カネは書物、書物はカネ 情報流通の2つの顔 第9回

印象と心像

永田 希(ながた・のぞみ)
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   これまで、書物と貨幣の歴史を遡りながら、情報技術によってさまざまなものの不可視化(ブラックボックス化)が行われ、その都度、前の時代のブラックボックスが次の時代のブラックボックスに収納されて入れ子構造をつくってきたことを見てきました。最終的に、書物と貨幣の原初には文字のない時代の語り部たちによる言語だけの世界があり、数字とともに文字が残されるようになりました。語り部たちはいわば生きた書物であり、原初のブラックボックスです。
 今回からは、人間というブラックボックスを分析した哲学者たちの思索を紐解いていきます。人間は知覚の束だと言ったヒューム、知覚が到達できない「モノ自体」を提唱したカント、そして人間の知覚を構成する言語や記号を論じたソシュールや、ラカン派の理論を紹介します。

目の前にないリンゴをなぜ想起できるのか

 デビッド・ヒュームという哲学者がいます。ヒュームは18世紀のイギリスに生きた哲学者です。同時代人にはドイツの哲学者イマヌエル・カント、イギリスの経済学者アダム・スミス、フランスの啓蒙思想家ヴォルテール、ドゥニ・ディドロ、ジャン=ジャック・ルソーらがいます。
 ヒュームはイギリス経験論哲学を代表する人物の1人です。主著のひとつ『人間本性論』(『人性論』とも訳される。以下、土岐邦夫, 小西嘉四郎訳『人性論』より)で彼は、人間の知覚は印象と観念のふたつに大別されると述べています。ヒュームの言葉の使い方は少し特殊で、印象と観念の区別はそれらの知覚の「勢い」にある、としています。勢いが強い方が印象であり、勢いの弱い方が観念です。
 たとえば果物のリンゴを目にしているとき、勢いを持って目に知覚されるその赤い色が「印象」で、「これは果物のリンゴだ」と思い浮かぶのが観念ということになります。ヒュームは、「心に初めて現れるときの感覚、情念、感動のすべて」を印象と呼ぶ、としています。しかしヒュームは、知覚は印象と観念との二重の表れを持っており、観念が印象の再現としてのちに現れることがあるとも言っています。目の前にリンゴがないとき、つまりその赤い色も手触りも、輪郭もないときにですら、リンゴに触れたことのある人であればリンゴを観念として思い浮かべることができるのは、観念が印象の再現として機能するからです。

知覚の束

 ヒュームはこのような印象と観念という二重性を持った知覚が無数に集まり束になったものが人間である、と考えています。
 印象impressionとは文字通り印刷でプレスpressするように押し付けられたもののこと、そして観念はその二重写し、複写物ということになります。印刷を例に出せば、初刷りが印象で、そのあと同じ版木を用いて増刷されるのが観念ということになるでしょうか。浮世絵のような木版画の場合は、初刷りがもっとも鮮明で、版を重ねるうちに木版が摩滅して質が下がっていきます。あるいは、カーボン紙を使った複写(カーボンコピー)の例を出した方がわかりやすいかもしれません。申し込み用紙などで、名前や住所、連絡先を記入すると、二枚綴り、三枚綴りになった下の別紙にも複写されるアレです。現在の出版の初刷りと増刷は基本的に同じ内容で同じ濃さの印刷になりますが、カーボンコピーの場合は2枚目の複写用紙よりも3枚目の方が、描かれた線は薄くなります。
 なお「カーボンコピー」といえば、電子メールで複数の宛先に送る場合、メインの宛先でない宛先にはいわゆるCCつまりカーボンコピーが送られる場合があります。この場合は何枚(何通)送っても字の薄さは変わりません。
 ともあれヒュームは無自覚的に、人間を印刷物の束つまり「書籍」のようなものとして描写しているのです。

