カネは書物、書物はカネ 情報流通の2つの顔 第13回

文学作品に畳み込まれる「生きた時間」、芥川龍之介作品を中心に

永田 希(ながた・のぞみ)

貨幣と書物は、ともにブラックボックスであり、何かを不可視化すること(閉じ)と、それを開くことのあいだにあります。そこに不可視化されているのは「生きた時間」であり、不可視化されてブラックボックスとなった貨幣や書物は自己増殖を続けていきます。
今回は、書物とりわけ文学作品において「生きた時間」がブラックボックスへと畳み込まれていく過程を辿ってみます。

「人生は一行のボオドレエルにも若かない」

 1927年に雑誌『改造』に発表された小説『或阿呆の一生』は、芥川龍之介の遺作です。芥川の自殺後に発見されたこの作品には芥川と交流のあった谷崎潤一郎や夏目漱石とおぼしき人物が登場する自伝的側面があります。芥川は、友人の久米正雄に宛てた短い文章に続けて、次のようにこの作品を開始します。

 「それは或本屋の二階だつた。二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子に登り、新らしい本を探してゐた。モオパスサン、ボオドレエル、ストリントベリイ、イブセン、シヨウ、トルストイ、……
 そのうちに日の暮は迫り出した。しかし彼は熱心に本の背文字を読みつづけた。そこに並んでゐるのは本といふよりも寧ろ世紀末それ自身だつた。ニイチエ、ヴエルレエン、ゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイ、ハウプトマン、フロオベエル、……
 彼は薄暗がりと戦ひながら、彼等の名前を数へて行つた。が、本はおのづからもの憂い影の中に沈みはじめた。彼はとうとう根気も尽き、西洋風の梯子を下りようとした。すると傘のない電燈が一つ、丁度彼の頭の上に突然ぽかりと火をともした。彼は梯子の上に佇んだまま、本の間に動いてゐる店員や客を見下した。彼等は妙に小さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。
「人生は一行のボオドレエルにも若かない。」
 彼は暫く梯子の上からかう云ふ彼等を見渡してゐた。……」

 この短編を構成する50以上におよぶ節の最初に置かれたこれは「時代」と題されています。 この節に続くのは「母」と題された節で、芥川の幼い頃に精神に異常をきたして精神病院に入院した母を思い出す場面が描かれています。芥川の実母は入院後亡くなり、幼い龍之介は母親の実家に引き取られて育てられることになるのですが、その頃のことが「母」の次の節「家」で語られます。
 『或阿呆の一生』は、「母」以降は先述のとおり芥川の自伝的な描写がまるで映画のモンタージュのように連続していき、これが遺作であることを知っているわたしたちには、死の直前にある人が目にするという走馬灯のように思われるでしょう。
 ただし、さきに引用した最初の節で芥川じしんが書き付けているように「人生は一行のボオドレエルにも若かない」と、書店にいる人たちは「言う(云ふ)」のです。この「書店にいる人たち」も芥川の作中人物なので、芥川は自分で自分の人生を「一行のボオドレエルにも若かない」つまり人生など他人の詩の一行ほどの価値もないと言っているのです。
 芥川は、本論でこれまで言及してきた『魔術』『杜子春』を1920年に発表しています。『魔術』は、インドから来た独立運動の活動家ミスラの術によって「ミスラに教わった術を仲間に披露する」といういわば幻覚を見せられるという話。『杜子春』は、中国唐王朝の都に住む若者が仙人の住まいを訪れ「妖怪に脅されたり、地獄に落とされて両親が苛まれる場面」の幻覚を見せられるという話でした。
 『魔術』『杜子春』に並べて『或阿呆の一生』を読むとき、「一行のボオドレエルにも若かない」と言われた芥川の「人生」もまた、ミスラの魔術や仙人の仙術のように、芥川が読者や芥川じしんに見せる一種の幻覚のように思われてはこないでしょうか。
 芥川の『杜子春』は、唐の時代に書かれた同名の作品を童話化したものでした。唐代の中国ではこのような作品が他にも書かれています。
 たとえば『枕中記』。どんな夢でも叶えられる枕を仙人から与えられた若者が、あらゆる成功を手にする夢を見るという話です。「邯鄲の枕」「邯鄲の夢」という言葉で日本でもよく知られています。また芥川はこの作品をもとに1917年に『黄梁夢』という掌編を書いています。
 唐よりも前の時代、秦によって中国が統一される前の思想家の荘子が語ったという「胡蝶の夢」という説話もこれに似た構造を持っています。
 ある日、荘子は夢のなかで胡蝶(蝶)でしたが、はたしてその夢を見ているとき、自分は蝶なのか荘子なのか。より正確に言えば、いま自分は荘子だと思っているが、蝶が夢を見て自分を荘子だと思い込んでいるだけかもしれない。両者のいずれであるかは決定不能なのではないか、という話です。
 荘子はこの説話によって「本当の自分は何なのか」という問題設定そのものが思弁的なものに過ぎないということを指摘しようとしたと考えられています。
 荘子はそれが夢であっても現実であっても、自分が蝶だと思っている時は蝶で、荘子だと思っている時は荘子である、と語っています。芥川の『魔術』や『杜子春』のように、あるいは唐の『杜子春』や『枕中記』のように、ここでも「目が覚める」の意味合いが通常とは微妙に異なることに注意してください。
 さらに『或阿呆の一生』になると、芥川は「人生」を「一行のボオドレエルにも若かない」と、書店にいる人たちの言葉を借りて明確に価値づけています。 

