高給と高待遇で無為な時間を売り渡す「ブルシットジョブ」という言葉がすっかり人口に膾炙しました。ところで、ここで売り渡された時間とは何だったのでしょうか。また、社会的に高い地位を得るために時間を「売り渡す」かのような生き方はどのような意味を持つのでしょうか。『ブルシット・ジョブ』の著者グレーバーの思想や、ピケティ、スティグレール、クロソウスキーらの理論を手掛かりに、エンデの小説『モモ』や大友克洋のアニメ作品などを参照しながら、これまで論じてきた内容をいったん振り返ってみます。
ブルシットジョブの時間
2020年に大いに話題になった人文書に『ブルシット・ジョブ』があります。アナキストの人類学者デヴィッド・グレーバーはこの本で、「そこそこいい肩書き」「そこそこいい給料」だが、世の中のためにもならず誰かのためにもならない、やりがいのない「クソどうでもいい仕事」について、豊富な事例を挙げて論じています。
現代社会では「働くこと」が当然であり、働かない者はそれだけでうしろぐらい気持ちになるように成り立っています。生活に困っていない裕福な人でも、働けるのであれば何か仕事に就くことを期待されます。『ブルシット・ジョブ』には、やる気のない働き手が体裁を取り繕うために就職し、誰のためにもならない仕事でいやいや時間を潰す様子が次から次へと提示されます。たとえば保育士をしていた人物が生活費のために役所に転職したものの、生活保護を求める障害者やホームレスに対して嫌がらせをする同僚に耐えられず、結局退職したケースなどが紹介されています。
グレーバーは、このようなブルシットジョブに就いている人々がどうして苦しみを味わっているのかを考察します。そこで彼が注目するのは「時間」です。
天文の知識や精密な手作業を必要とする時計を持たなかった時代の人々は、たとえば「ある村からもうひとつの別の村まで行くのにかかる時間」を「釜の飯が2度炊けるくらい」などと行為を尺度にして表現していました。
これに対して現代では、仕事の多くが時間を単位に表現されるようになりました。つまり行為と時間の関係が逆転したのです。8時間労働といえば、その内実はさておき「8時間分の労働」ということになります。8時間労働を基準とし、それを超過した場合には残業代を支払うという現在の労使関係が定着するよりも前には、雇用主は労働者を働かせられるだけ働かせていました。この時代は12時間労働、13時間労働は珍しくありませんでした。労働者は組合を作って抗議し、一日の労働時間を8時間を目安にすることに成功しました。
皮肉なことに、労働に対するこのような考え方の転換によって、仕事の内実や結果ではなく時間に対して給料を支払っているという感覚が、雇用主の間に蔓延するようになります。勤務時間中に業務以外のことをする労働者に対して「時間を盗まれている」という被害感情を抱くようになったのです。また労働者の側も、自分の時間を雇用主に売り渡している感覚に陥るようになりました。
ところで一般に、自分の時間を買われた存在は「奴隷」と呼ばれます。実際にはそうではないのに、時として雇用主は労働者の時間を買いとったものと思い込み、奴隷を得たような気持ちになるのです。日常の(少なくとも目が覚めているあいだの)大半を占める業務時間を平穏に過ごそうとする労働者もまた、雇用主の機嫌をとることで、それと意識することなく奴隷の役割をみずから演じるようになります。
工場や農場で手で持ったり触ったりできる製品や作物を作っている第一次産業・第二次産業の人々よりも、小売業や情報通信業など「何かを作っているわけではない業務」に就く人が増えた社会では、仕事の内実が把握しづらいために「時間で仕事を売買している感覚」は濃厚になります。仕事の内実が曖昧なため、労働者の人生の一部が単位時間あたりいくらで売買されてしまうのです。
生きた貨幣の時間
前回ふれた『生きた貨幣』でクロソウスキーは、経済社会のなかで人間性が奴隷のように奪われる過程を論じています。クロソウスキーにとって人間とは、人格という自己同一性を形成できた存在のことです。他方でクロソウスキーは「基体suppot」という用語を使って、人間が自己同一性を持った人格を形成する前の存在を指し示しています。これはジャック・ラカンが発育過程について論じた次の議論と組み合わせるとわかりやすくなります。