ヒューム、カント、プラトン――それぞれの「観念」

 ヒュームはイギリス人なので『人間本性論』は英語で執筆されました。そこで「観念」はideaと書かれています。プラトンの用語として神秘的な含意とともに論じられたイデアのことです。しかしヒュームの観念は、プラトンが展開したイデア論とまっこうから対立します
 プラトンはまず天上界にイデアがあり、地上の事物はその不完全な似姿に過ぎないと主張していました。真の事物としてのイデアを人間は知覚することができず、人間が認識できるすべての物体は不完全であるというのがプラトンの主張です。ヒュームはいわばこれを反転させてみせたことになります。つまり、人間は知覚(印象と観念)によって世界を認識しており、観念はその知覚の弱い反復に過ぎないというのです。
 ヒュームは『人間本性論』で印象と観念の区別を試みる際に、「心像 image」という概念を知覚perceptionとほぼ同義に使用しています。イメージとは何か、ということについて哲学では長い論争の歴史があります。日本語でもimageは心的イメージ、心象、映像などさまざまに訳されてきました。漢字一文字で「像」と書かれることもあります。仏像、彫像、塑像、写像、映像、などに使われるこの字が意味するのは、神や仏、そのほかのさまざまなものに似せてつくられたもののことです。ヒュームにとっての観念は印象の再現ですが、プラトンはその逆、つまり現実の事物が観念の似姿であるとしていました。
 ヒュームの認識論をさらにおしすすめたカントは、『純粋理性批判』で、人間の感性が何かを知覚しても、その対象「そのもの」いわゆる「モノ自体」には届かないと考えました。プラトンがイデア界と現実界に設けた観念と現実の分断を、カントは現実界において「モノ自体」と感性の分断として反復しているとも言えるでしょう。
 カントによれば、私たちはさまざまなモノを見たり触ったりして知覚することができる(そのような働きが「感性」)のですが、そのような感性での知覚によって捉えることができるのは現象のみであり、そのモノ自体を捉えることはできないのです。カントの哲学はこのように現象と「モノ自体」を区別したことが特徴です。ヒュームやそれ以前の哲学者は経験を分析することはあっても、その経験を俯瞰し、現象と感性とモノ自体とを分けることはありませんでした。
 プラトンがイデア界(観念)と現実界を分断したように、カントは「モノ自体」と現象を分断しました。ヒュームは、これらの分断を印象と観念という強い知覚と弱い知覚、つまり知覚の強弱の違いとして捉えていました。言い換えるならば、ヒュームにおける観念は「弱まった印象」なのです。

人間は印字された「ページの束」である

 ところでさきほど「像」はイメージであり似姿のことだと説明しました。イメージ、心像、映像などと訳されるimageには心象という訳語も使われます。心象風景というような言葉もあります。あきらかに、あの鼻の長い動物のゾウではないこの「象」という字は何なのでしょうか(そういえばカントがモノ自体と区別した「現象」という語にも「象」は含まれています)。「象」という字はもともと、「もののかたち」「目に見えるかたち」およびそれを「かたちづくる・かたどる」ことを指す字でした。森羅万象や気象、現象などの語では「もののかたち・かたどる」の意味で、象形文字や象徴では「かたちづくる」の意味で使われています。
 なお印象という語は、たとえば20世紀初頭の中江兆民の文章で「何かの像を印すること」として、「印象する」という動詞形としても使われています。これは、ハンコそのものを指す「印章」とほぼ同じ使われ方です。
 ここからヒュームの認識論を読み直すならば、人間の認識は「何かの像を印すること」つまり印象と、その弱い反復としての観念が二重写しになった知覚の束だということになります。ヒュームの認識論がもし妥当なのだとすれば、書物を作り出してきた人間自身が、活版印刷でつくられた本のような、経験のひとつひとつによってかたちづくられた記号を印象された「ページの束」であると言うことができるのかもしれません。

