カール・マルクスは『資本論』の冒頭を貨幣論で開始していました。『貨幣論』で知られる岩井克人はマルクスが『資本論』のなかで自ら提示した労働価値論を消滅させていることを指摘しました。マルクスの労働価値論はまるで貨幣と労働者の生きる時間が経済のなかですれ違っていく過程そのものです。そのすれ違いを描いた小説としてアンドレ・ジッドの『贋金つかい』を挙げることができるでしょう。ジッドは本物と贋物が目まぐるしく入れ替わり、どちらが本物でどちらが贋物か判別できなくなっていく過程を小説として表現したのです。
『資本論』における時間
産業革命のただなか、近代文明が爛熟しつつあった19世紀を生きた思想家で経済学者のカール・マルクス。マルクスは、その有名な主著『資本論』の冒頭を、商品と貨幣について語ることで開始します。
マルクスによれば商品の価値は、その生産にかけられた労働者の時間によって決まります(これを労働価値論といいます)。さらにマルクスは、この労働価値とは別に、その商品を使う「使用価値」と、交換の際に生じる「交換価値」とがあると考えました。
たとえばマルクスは『資本論』で亜麻布(リネン)と、それを加工した上着を比較しています。リネンは上着に加工されていないので、同じ重さであれば加工の労働分だけ上着の価値は高くなります。しかしリネンと上着の使用価値はまったく別です。上着に加工するという原料としての使用ができるだけのリネンに対して、上着はそれをすぐに着用して暖をとれるという使用価値があります。
交換価値を端的に示す例が価格です。希少性や過多の具合で商品の交換価値は変動します。リネンも上着も、それを欲しがる人がいるのに供給が間に合わないほど希少であればその価格は高騰し、逆に欲しがる人がほぼいないのに大量にありふれているとなると、価格は下がるというわけです。
商品を生み出すためにかけられた労働時間による価値と、その商品の使用価値や交換価値をまとめて表示し、交換を円滑に行うための手段として貨幣がある、というのがマルクスの考え方です。ここで注意したいのは、マルクスが問題にしたのは、人々が労働時間、つまり人生の中のどれだけの「時間」を労働に割いたかだったということです。
現実には商品が貨幣と関係する「価格」に労働時間や使用価値がストレートに反映されることは稀です。マルクスの思考実験で想定される局所的な交換は極限状態でしかなく、一般には交換価値だけが問題とされます。どんなに製造に労働者が時間をかけたとしても、商品の価格は市場の需要と供給によって定まるからです。しかも市場の現実をより厳密に考えるならば、需要と供給が必ずバランスするわけでもありません。たしかに供給過多になれば価格は下落しますし、需要が高まれば価格は高騰します。そのように価格はバランスしようとするのですが、物価はたえず変動し、需要と供給も日々変わるので、何をもってバランスしたとするかは一概には言えないのです。
マルクスの理論の特徴は、このように捉えがたい商品と価格の関係に人間の労働、その時間というものを導入しようと試みたところにあります。
ジンメルの貨幣論
社会学者ゲオルク・ジンメルは、論文「近代文化における貨幣」で次のように書いています。
「たとえばある土地を換金すると、人は一方では解放感を得る。換金前には対象の価値が土地というひとつの形に縛られていたのにたいして、いまや金の助けを借りて、その対象の価値を変幻自在に鋳造しなおすことができるからだ。換金前には対象を維持、利用するためのもろもろの条件に縛りつけられていたのが、金をポケットに入れたとたんに私たちは自由になる。
しかし、ほかならぬこの自由がどれほどしばしば生活の無内容さや生活実質の弱体化を意味していたことか。農民の賦役を貨幣で代納することを定めた前世紀の法律が同時に、農民から強制的に農地を買い上げることを領主に禁じていたのは、まさにこの理由による。一見すると、領主が農民から適正価格で農民の農地にたいする権利を(その農地を領地に編入するために)買いとったとしても、あながち農民にたいする不当行為とは言えないように見える。
しかしその土地には、農民にとってはたんなる資産価値という以上のまったく何か別のものが隠れひそんでいた。それは農民にとっては、有益な活動の可能性であり、関心の中心であり、人生の指針を定める生活の内実だった。そして農民がその土地の代わりにその価値を貨幣で所有しはじめた途端、それらのものは失われていった」(鈴木直訳)