ラカンによれば、生まれたての乳児は庇護者と癒着した感覚に安んじていますが、やがて庇護者が社会的他者のもとに去ってしまうことを知ります。このように庇護者を社会に奪われることを受け入れて初めて、乳児は人間としての人格を持ち始めるのです。クロソウスキーは、この庇護者を社会に奪われる過程、そしてその過程を受け入れる前の状態を指して「基体」と呼んでいます。
基体はもともと「下にあるもの」という意味で、中世哲学では「実体」などを意味しました。神や真善美などの高等な観念と区別される、いわば身体的、感性的な存在のことです。既にふれたヒュームの言葉を使うならば、基体は「印象」の範疇にあり、「観念」とは区別されるということになるでしょう。
クロソウスキーが基体に注目したのは、この基体が夢想するファンタスムが営利的な現代社会に対峙するときに必要になると考えたからでした。というのも、現代社会は人間の同一性が形成される過程に生産性第一主義とでもいうべきものを浸透させており、基体もファンタスムも生殖や生産性へと駆り立てられているからです。ハイデガーやスティグレールが、ゲシュテルや第三次過去把持というキーワードを使って問題視しようとしたのはまさにこの部分でした。
あらためて確認すると、ひとの主観から出発して考えたときに、音楽を聴いてその場でメロディを捉えるのが第一次過去把持、過去に聞いたメロディの知覚が第二次過去把持、そしてそのメロディを機械的に保持しているものが第三次過去把持です。しかし世界が情報の濁流に晒されている現代には、スティグレールが第三次過去把持と呼ぶ「外部記憶媒体」が、すでに個人では処理しきれないほど氾濫しています。
現代を生きるひとは、この第三次過去把持が世界に溢れており、ますます増え続けているという事態を前提にしなければなりません。主観的にはどうあれ、現代においては「第三次」といわれているものこそが第一次的であり、ひとの知覚はその前提から始まるのです。スティグレールが参照したフッサールは第一次過去把持をクラシックのコンサート(生演奏)の例で捉えましたが、現代の私たちにとってはYouTubeなどのような第三次過去把持の「再生」が音楽体験の大半になっていることからも、この転倒が理解できると思います。
第三次過去把持とインフラストラクチャー
ヒュームによる「印象」と「観念」との二元的知覚論をふたたび引き合いに出すならば、スティグレールの第一次、第二次、第三次の過去把持はどのように捉えることができるでしょうか。音楽の演奏を聴いているときの「印象」と第一次過去把持がまさに同じものであり、その印象の二重写しである「観念」が第二次過去把持におおよそ対応することは、すぐに理解できるでしょう。
問題は第三次過去把持です。印象 impressionという語に含まれるpressを木版印刷のアナロジーで理解するとすれば、「版木」が第三次過去把持にあたります。もちろん現代では「版木」は電子データに置き換わっています。第三次過去把持の例としてここまで音楽プレーヤーやコンピューターを挙げてきましたが、「印象」や「観念」を(原理的には)時間性を超えて保持するというこれらの機器が持つ性質は、より本質的には言語や貨幣自体にあるものです。第三次過去把持こそが第一次的であるという話は、このように見るとわかりやすいかも知れません。
ところでグレーバーが『ブルシット・ジョブ』で論じたのは、人々が時間を売り渡して奴隷的な状況に置かれることでした。これはクロソウスキーの『生きた貨幣』の表現を使えば、基体からファンタスムが奪われている状態です。
岩井克人は『貨幣論』で「貨幣は貨幣として使われるもののことだ」と、その同語反復的な性質を説き、マルクスが『資本論』で自己矛盾しながらもなんとか盛り込もうとした労働の時間(労働価値)の入る余地が貨幣論にはなかったことを指摘しました。
言語や貨幣は同語反復的に自己言及を繰り返し、どんどん増殖するという仕組みをあらためて指摘したのが、世界的ベストセラーとなったトマ・ピケティの『21世紀の資本論』です。この本のなかでピケティが指摘した「r>g 」とは、「資本収益率r」が「経済成長率g」をつねに上回ってきたことを示しています。資本収益率とは、経済活動の基礎になる資本が「生み出す」利益の割合のこと、つまりある事業に投資をした人がお金を儲ける割合です。これに対して経済成長率は、労働者が働いて得るお金の割合のことです。人類の経済は人口増加にともなって断続的に発展成長しますが、その増加の割合よりも、その基礎に投資した先行者たちとその継承者(相続人)が得ている富の増加の割合の方がつねに大きいのです。これは貨幣が同語反復的に自己増殖をしており、そのおこぼれにあずかる人と、そうでない人とがいる、という話として理解することもできるでしょう。