言語なしでは人は世界を認識できない

 カントは、自らの哲学的方法を指して「コペルニクス的転回」と呼びました。コペルニクスとは、天動説が信じられていた時代に地動説を提唱した人物です。不動の大地に対して天球が回転しているとされた天動説を否定し、太陽を中心に地球が回転していると主張したのが地動説です。カントにとって彼以前の哲学は、不変の「対象」に依拠して認識がなされる天動説のようなものでした。カントが目指した哲学はそれとは正反対の、認識を基準にして対象を語るものだったのです。
 この姿勢をさらに徹底して引き継ぐのが、のちのフッサールやハイデガーに代表される20世紀の現象学です。20世紀の哲学では、さらに「言語論的転回」と呼ばれるものが起きています。人が何かを認識する際には言語が用いられるため、認識論の探究のためには言語についての理解が必要であるという考え方です。
 この言語論的転回、つまり言語なしで人が認識をすることができないという考え方は、端的に言ってわたしたちの直感に反します。しかし、それに先立つコペルニクス的転回も直感には反していました。わたしたちが立っている大地は地震でもない限り動かず、太陽や月の方が東から昇って西の地平線に沈んでいくように見えます。しかしその太陽や月、その他の星々の運行を観察し、その法則性を緻密に理論化していくと、じつは太陽の周りを地球こそが回っている(月は地球を中心に回っているのですが)ことがわかります。これがコペルニクス的転回でした。
 カントはその認識論の基礎に「モノ自体」という、知覚によっては捉えられない「何か」を設定しました。その上でそれを認識しようとする感性、さらにはその認識について考える理性などについて考えようとしたのです。これがカントの哲学的方法です。しかしそんなカントですら、たとえばリンゴを見たときにその赤さや、他のリンゴ、他の果物、果物以外の事物との比較なしにリンゴを捉えることはできません。必ず言語による認識が必要になるのです。
 プラトンのイデア論や、カントの「モノ自体」、コペルニクスの地動説など、哲学においては人間の直感に反する理論は珍しくありません。世の中には「自分の目で見たものしか信じない」という人がたくさんいますが、「目で見たもの」つまり知覚は往々にして誤ります。トリックアートで利用される錯視、あるいは最近とみに問題にされることが増えた偽情報を含むニュースいわゆる「フェイクニュース」はその良い例でしょう。教育や啓蒙だけでなく、洗脳や暗示によってさえ、人間の世界観は多様になっていきます。「自分の目で見たもの」だけを信じるというのは、一見したところ慎重な態度であるようですが、巧妙に仕組まれた環境では案外ころっと騙されてしまう危険性を孕んでいるのです。

記号、象徴、文字

 言語論的転回は、スイス生まれの言語学者フェルディナン・ド・ソシュールの思想に起源があります。
 ソシュールの理論では、たとえばriverという文字列とその読みがシニフィアンsignifiant、riverという文字列とその読みに意味されるもの、つまり「川」がシニフィエsignifieと呼ばれます。シニフィアンとシニフィエは、フランス語動詞signifier(「意味する、表す、指し示す」の意)の、それぞれ現在分詞形signifiantと過去分詞形signifieです。英語にすれば動詞がsignify 、現在分詞形はsignifying、過去分詞形がsignifiedとなります。
 「AがBを意味する」を英語で書けば「A signify B」となります(三人称現在形単数のsをつけてsignifiesとするのが正確ですが、簡潔に表現するために敢えて文法的には不正確な表記をしています)。現在分詞signifyingを使えば「A is signifying B」となり「AがBを意味している」、過去分詞を使えば「B is signified by A」となり「BがAに意味される」になります。
 riverの例でいえば、「riverという文字列とその読み」は「riverというもの」を「意味しているsignifying(signifiant)」し、「riverというもの」は「riverという文字列とその読み」に「意味されている」わけです。
 たとえば「リンゴ」という言葉は、そのまま「リンゴ」という呼び方と、その呼び方で指し示されるイメージとに分析できます。ここで重要なのは、ソシュールもカントのように、「リンゴそのもの」のような「モノ自体」があるというようなことは語っていないということです。リンゴという言葉を知っている人がリンゴを見たときに思い浮かべるのが「リンゴのイメージ」であり、そのイメージを呼ぶときに使われるのが「リンゴ」という呼び方というわけです。
 言語学にとって重要なのは、この呼び方とイメージの結びつきに確固とした理由が存在しないということです。したがって、英語ではapple、フランス語ではpomme、ドイツ語ではapfelという呼び方の違いが生じます。あるイメージにどのような呼び方が組み合わされるのかは、それぞれの言語の文脈に依存します。そしてこの考え方は、いわゆる言語にとどまらない記号論として研究されていくことになります。