プラトンの洞窟とマンの『魔の山』

 荘子は紀元前4世紀から3世紀ごろの人物ですが、それよりさらに100年ほど前に生きたギリシャの哲学者がプラトンです。プラトンはその主著『国家』で次のようなよく知られた譬え話を書いています。
 ある地下の洞窟に、手足と首を縛られて動けない人々がいます。彼らは振り返ることもできず、一生のあいだ洞窟の奥しか見ることができません。洞窟の外では、さまざまな器物を運ぶ人たちがいて、洞窟に縛られている人々は、運ばれていく器物の影だけを見ています。洞窟の外側で器物を運ぶ人たちの話し声も聞こえます。そうすると、洞窟に縛られている人々は、器物の影を実体として認識するようになるだろう、と。
 プラトンはイデア論と呼ばれる独特の思想を持っており、その説明のためにこの譬え話をしています。洞窟の外側で運ばれていくものがイデアであり、わたしたちは洞窟で縛られ、その影しか見ることができず、その影をこそ実体として認識していると言うのです。荘子ならば、もしかするとその影を実体として認識してもいいじゃないか、と言うかもしれません。プラトンは、この洞窟で縛られていた人々のうちのひとりだけがいましめを解かれて振り返り、洞窟を抜け出し、洞窟の壁に影を落としていた器物の本当の実体を目にすること、そしてそのあとふたたび洞窟に戻り、いまだ縛られたままの人々と言葉を交わすところまで話を進めます。縛られたままの人々は、洞窟に戻った者の見たことを信じずに影こそ実体であると言い張るばかりか、彼らと意見を異にする彼を殺そうとすらするだろう、と言うのです。個人的な主観の問題を論じた荘子とは違い、集団における認識の齟齬の問題にしているところがプラトンの洞窟の比喩の特徴です。
 芥川の『或阿呆の一生』も、「書店」の「店員や客」という集団の発言として「一行のボオドレエル」のくだりが描かれている点で、集団の問題を扱っていると言えるでしょう。
   ドイツの作家トーマス・マンが『魔の山』を発表したのは1924年でした。この作品でマンは、スイスの高山にある療養所に住むことになる青年ハンス・カストルプの日々を描いています。彼は療養所に住む人々と交流するなかで徐々に時間感覚を弛緩させていきます。作品の後半、吹雪の雪山で遭難しかけたカストルプは意識を失い、奇妙な幻覚を体験します。それまでカストルプが療養所で出会う人々と交わした、時間や人生についての思弁が立脚していた現実の条件が無効になる幻覚です。