この猛烈な増殖のイメージは、大友克洋がコミックスとアニメ―ション映画とで描いた『AKIRA』に出てくる少年テツオが、超能力の暴走により身体がとめどなく膨張しはじめる様子にも似ています。テツオが心を通わせかけていた少女カオリは、膨張する彼の身体に飲み込まれ圧死しますが、このときのカオリの姿はまるでブルシットジョブで心を病む人々のようです。
あるいは同じ大友のアニメ監督デビュー作「工事中止命令」 (眉村卓原作、『迷宮物語』所収)も思い出されます。この作品では、「計上された莫大な予算を日々莫大に浪費」しながら進行する「工事」が描かれます。主人公のスギオカは、政治的事情で急遽中止を命じられたこの工事を、失踪した責任者に代わって止めるため、スコールで増水した泥と繁茂する植物に埋もれた現場に向かうのですが、そこではコスト削減のために、ほぼすべての労働力はロボットによって代替されています。スギオカは命令を受け入れないロボットたちを相手にするうちに徐々に正気を失っていくのでした。
この「終わらない工事」のイメージは弐瓶勉の『BLAME!』というマンガでも重要な役割を果たしています。この作品に描かれた世界では、いつから開始されたかわからない自動化された建設工事のために、地球の表面がすっかり迷路のような人工建造物に覆われています。「人工」といっても、この巨大建造物を建設しているのは「工事中止命令」と同様にロボット的な存在です。惑星規模の巨大迷路を舞台に物語は展開します。
ブノワ・ペータースとフランソワ・スクイテンによる『狂騒のユルビカンド』はフランス語で描かれたマンガ(いわゆるバンドデシネ)ですが、ここでも謎の構造体が突如出現し、巨大化を始めます。本作の主人公は都市計画を担当する建築家で、彼のもとにこの謎の構造物が現れるのです。
謎の構造物は最初はただの小さな立方体の枠だけですが、徐々に巨大化し、ジャングルジムやビル工事の足場のように成長します。主人公たちの生活空間を文字通り貫通し、人々を混乱させながら巨大化を続けた構造体は、やがて人々の生活スケールを上回るほどに成長します。こうなると生活空間は構造体のなかにすっぽり収まってしまうため、人々は構造体とその成長を意識しなくなってしまうのです。これは、第三次過去把持やゲシュテルを現代人が意識していないこと、つまり生活や意識のインフラ(インフラストラクチャー、下部構造)となっていることを思い起こさせます。様々なメディアを通じ、可能な限りの機会を捉えて生活者の情報を収集している企業群のことを、ここで思い出してもいいでしょう。
また、この自己増殖のイメージは、アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスが「バベルの図書館」という掌編で描いた図書館にも通じます。宇宙そのものにも比されるこの巨大な図書館には、まったく同じ装丁、同じ文字組みで、内容だけが異なる無数の書物が収蔵されています。収蔵されている書物のほとんどは無意味な文字の羅列でしかありませんが、無限に文字を組み合わせれば、なかには意味の通る文字列を構成するものが現れます。このことにより、この図書館には「これから書かれる本」があらかじめ収蔵されているばかりか、「書かれようとして書かれなかった本」さえも含まれることになります。この図書館はつまり、時間をも超越しているのです。
時間は存在しない
ボルヘスは、晩年の講義録『語るボルヘス』のなかでたびたび時間を問題にしています。死を間近に控えた自分の残り時間に思いを馳せながら、です。この講義でボルヘスは、「バベルの図書館」のような超越された時間、つまり「永遠」と、「生きて本を読む読者の時間」とを対比させて語っています。これを、岩井が言うような「同語反復的な貨幣論の時間」と、マルクスが言うような「労働価値論の時間」の対比と言い換えることもできます。あるいはまた、第三次過去把持やゲシュテルの時間と、第一次過去把持・第二次過去把持の時間とに対比することもできるのです。
本論では深く掘り下げませんが、ここで理論物理学(量子重力論)の研究者カルロ・ロヴェッリによる啓蒙的な時間論『時間は存在しない』を参照してもいいでしょう。ロヴェッリが研究している量子論の世界には時間が存在しません。時間はその世界を生きている人間の意識のうえに存在しているだけなのです(その限りでは時間は「存在している」ので、書名とロヴェッリの主張は矛盾しているとも言えます)。近年の脳科学の分野では、脳が時間を知覚していることがわかってきています。脳は物理的な存在ですが、時間はそこで「知覚されている」だけなのかもしれません。