ジンメルはこの箇所で、土地を売り払う場面、すなわち土地を売り払って得た貨幣を所有することを問題にしています。土地を売り払うことでその土地を所有していた農民が「資産価値という以上のまったく何か別のもの」を手放し、失ってしまうとすると、それはいったい何なのかということです。
ジンメルは「有益な活動の可能性であり、関心の中心であり、人生の指針を定める生活の内実」と書いています。これはその土地を売り払うことで手に入れる貨幣では代替できないものです。それと同時に、代替不可能でありながら、貨幣と自由によって交換可能な何かでもあったとも言えるでしょう。
本論のこれまでの議論に引きつけるならば、貨幣と自由は、農地がもっていた可能性や「内実」を不可視化するのです。マルクスは労働「時間」を、ジンメルは可能性や「内実」を帯びた「空間」を、それぞれ貨幣が不可視化した、と論じたのだと言えます。
死と貨幣
日本にフランス現代思想を紹介した今村仁司は『貨幣とは何だろうか』でマルクスやジンメルの貨幣論を参照しつつ、そこに「死」が不可視化されていることを指摘しました。
「貨幣の形式、貨幣の「観念的」側面(貨幣の「形而上学的」側面ともいえる)は、実質と素材(つまり「身体」)をもたないから、「精神」自体であり、あるいはこういってよければ「幽霊」のごときものである(西欧語では「精神」は「幽霊」でもある)。貨幣としての貨幣は形式としての貨幣である。ここで論ずる貨幣とは形式としての貨幣、あるいは略して貨幣形式のことである。この形式としての貨幣を考察するとき、死の観念、人間が社会存在であるかぎり抱えこまざるをえない死の問題に直面する。」
今村の議論は難解というか、説明不足かつ冗長であり、まともな読解を諦めたくなるのですが、その主張をどうにか要約すると次のようになります。商品の交換は死の観念を内包する、貨幣は商品の交換を代替するものである、したがって貨幣は死の観念を内包する。ではなぜ商品の交換に死の観念が内包されるのでしょうか。今村はマルセル・モースの贈与経済論を参照しつつ、贈与が行なわれたときに贈与を受けた者が負う「借り」(負債)の感覚が死の観念を含むからだと説明しています。なぜならば、贈与を受けながら返礼(負債の返済)をせずにいることは呪術的に死の危険を帯びているからです。
言い換えれば、負債の返済をせずに贈与をいわば抱え込む者には、その清算として死がもたらされるという恐怖があるということになります。この恐怖は呪術的なものです。現代でも借金することを何か忌まわしいことのように嫌悪する考え方がありますが、その考え方には、このような呪術的なものへの忌避感が含まれているのかもしれません。
貨幣は、市場を媒介して贈与(負債と返礼)を制度化して加速するのですが、今村によれば、そこには死の観念が不可視化されながらも維持されているということになります。
労働価値論の消滅
『貨幣論』で有名な経済学者の岩井克人は、マルクス『資本論』を読み直しながら独自の貨幣観を提示しました。岩井によれば、マルクスは労働価値や交換価値の前提として「価値の体系」というものを想定して『資本論』の貨幣論を展開しています。岩井が指摘している「価値の体系」とは、貨幣に媒介されることで価値を帯びた商品が構成している世界のことです。この体系のなかでリネンや鉄、黄金といったそれぞれの商品は貨幣なしでは互いの価値を迅速に規定することができません。岩井によれば、マルクスは『資本論』のなかでこのように交換価値を論じる過程で、自分が提示した労働価値論を消滅させてしまうというのです。
貨幣がそこに介在して、すべてを貨幣と交換可能なものにすることで商品は互いに関係することが可能になります。そのことを論じる際に、マルクスは独特の言い回しで「商品語」という謎めいた表現をしています。
岩井は『貨幣論』のなかで、言語なしでは互いの関係を迅速なものにできない人間を例に挙げています。つまり、貨幣は商品のあいだの関係をとりもつ抽象的な媒介であるという点で、人間関係をとりもつ抽象的なもの、つまり言語に等しいというのです。
正確にいえば岩井は次のように述べており、「言語と事物の関係」と「貨幣と商品」との関係が文字どおりに「等しい」とはしていません。