文字とは何か

 さて、こうした言語論的展開を踏まえたとき、あらためて「文字」とは何でしょうか。
 ソシュールによれば「文字」とは、「話し言葉」とともに言語を構成する要素です。たとえば英語のriverという語には、水の流れる場所のイメージと、「riverという文字列」が示す読み方とが組み合わされているということになります。
 ところで、ソシュールの理論のややこしさのひとつに、それぞれの言葉の文字列とその読み方、つまりシニフィアンを「音イメージ」と呼び、それに意味されるものシニフィエを「概念」と呼んでいることがあります。
 しかもこの理論は、英語やフランス語などアルファベットという表音文字を使う言語などではそのまま適用できるのですが、漢字という象形文字的な側面を持つ文字を用いる日本語のような言語体系の場合、簡単には適用できません。文字がイメージと読み方の両方を帯びる場合があるからです。日本語の「川」という語には、水の流れる様子をイメージした文字のかたちと、「かわ」という読み方が組み合わされています。
 このことはしかし、ソシュールがシニフィアンを「音イメージ」と呼んだことを理解しやすくするようにも思われます。「川」という文字列すなわちシニフィエは、その読み方とセットで「川の概念」を指し示している、ということになります。
 ここでふたたびヒュームが言った「知覚とは、印象と観念に大別される」を思い出しましょう。川という言葉について思い浮かべるとき、川という文字列とその読みも、その意味するところの川も、観念に過ぎません。川の印象は、実際の川のそばでしか得られません。
 しかし言語論的転回を経てみると、「実際の川」の印象は、「川の観念」なしに得ることができないことがわかります。なぜなら川の観念がなければ、それが川であることがわからないからです(小説などで実在しない川が描写されるような場合に、文字列のみで印象を受けることもあるのですが、それについては今回は立ち入りません)。
 重要なのは、ヒュームの理論では知覚において印象と観念とが二重写しになっていたこと、ソシュールの理論ではシニフィアンとシニフィエがセットになっているということです。人間の知覚においては、ヒュームの印象と観念が互いに互いを写し合い、ソシュールのシニフィアンとシニフィエが互いに写し合って、何かのイメージが保持されています。

ラカンの「現実界」「象徴界」「想像界」

 さらに時代が下ると、20世紀後半のフランスを代表する思想家として、精神分析家のジャック・ラカンという人物がいます。時期によってラカンの理論は変遷するのですが、ある時期のラカンは人間の精神をreel、symbolique、imaginaireすなわち「現実界、象徴界、想像界」から成ると説明していました。
 これらは日本語でそれぞれ「~界」と翻訳されているため、たとえばreel、symbolique、imaginaireのそれぞれのあいだに境界があるかのように考えてしまいがちですが、ラカンが考えていたのはreel、symbolique、imaginaireのそれぞれが互いに絡み合う状態です。一般に、それぞれの頭文字をとってこれをRSIと表記します。
 ラカンの精神分析理論は難解で知られていますが、以下にごく簡単に解説します。
 現実界はカントが提示した「モノ自体」を含み、知覚によって到達することはできません。また象徴界はそれ自身が持つ独自の秩序によって成立しています。想像界は、象徴界とは異なり秩序を持たない混沌です。
 ラカンはこのRSIを、人間が人間になっていく発育過程に適用して説明しました。生まれたばかりの赤子は母と想像的に一体化しているので想像界しか持たないが、いつまでも母親と同一化しているわけにはいかない。なぜならば母は父と結婚しており、母は父を求めているという象徴界の秩序が、やがて母子の同一化を切断する、というわけです。赤子は現実界に出産され、そこで生きているわけですが、カントが「モノ自体」への到達を断念したように、どんな人であっても現実界を直接に知覚することはできません。
 この説明は、精神分析学の開祖ジグムント・フロイトの母と父と子という核家族をモデルにした理論に依拠しており、ラカンもやはり彼のジェンダー観に引きずられています。ただし20世紀を生きたラカンは、この説明にある「母」や「父」の性的役割について、あくまで説明の便宜のためのものであって「そうあるべき」と言いたいわけではないと語っています。したがって、より抽象的にはなりますが、ここでは「母」を庇護者、「父」を庇護者にとっての社会的他者と言い換える方が妥当でしょう。
 さて、現実界の説明にカントの「モノ自体」を援用したように、ヒュームの「印象」と「観念」という考え方をラカンのRSIに導入するとどうなるでしょうか。
 まず観念は、すでに触れたとおりimageです。imaginaireすなわち想像界のことだと言えます。ヒュームは「モノ自体」を想定していなかったので、印象が該当するのはsymboliqueつまり象徴界ということになります(日本語で「印象」にも「象徴界」にも「象」という字が含まれているのは偶然でしょうか)。