 「しかし、彼が小屋から身を解き放って、一歩でも前へ踏みだすやいなや、風は大鎌のように彼に切りかかり、彼を保護する壁ぎわへ押し戻した。疑いもなくこの壁は彼に指定された滞在地で、彼はさし当りそれで満足しなければならなかったが、気分転換に、左肩でよりかかり、右足をささえにし、左足を少しぶらぶらさせて、これがしびれないようにすることだけは自由にやれた。こんな天候に家を離れるものでない、と彼は考えた。ほどほどの気晴らしは差支えない。しかし革新を求めたり、旋風に喧嘩を売ったりしないことだ。じっとして、なんとしても頭を垂れていることだ、なにしろ頭がとても重いのだか 。この壁は具合がいい、この材木は。ある種の温かみがここからでてくるようだ。ここで温かみなどといえるなら。木材にこもっているつつましやかな温かみだ。おそらくは、むしろ気分の問題、主観的……ああ、たくさんの樹木。ああ、生あるものの活きいきとした大地。なんという芳しい香りだろう。 ……
 彼の眼下、彼がたたずんでいるらしいバルコニ ーの下は公園になっていた、──広々として、あふれるばかりの緑の闊葉樹の公園で、にれ、プラタナス、ぶな、かえで、白樺などが、豊満な、新鮮な、微光を放つ葉の飾りの色調にかすかな陰影を見せ、梢になごやかな葉ずれの音をたてていた。」(高橋義孝訳、以下同)

 このように、吹雪の雪山で遭難したカストルプは孤立した小屋の壁によりかかりながら、ふと温かい幻覚に陥っていきます。凄まじい雪風の荒れ狂う「白い闇」から一転して穏やかな地中海の景色の描写がしばらく続き、やがてその幻覚のなかで神殿に入ったカストルプは自分を責め立てる女たちに追われて、ふと我に返ります。

 「死物狂いの勢いで彼はその場から走り去ろうとした──そして、背後の円柱に横向きにぶつかって転倒した。おぞましいささやきと罵声をなおも耳にし、冷たい戦慄にまだがんじがらめにされたまま、自分が小屋のそばの雪のなかで、片腕を下にして横たわり、頭を寄せかけ、スキーをはいた両脚を伸ばして倒れているのに気づいたのである。
 しかし、それはほんとうの目ざめではなかった。彼はまばたいただけで、ぞっとする女たちを免れたのにほっとしたが、神殿の円柱のそばに横たわっているのか、それとも小屋のそばにいるのか、それははっきりしなかったし、またそんなことはさほど重大なことではないように思い、まだ夢を見つづけているような格好だった、──その夢はもはや映像はなく、観念的なものにすぎなかったが、だからといってそれが冒険的で錯乱したものであることには変りはなかった。
「夢だとは思ったさ 」と彼はほそぼそと戯言をいった。 「実に魅力のある、だが恐ろしい夢だった。」

 この幻覚(夢)によって、カストルプは療養所で出会った善良な人文主義者セテムブリーニと、その論敵にして徹底した教条主義者であるナフタという、生命と死をそれぞれ代表する友人のことを思い出します。快活な人間的生を肯定するセテムブリーニと、冷徹で虚無主義的なナフタとの論争は、それを傍で聞くカストルプに常に戦慄を覚えさせていましたが、同様に戦慄を与える吹雪の雪山で遭難したことによってカストルプは、単に死に抗う生でも、生を組み伏せる死でもない、より良いものを確信するに至ります。

作中人物、機械、読者、それぞれの「時間」

 芥川の『魔術』のように、幻覚をみているあいだの体感的な時間経過と、いわば現実的な時間経過とが著しく異なることに『魔の山』のカストルプも気がつきます。芥川の『魔術』では葉巻の燃え具合から現実世界の時間経過が数分のことだったことが示されますが、『魔の山』のカストルプは懐中時計で現実の時間経過を確認します。幻覚をみる前、遭難していることに気づきはじめた段階ですでに心理的な時間経過と現実のそれは乖離を示しており、次がその描写です。

「もうそろそろ夕方にちがいない、おおよそ六時だろう、──それほどの時間をどうどうめぐりするのに空費したとは。いったい何時だろう」そして彼は時計を見た。(中略)──名前のイニシャルを組み合せて刻みこんだ撥ね蓋の金時計は、ここの荒涼たる孤独世界で、活きいきと義務に忠実に時を刻んでいた。彼の心臓 、胸郭の有機的な温かみの中で動く人間の心臓に似て。……
 四時半だった。なんたることだ、吹雪がはじまったとき、ほとんどもうそのくらいの時刻だったではないか。彼の彷徨がほとんど十五分も続かなかったとは信じられるだろうか? 「時間が己には長くなったのだ」と彼は考えた。「どうどうめぐりは時間を伸ばしてしまうらしい。しかし五時か五時半には本式に暗くなる、これはたしかだ。」