時間は古来より哲学の主要なテーマとされ、ボルヘスに限らず多くの小説家たちも時間をテーマにした作品を描いてきました。物理的に世界に存在する作品という超時間的(第三次過去把持的)なモノと、それを書く作者や読む読者といった、生身の人間の「生きる時間」(第一次過去把持、第二次過去把持)との鮮烈な対比が、彼らの関心をつよく惹きつけたのでしょう。
なかでも貨幣と時間(とりわけ人々の生きる時間)を作品のテーマとしたミヒャエル・エンデの『モモ』は時間論的文学作品の代表格です。
この物語は、少女モモが町に現れ、その町の人々の話を聞くことから始まります。モモに話を聞いてもらうと、町の人々は穏やかで楽しい気持ちになり、子供たちは空想の世界でのびのびと遊べるようになります。そんな町に「時間銀行」の外交員を名乗る男たちがやってきます。「灰色の男たち」と呼ばれる彼らは、町の人々の時間を奪います。
エンデはこの作品で、「灰色の男たち」が銀行を名乗り、人々の「生きる時間」を貨幣のように奪っていく様子を描いています。彼らは町の人々に難解な数式を書いて見せ、時間を節約して銀行に預けることで、銀行に預けた貨幣が利息を得て増殖するように、いつか豊かな時間を手にすることができるとたぶらかすのです。時間を奪われた人々は穏やかで楽しい時間を忘れて、ひたすらあくせくと働くようになります。モモは時間を司る神のような人物のもとを訪れ、その力を借りて灰色の男たちの本拠地に乗り込み、彼らが奪った人々の時間を解放します。
ところでこの「灰色の男たち」は、人々から巻き上げた時間を加工して葉巻のように燃やし、その煙を吸って生きています。葉巻は、南アメリカ大陸原産のタバコの葉を加工して作られる嗜好品で、欧米では紳士の嗜みとして大流行しました。やはり時間をテーマにしたトーマス・マンの小説『魔の山』でも、上流中産階級出身の主人公ハンス・カストルプが頻繁に葉巻を楽しむ場面が描かれています。葉巻はいわば、植民地主義時代の象徴であると同時に、それを買い求める財力と、喫煙を楽しむ時間的余裕や文化的卓越性を同時に含意するモチーフなのです。
書物と時間、綴じと開き
フランスの現代哲学者ジャン=リュック・ナンシーはその書物論『思考の取引』において、書物とは「閉じと開かれのあわいにあるもの」だと書いています。それはドアが閉じている状態だけではただの壁であり、開いているだけではドアとしての意味がないことと同様だ、とも説明されます。表紙と裏表紙の働きによる「閉じ」と、任意のページを開き、それを読むという「開かれ」、この両方があってはじめて書物はまさに書物たりえるのです。なお、同じく「とじ」と読む「綴じ」とは、バラバラのページ(紙葉)と表紙、裏表紙などを糸や糊で一冊のまとまりにすることを指します。書物の「閉じ」は「綴じ」によって可能になり、「綴じ」によって「閉じ」られることで、ひとは書物を「開く」ことも可能になるのです。
ボルヘスの「バベルの図書館」に立ち戻るなら、ただ書物があるだけの永遠の時間ではなく、そこに生きる人間たち(司書)の「生きる時間」があること、すなわち無数の無意味な文字列のなかに、意味のある文字列を見つける者がいるということです。ナンシーの表現に引き戻せば、図書館の存在そのものの永遠性(とそこに収蔵されている無数の無意味な文字列の書物)が「閉じ」であり、そのなかに見出される意味のある文字列の書物(というよりも、その書物に意味を見出すこと)が「開かれ」である、ということになるでしょう。
ここまでの議論を踏まえるならば、ナンシーの書物論は「閉じ/永遠/第三次過去把持」と「開かれ/生きた時間/第一次過去把持・第二次過去把持」とのあわいに「書物」がある、と述べていることになります。生きた時間が、書き留められたり、貨幣によって数値化されることによって、書物や貨幣として「閉じ」られていく、これが本論でこれまで「ブラックボックス化」と呼んできた現象です。視覚を失いつつあった晩年のボルヘスは、『語るボルヘス 』のなかでいみじくも「時間」は非視覚的なものだと語っています。「生きた時間」は書物や貨幣へと変換される過程で不可視化され、「生きた時間」を超越する時間性において同語反復を繰り返し、増殖していくのです。
グランドデザインとブルシットジョブ