象徴、記号、トークン

 ところで「象徴」とは何でしょうか。記号signと象徴symbolという言葉は、辞書的には以下のように説明されます。記号は対象物を表現したもの一般、とりわけその対象との対応関係が偶然だったり恣意的なものを指し、象徴は対象物を表現したもの一般のなかでも対象物との対応関係が必然的なものを指す、というわけです。
 対象物との対応関係が偶然的か必然的か、という区別はややわかりにくいかもしれません。たとえば「魚はキリスト教圏ではキリストの象徴だ」と言えます。しかし「魚」という記号は、対象物のサケやメダカ、リュウグウノツカイなど魚類一般を指しています。辞書的な意味での記号は、対象物の多様性を不可視化しています。象徴も、記号のひとつであるという意味では、その対象物を不可視化(ブラックボックス化)しているのです。ただしそこでは対応関係が必然的なので、その限りでは「ブラックボックスの蓋が開いている」と言えるでしょう。
 記号について説明するために、わたしはここで「対象物」という用語を使っています。お気づきのように、これはカントが言うところの「モノ自体」のことです。人間は知覚という記号によって、なんとかして「モノ自体」を捉えようと試みるのです。
 ところで記号sign という語はラテン語のsignumに由来しています。つまりこの語には、象徴という意味も含まれています(ソシュールが記号について論じたシニフィアンとシニフィエは、それぞれsignifiantとsignifieと書きますが、これは「意味する」というフランス語動詞詞signifierのそれぞれ現在分詞形と過去分詞形にあたります)。
 それと同時に、signumという語には英語でいうトークンtoken、つまり「指し示す」という意味も含まれていました。古代メソポタミアで文字とりわけ数字が生まれる前に、数をトークンで指し示していたことを思い出してください。お金の原初の姿はトークンでした。そしてこのトークンの記号性は、多様な集合から数だけを取り出して指し示し、その際に対象物の集合が持っていた多様性を不可視化していました。
 さらにもうひとつ、signumには彫像、形象という意味も含まれています。形象は英語ではfigureとも書きますが、この語は輪郭のはっきりした形、形態、姿、画像、図形などの意味を持ちます。「印象」と「象徴」という日本語の単語に含まれる「象(像)」は、この彫像や形象の意味だと捉えれば、あながち偶然の一致ではないと考えることもできます。
 そう考えれば、ヒュームの定義による「知覚」に含まれていた「印象impression」が、対象物を押しつけて(press)、その形象(figure)が残されたものだということも、すっきりと理解できるはずです。

      ※次回は1月26日配信予定です。

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プロフィール

永田 希(ながた・のぞみ)

1979年、アメリカ合衆国コネチカット州生まれ。書評家・著述家。書評サイト『Book News』主宰。「時間銀行書店」店主。「週刊金曜日」書評委員。「ダ・ヴィンチ」でブックウォッチャーの1人として毎月選書と書評を担当。「HONZ」「週刊読書人」「図書新聞」などでも書評家として活躍。著書に『積読こそが完全な読書術である』『サイコパスの読書術 暗闇で本を読む方法』など

 
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