「言語と事物との関係は、貨幣と商品との関係よりもはるかに複雑である。言語の場合はそれを構成する多種多様な言葉や文の意味を単一の尺度に還元することはできないが、貨幣の場合はその貨幣を円やドルといった単一の尺度によって表現することができる。(略)だれにでも理解しうる単純な構造を持つ貨幣と商品との関係の分析は、それとは比較にならないほど複雑な言語と事物との関係を考察するに際して、何らかの見通しを与えてくれることだけは確かであろう。」
私がこれまで貨幣と言語について書いてきたことは、岩井がこの引用部で言語と事物の関係について述べている「複雑」さをいったん単純化してみようという試みです。岩井は貨幣について次のように自説を簡潔にまとめています。
「貨幣にもし本質があるとしたならば、それは貨幣には本質がないということなのである。「貨幣とは何か?」という問いをまともに受け止めて、貨幣の背後に貨幣を貨幣たらしめる「何か」として具体的なモノや具体的なコトを見出そうとしたらその瞬間に、人々は肝心かなめの「貨幣」なるものを見失ってしまうことになる。(略)
貨幣についてまともに論じたければ、「貨幣とは何か?」という問いにまともに答えてはいけない。もしどうしてもそれに答える必要があるならば、「貨幣とは貨幣として使われるものである」というよりほかにない。」
「貨幣とは貨幣として使われるものである」という以外に「貨幣とは何か?」という問いに答える方法がない、というのです。そして、言語についてもこの同語反復的な構造が指摘されます。同語反復(トートロジー)とは、文字通り「同じ語を繰り返す」ことです。「ウシとはウシのことだ」のように、説明としてはほぼ意味をなさない言葉の使い方のことです。
ところで「説明としてはほぼ意味をなさない」といま書いたばかりですが、トートロジーがまったく意味をなさないわけではありません。たとえばそこには強調のニュアンスがありますし、場合によって「そうとしか言えない」という意味を含ませることができます。岩井はまさにこの「そうとしか言えない」という意味で「貨幣とは貨幣として使われるものである」と書いているのでしょう。
本論のこれまでの議論に引き戻してみれば、この同語反復構造が、ブラックボックスの性質を帯びていることが理解できるはずです。
貨幣がもつこのような同語反復構造は、ある言葉が他の言葉との違いによって互いを区別しているだけで、「ある言葉が指し示す対象物」と「その言葉」との関係が必然的ではないという言語の構造と相似します。これはかつてソシュールが示したことです。言語もまた「言語とは言語として使われるものである」という同語反復構造をもち、その言語のなかのある言葉とその言葉の指し示す対象物との関係は、じつはブラックボックス化されているのです。
『贋金つかい』と『カンドール王』
『貨幣とは何だろうか』で今村は、20世紀フランスのノーベル文学賞作家アンドレ・ジッドの小説『贋金つかい(贋金づくり)』を論じています。今村によれば『贋金つかい』はパリの上流中産階級の複数の家族と小説作家たちの姿を描きながら、本物と贋物がくるくると入れ替わり決定不能になっていく作品です。
『贋金つかい』にはタイトルのとおり「贋金」が登場します。その贋金はガラスに金メッキをしたもので、それが金貨ではない(贋物である)ことと、よくできているために通貨として使用できる(本物として使用できる)こととの二面性が、作品全体のさまざまな関係に見出されるように書かれています。
たとえば本作の主人公の1人であるベルナールは作品の冒頭で、それまで実の父親だと思っていたプロフィタンディウーと血の繋がりがなかったことを知り、家出をします。血縁を重んじる社会規範においてベルナールはプロフィタンディウーとの親子関係を贋物だと考えたのでした。また、ベルナールの親友オリヴィエの叔父エドゥアールは、オリヴィエの恋人ローラを愛し、金銭的に援助しつつも報われることがありません。ローラはオリヴィエの兄ヴァンサンの子をみごもっていますが、他の男性と婚姻関係にあります。またヴァンサンは小説家であるエドゥアールの文学上のライバルであるパッサヴァン伯爵の友人レディ・グリフィスと昵懇になり……と人間関係は錯綜していきます。
ジッドが本作を執筆した1925年は、第一次世界大戦の終結(1918年)を受けてアメリカを中心に世界が好景気に沸いていた時代でした(それは1930年代に吹き荒れる大恐慌によって終焉を迎えます)。人類初の地球規模での戦争状態によって、戦費と戦後の復興費用がかさみ、各国は金本位制を一時的に停止し管理通貨制度に移行していましたが、戦後ふたたび金本位制に復帰しました。『贋金つかい』は、この金本位制と管理通貨制度とを各国がいったりきたりする情勢で書かれた作品なのです。