 そして幻覚の体験から我に返って時計を見たときの描写は次のとおり。

 「時計を引っぱりだすのに成功した。時計は動いていた。止ってはいなかった。彼が晩に巻くのを忘れたときは、いつも止っていたものだが。まだ五時を示していなかった──まだまだであった。それには十二分か十三分か足りなかった。不思議だ。たった十分間かそれよりいく分長く、ここの雪のなかに横たわって (以下略)」

 『魔の山』は、スイス高山の療養所といういわば異界で、カストルプ青年の体感する時間が加速度的に弛緩していく様子を描く作品です。カストルプ青年の体感時間が弛緩すれば時間するほど、日々のエピソードを描くページ数は少なくなり、この作品の読者の体感時間も弛緩していくという仕組みが採用されています。
 たとえば、カストルプ青年が療養所で過ごす最初の3週間は、この作品のほぼ前半部を占めています。しかしカストルプ青年よりも早くから療養所で暮らしていたセテムブリーニに言わせれば「私たちは週などという単位は知らない」、つまり療養所での暮らしは月、年、といった単位で数えるのが適当なほどゆっくりとしているということです。最初の3週間が過ぎたあと、次の3週間があっという間に過ぎ去り、次はさらに6週間が経過します。ページをめくるスピードが同じでも、語られている物語のなかで進む時間は「加速」していくのです。
 カストルプ青年が体験する、先述の遭難と幻覚は、療養所での生活のなかで時間が弛緩する過程が極限に達しようとする、作品の終盤の手前に置かれており、ここにきてカストルプ青年の体感時間と時計の示す機械的な時間、読者の体感時間とが分離し、混乱する場面です。

夢と現実を繋ぐもの

 時間を扱った小説で最も有名な作品はおそらくマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』でしょう。10年以上にわたって断続的に発表されたこの作品の第1篇が世に問われたのは1913年、1922年に作者のプルーストは世を去りますが、その後も遺稿をまとめるかたちで刊行が続けられ、最後の第7篇が発表されたのは芥川が自死する1927年です。
 本論でたびたび触れているアンドレ・ジッドの『贋金づくり』が発表されたのは1925年。なおジッドは『失われた時を求めて』を発表する媒体を探していたプルーストが原稿を持ち込んだ文壇誌『新フランス評論(NRF)』創刊者のひとりです。この雑誌を刊行していたガリマール社は『失われた時を求めて』の出版を拒否し、 この作品は別の版元からプルーストが自費出版するかたちで発表されました。このことをのちに反省し、ジッドは1914年にプルーストに宛てて謝罪文を送り、ガリマール社が第1篇の出版権を買い取り、続篇も同社から刊行する方針を提案しました。この提案は最終的に合意にいたることになります。
 『失われた時を求めて』は、作品の語り手がある日、口にしたマドレーヌから過去の記憶を辿り、えんえんとその「記憶」が記述されていくという形式で書かれています。しかし実は、そのマドレーヌのくだりが始まるよりも前に、語り手が寝入る間際の描写が置かれています。

 「長い間、私はまだ早い時間から床に就いた。ときどき、蠟燭が消えたか消えぬうちに 「ああこれで眠るんだ」と思う間もなく急に瞼がふさがってしまうこともあった。そして、半時もすると今度は、眠らなければという考えが私の目を覚まさせる。私はまだ手に持っていると思っていた書物を置き、蠟燭を吹き消そうとする。眠りながらも私はいましがた読んだばかりの書物のテーマについてあれこれ思いをめぐらすことは続けていたのだ。ただ、その思いはすこし奇妙な形をとっていて、本に書かれていたもの 、たとえば教会や四重奏曲やフランソワ一世とカール五世の抗争そのものが私自身と一体化してしまったような気がするのである 。そうした思い込みは目が覚めても少しの間は残ったままだ。それは私の理性を混乱させることはないが、鱗のように目に覆いかぶさるので、燭台の灯がもう消えているかどうかを確かめることはできない。だが、かような思い込みはしだいに意味不明なものに変わってゆく、あたかも輪廻転生を経たあとの前世の思考のように。書物のテーマは私から離れ、それをさらに追うか否かは私の裁量に任される。」(高遠弘美訳、以下同)