現代を代表する大富豪のひとりが、アマゾン社の創業経営者ジェフ・ベゾスです。その半生を追ったブラッド・ストーンによる評伝『ジェフ・ベゾス 果てなき野望』(以下、『果てなき野望』)によると、ベゾスは子供の頃から読書家でした。既に書いたことですが、やがてベゾスに巨万の富をもたらすアマゾン社を設立する前に彼が読んでいた本が(他にもたくさん読んでいたであろうにもかかわらず)、カズオ・イシグロの『日の名残り』であったことをこの伝記は強調しています。
『日の名残り』は、第二次世界大戦時にイギリス貴族の屋敷に勤めていた執事の手記として書かれています。第二次世界大戦後、主人公であるこの執事のかつての雇い主は、ナチス政権のドイツに寛容だった姿勢を糾弾され没落します。作品に描かれているのは、アメリカから新しい雇い主がやってきてからこの執事が過ごすことになる時間です。主人公は手記のなかでかつての雇い主との思い出を振り返りつつ、当時の仕事仲間に送るべく手記をしたためている、という設定です。主人公は、ともに働いたこともある、執事としての先輩でもあった自分の父親の姿を手記のなかで描き出しています。
時代の移り変わりを肌で感じながら、主人公は「偉大さ」こそが肝心だ、と繰り返します。第一に、それは執事としてのつとめをまっとうすることですが、大貴族だったかつての雇い主が持っていたような類の高潔さをも指しているのかもしれません。物語が進行するにつれ、主人公はかつての仕事仲間だった女性に淡い恋心を抱いていたこと、だがそれは叶えられなかったらしいことが徐々に判明します。あたかもそれは、主人公の信奉する「偉大さ」の犠牲になったようにも見えるのです。
かつての雇い主もナチス擁護(ユダヤ人差別で使用人を解雇する場面もあります)という過ちをおかしましたが、「偉大さ」はそのような瑣末ごとでは揺るがない、いやむしろ、恋愛や政治といういっけん重要と思われる事象に対して動揺しすぎないようにするためにこそ「偉大さ」が称揚されているようにも読めるのです。
『果てなき野望』という評伝はベゾスの公認のもと発表されているので、『日の名残り』についてのくだりも、好意的に解釈しすぎるのは禁物でしょう。しかしアマゾン社が「ユーザーファースト」を社是として掲げ、いまやユーザーにとっての有能な「執事」のように振る舞おうとしていることを考えるとき、この「偉大さ」というテーマは重要に思われます。ユーザーは往々にして誤りをおかしますし、サービス提供者であるアマゾン社もまた誤った施策に向かう可能性があります。それでもなお何か「偉大さ」を維持していこう、という解釈です。
この「偉大さ」を言い換えるならば、グランドデザインとでもいうべきものになります。グランドデザインとは、たとえば複数の事業計画を包括する全体性を計画(デザイン)することです。こう書いてしまうと、あまりに世俗的すぎると思われるかもしれませんが、アマゾン社を立ち上げる前のベゾスが金融業の最先端にいたことを思えば、この言い換えも不自然ではありません。当時の上司とたびたび繰り返していた話し合いのなかでベゾスが紙ナプキンにビジネスモデルを描いたという有名なエピソードを思い起こせば、ベゾスがグランドデザインを重視し、その後もその「偉大さ」を頑なに貫徹してきたことがよく窺えます。
『果てなき野望』には、ベゾスがまるで未来を予測しているかのように自社サービスの方向性を確信し、その方向性に従わない者たちを次々と切り捨てていく残酷な様子が書き留められています。そこにはクロソウスキーが模索した『生きた貨幣』のファンタスムも、グレーバーが『ブルシット・ジョブ』で取材したクソどうでもいい仕事さえも、入り込む余地が無いかのようです。
もっともこれは経営者であるベゾスの視点からの話であって、超巨大企業となったアマゾン社での労働の実態とはかけ離れているかもしれません。ただし、少なくともベゾスの描くグランドデザインに無関心で、彼の目指す「偉大さ」を他人事としか思えない従業員にとっては、アマゾンでの仕事はブルシットジョブにほかならないと感じられるはずです。
「バベルの図書館」のくだりで述べたような、永遠の時間との対比が喚起する鮮烈なイメージには遠く及ばないかもしれませんが、ベゾスのような経営者の考える遠大なグランドデザインと、その末端従業員が感じるブルシットジョブとの間にある間隙もまた、ナンシーのいう「閉じ」と「開かれ」の卑近で現実的な例になっているのかもしれません。
※次回は2月23日配信予定です。