『贋金つかい』から社会反映論的に執筆当時の世相の影響を読み取ることはたやすいのですが、それに先立つ1898年に若きジッドが書いた戯曲『カンドール王』に、すでに貨幣のモチーフがあります。このことから、『贋金つかい』は、もともとジッドが抱いていた貨幣への関心が時宜を得て結実したものと考えるべきだと言えるでしょう。
『カンドール王』は、硬貨発祥の地である古代リュディアの僭主(カンドール王)にまつわる伝説を土台にしています。
カンドール王はある日、食卓に供された魚の腹から指輪を見つけます。この指輪は、身につけた者の姿を不可視化する魔力をもっていました。この指輪に感激した王は宮廷料理人に、魚を誰から仕入れたかを尋ねます。料理人は、とある貧しい漁師から魚を買ったと答えるのですが、その際にまず銀貨4枚を支払ったと語ります。これを聞いた王は憤慨し、漁師に金貨を含む自身の財産を分け与えます。戯曲はさらに、王の美貌の妻を巻き込んで展開するのですが、その物語には深入りせず、ひとまずは漁師の得た報酬に注目しましょう。
というのも、高い価値を持つ指輪を安く仕入れた料理人の行為は現代の価値観からすれば当然のものであり、わざわざ指輪の価値に見合った財産を分け与えようとするカンドール王の行為は不可解だからです。しかし既に今村の論じた「死の観念」を踏まえるならば、漁師から魚(と指輪)を購入したことをある種の贈与として捉え、その返礼にカンドール王が恐怖したであろうことを考えるとどうでしょうか。カンドール王にとっては料理人が漁師に支払った銀貨はむしろ「不当に」安価だったということになります。
カンドール王は漁師に金貨を支払うのみならず、漁師に指輪を渡し、王妃の姿を見せることすら許します。王妃は絶世の美女ですが普段はヴェールをまとい、その美貌を隠しているのですが、王から渡された指輪を身につけて自分の姿を不可視化した漁師は王妃の美貌を見ることになるのです。ジッドの戯曲では、王妃は奸計を弄して漁師に王を殺害させ、漁師は王位につくことになります。
『生きた貨幣』
1905年生まれの思想家ピエール・クロソウスキーはその小説『ロベルトは今夜』で奇妙な「歓待の掟」を提示しました。「歓待の掟」は小説に登場する主人公の美貌の叔母ロベルトの家の壁に掲げられた紙に書かれています。長々とした文章で語られているのは、ロベルトとその夫が夕暮れに誰でも来訪者を受け入れて晩餐をともにして、さらにはその家の「屋根の下に休んで」いくことを期待している、ということです。「屋根の下に休んで」というのは、単に宿泊して休憩するだけではなく、ロベルトとその夫と性的に交わることを含意しています。
ところで現代のポルノグラフィーコンテンツの流行りにNTR(寝取られ)というジャンルがあります。これは恋人や配偶者が他の相手に寝取られる嫉妬や屈辱を味わう、ありていに言えば倒錯的な趣味です。クロソウスキーの『ロベルトは今夜』はそのようなNTR的な快楽を素朴に描いた作品として読めてしまいます。しかしクロソウスキーの論文『生きた貨幣』を読むと、単なる倒錯以上のものを彼が目論んでいたことがわかります。
『生きた貨幣』には、あらゆるものが道具として利用される現代産業社会において、人間の身体すらも生産的で利益追求的に評価されるということが分析されています。クロソウスキーはしかし、その生産性志向や利益追求から外れていくことを提案します。動物としての本能は生殖行為に「子供を作る」という生産的な役割を与えていますが、人間はそのような生産性から外れる志向を持っています。クロソウスキーはこれをファンタスムと呼びます。この言葉は一般に幻想と訳されることが多いですが、クロソウスキーは独自の使い方をしており単に幻想として理解するべきではないでしょう。
産業社会はすべてを道具として活用し、利益を追求していきます。人間も自らを道具として供出することを免れ得ないことをクロソウスキーはよく理解しています。だからこそ、全面化した生産過程のただなかで生殖や労働とは別の身体のあり方を模索したのでした。これは、マルティン・ハイデガーが『技術への問い』で現代社会が人々をもゲシュテル(掻き集め)へと駆り立てていくと説いたことと無関係ではありません。『生きた貨幣』は、クロソウスキーがゲシュテルのなかでファンタスムを追い求める方法を綴ったものなのです。
