パイドロス』におけるテウトの発明に対するタモスの発言は、ピタゴラスに対するプラトンの批判だとも読めるのではないでしょうか。
 すでに述べたとおり数の概念は、文字よりも先にあったと思われますが、数は他の言葉よりもいっそう「多様性」を不可視化します。さまざまな色の毛並みのウシの集団がいる時に、数はそれが何頭の集団なのかだけを指し示すだけだからです。
 ところで、金融は英語でfinanceと書きます。この英語表記の最初の「fin」は「終わり」を意味しており、お金やモノの貸し借りについて清算することを表します。乳を出すウシを借りた者が、翌年の同じ頃にウシを返すだけでなく、その仔を足して2頭を返さなければ清算できない(終わりにできない)ならば、これは金融です。ウシを貸した者は、1年間は手元からウシ1頭が減りますが、翌年には2頭を受け取れるということになります。
 古代メソポタミアは肥沃な土地で知られており、小麦一粒から二十粒以上を収穫できたと言われています。現代とほぼ同じ水準になる収穫倍率であり、文字通りに受け取ることはできませんが、そのような誇張をしたくなるほど実り豊かだったということです。したがって、農業を新しく始める者や、何らかの不幸で籾種を十分に持っていない者が、他人に籾種を貸せる誰かにそれを借りて、一定の利子をつけて返すということもありました。
 では、こうした「金融」により何が不可視化されたのでしょうか。ひとつは、貸し借りされている籾種の多様性です。そしてさらに、返済されるときの籾種の多様性も不可視化されています。未来のことは誰にもわかりませんから、いかに肥沃な土地であっても不作によって約束の分量を返済できない可能性もあります。
 このように、文字、数、金融はそれぞれ不可視化されたものを内包しつつ人類史に登場し、現代に至るまでさまざまに姿を変えて受け継がれてきました。

文字以前の世界

 最後に、文字が生まれる前の時代のことも考えておきましょう。
 言語が生まれてから、文字が残されるようになるまでの時代は、考古学的に考えるしかない世界です。ところで、読み書き能力は人間に本能的に備わっているものではありません。その習得には教育の仕組みが必要になります。この時代に言葉を人々に教える者が「語り部」でした。
 文字が残されるようになる前のことについては、残された文献から推測するという方法もあります。ただし、文字が発明されてからしばらくは、文字は権力の近くにいる高い階層の人間しか読み書きできないものだったと思われるので、残された文献がそれ以前の語り部の語り継いできた物語をそのまますべて伝えているとは考えられません。文献化する際に、文献化を担った者たちによる取捨選択や整理改変が加えられ、その意図や、切り捨てられたり歪曲させられたりしたものは当然、不可視化されています。

    言語は人間の本能的なものではありません。言葉を教わらないで育てられた子供は言葉を使えないのです。つまり、言語は人類史のどこかで「発明」されたものでした。では、人類は言語というブラックボックスを発明したことで、何を不可視化したのでしょうか。
 それはおそらく、人間を取り巻く自然、世界や環境と呼ばれるものの不安定性です。数字や物語を用いることで、人類は暦を発明しました。暦とは、気温の変化の周期性、動植物の収穫のタイミング、災害の起こりやすさを人類が知るために活用されました。暦なくして人類は、農耕も都市建設も困難だったはずです。暦を作るために人類は天空を眺め、地上の出来事とを結びつけました。
 数の概念を含む言語は、この天空と地上を結びつける領域を作り出し、それを語り継ぐことを可能にします。言語によって語り継がれることになった知識は、年月を経るごとにその正しさを試され、信憑性を帯びるようになったでしょう。信憑性を帯びた物語をもつ人々は、災害を避け、適切な農耕を行えるようになり、原始社会で他の集団よりも力をつけるようになります。
 これを言い換えるならば、人間は自分たちの環境を一種の暗号(code)として捉え、それを解読(decode)してきたのです。その結果をもとに、テウト神やピタゴラスのように計算(compute)を行い、暦を作ったり、金融や農耕、貿易を営んできたのです。
 大急ぎで文明の発祥まで遡ってきましたが、この「読み書き算盤(decoding、coding、computing)」は現代でも続けられています。書物と貨幣をめぐるこの連載がまさに読み解こうとしているのは、この「読み書き算盤とはいったい何なのか」という問題なのです。

 第7回
第9回  

プロフィール

永田 希(ながた・のぞみ)
著述家、書評家。1979年、アメリカ合衆国コネチカット州生まれ。書評サイト「Book News」主宰。著書に『積読こそが完全な読書術である』(イースト・プレス)、『書物と貨幣の五千年史』(集英社新書)、『再読だけが創造的な読書術である』(筑摩書房)。
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