またクロソウスキーの『生きた貨幣』は「近代文化における貨幣」で論じた、農地を売却した農民が貨幣と自由と引き換えに失ってしまう「人生の指針を定める生活の内実」を、ある意味で取り戻すことを目論んでいたとも言えるはずです。そして、これは古代を舞台にジッドが『カンドール王』で描いたこと、なぜカンドール王がわざわざ漁師に財産を分け与え、あまつさえ妻の素顔を見せようとしたのかを考える手助けになります。カンドール王はその行為の結果として妻を奪われるどころか王位も、自らの命すらも漁師に与えることになるのですが、現代の通常の感覚からすればそこには何の利得もありません。
シミュラークルと時間
クロソウスキーは『生きた貨幣』においてシミュラークル(simulacre)というキーワードを使用します。ゲームや事業計画などで広く使われているシミュレーション(simulation)という言葉に似たこの語は、端的に翻訳するならば「模造品」のことです。シミュレーションとは、現実を模したモデルを使って模擬実験を行うことを指しています。
模造品は普通に考えれば単なる贋物ですが、クロソウスキーのいうシミュラークルは「贋物であると同時に本物であり、本物であるのと同時に模造品でもある」という独特のニュアンスを帯びています。たとえば写実的な芸術作品が、写実的であることによって描いた対象によく似た模造品であるのと同時に、それ自体が本物としての価値を帯びるようなものです。また、ある商品と交換可能な価値を持つ本物でありつつ、それ自体には価値がない貨幣もシミュラークルの好例だと考えられます。
ここで『贋金つかい』を思い出すとややこしくなるかもしれませんが、ジッドは作中の「贋金」を金貨のシミュラークルとして登場させつつ、金貨じたいも貨幣である以上はシミュラークルであり、贋金がシミュラークルのシミュラークルであるという込み入った事態を描いているといえます。「シミュラークルのシミュラークル」としての贋金を描きつつ、そのことによってかえって「本物」であるはずの金貨すらもシミュラークルであることを浮き彫りにし、作中で描かれる人物たちのこともシミュラークルとして浮かび上がらせていくのです。
ジッドは『贋金つかい』を執筆する過程を日記形式で綴った『贋金つくりの日記』を発表しています。そのなかでジッドは『贋金つかい』を「純粋小説」として書こうとした、と書いています。先述のとおり多くの登場人物が錯綜し、その過程で親子関係、文学論、階級問題、恋愛などさまざまなテーマが描かれており、これのどこが「純粋」なのか直感的にはわかりづらいと多くの読者が感じてきました。
『貨幣とは何だろうか』で本作を取り上げた今村もおそらくそう感じていました。しかしジッドが目指したかったのは単純なテーマを「純粋」に描く小説という意味での純粋小説ではなく、他の表現様式で描けるものを排除した、小説でしか表現できない作品でした。シミュラークルである金貨と、シミュラークルのシミュラークルである贋金を鍵として、登場人物と彼らが演じるさまざまテーマを、いずれも本物であり贋物でもあるシミュラークルそのものとして自己言及的に描き出した本作はまさにそのような意味での純粋小説なのです。
さて『生きた貨幣』の原書には初版と新版があります。その新版には序文のようなかたちで、哲学者ミシェル・フーコーからクロソウスキー宛の「手紙」が収録されています。この手紙のなかでフーコーは『生きた貨幣』を「私たちの時代のもっとも偉大な本」と激賞するのですが、それはなぜでしょうか。
フーコーの手紙に書かれているとおり『生きた貨幣』はフロイトとマルクスの理論(精神分析と経済学)を組み合わせて発展させたものです。クロソウスキーが重視するファンタスムが精神分析に由来し、貨幣や交換を論じていることからマルクスの理論を下敷きにしていることは容易に理解されるはずです。しかし問題はそれだけに止まりません。というのも『生きた貨幣』が身体とファンタスムとの関係を問題にしているからです。
岩井が指摘したとおり、マルクスは自らの意図に反して労働価値論を、『資本論』で交換価値を論じるなかで消滅させてしまいました。労働価値とは、労働者の身体が労働した時間のことです。クロソウスキーの『生きた貨幣』は、交換のただなかに身体を貨幣として持ち込むことによって、一度は消し去られた身体の時間をふたたび議論の俎上にのせるのです。
※次回は2月9日配信予定です。