 1913年に発表されたこの第1篇の書き出しは、1924年にマンが発表する『魔の山』で主人公カストルプ青年が体験する幻覚と、その幻覚から我に返ってすぐに陥る混乱をちょうど逆順にしたように、語り手が夢うつつの状態へと 向かっていく様子を描いています。
 「胡蝶の夢」の説話で荘子が語った「夢のなかの自分(蝶)」と「目覚めているときの自分(荘子)」とが決定不能である状態について、『魔の山』は覚醒後を、『失われた時を求めて』は入眠前を、それぞれ描いていると言えるでしょう。
 さきの引用部に続く部分でプルーストは「入眠前」のさまざまな記憶を呼び起こすのですが、注意したいのはその記憶のひとつに 幻燈機を眺めた場面があることです。プルーストの時代の幻燈機はランプの上に置いて使う装置で、装置のホルダーに絵の描かれた板を嵌め込み、それをランプの光で照らすことで影絵が投射されるというものです。
 この仕組みを用いて、コマ送りの「走る馬」の姿をアニメーションの要領で投射するのがいわゆる「走馬灯」です。同様の技術を使ってより大規模に動画を見せる映画が普及することで幻燈機や走馬灯は廃れていきます。映画技術を発明し「映画の父」と呼ばれるリュミエール兄弟がその代表作のひとつである『ラ・シオタ駅への列車の到着』を公開したのは1895年。プルーストが24歳のときでした。  『ラ・シオタ駅への列車の到着』は、タイトルのとおり駅に列車が到着する様子をとらえた作品ですが、この時代の列車とは蒸気機関車(汽車)です。『失われた時を求めて』冒頭でプルーストは次のように書いています。

 「私の精神からすると、暗闇ははっきりとした理由もなく存在する人知を超えた、まさしく曖昧模糊としたものに思われる。いったい何時になったのだろうと私は考える。汽車の汽笛が聞こえてくる。それは近く、また遠くから聞こえ、ちょうど、森のなかで一羽の鳥が鳴いたときのように(以下略)」

 このあとも「汽車」は本作にたびたび登場します。マンの『魔の山』でも汽車は高山の上にある療養所と、カストルプ青年の故郷のある「低地」とを繋ぎ、いわば異界と日常世界とを繋ぐ役割を果たしています。

作品に自分の人生を畳み込む

 プルーストが『失われた時を求めて』を発表したのが1913年、芥川龍之介が『魔術』と『杜子春』を発表するのがいずれも1920年、51歳でプルーストが世を去るのが1922年、マンの『魔の山』が発表したのが1924年、ジッドの『贋金つかい』が1925年、そして『失われた時を求めて』最終巻となる第7篇の発表が1927年で、この年に芥川は『或阿呆の一生』を遺して自殺します。
 ややこじつけめいて見えるかもしれませんが、プルーストが自分の人生を驚異的な記憶で遡りながら綴った自伝的作品である『失われた時を求めて』のいちおうの完結と、芥川の、やはり自伝的な『或阿呆の一生』の発表が同じ年であること、そしていずれも遺稿であったことに、何かしら意味を見出せるとしたら、それは何でしょうか。その意味とは、たとえばある作者が自分の作品に自分の人生を畳み込むという試みがどういうことなのか、という問いにあるでしょう。
 文学のなかにはメタフィクションと呼ばれるジャンルがあります。それはしばしば「小説について書かれた小説」と説明されます。「メタmeta」とは「上位の」という意味の接頭語で、物理学を意味する「フィジックス」に付して形而上学(メタフィジックス)という言葉が作られたりします。小説家が自分の一生を振り返る場合、それは必然的に「小説について語る小説」になるでしょう。プルーストの『失われた時を求めて』も、芥川の『或阿呆の一生』もメタフィクションとしての性質を持っています。
 本論で既に述べたとおり、言語はその語る対象を不可視化するブラックボックスです。言語で作られる文学(小説、書物)もまたブラックボックスです。自伝的な作品を綴る作者たちは、そのブラックボックスに自分の人生を畳み込むことを試みたと言えるでしょう。
 読者は書物というブラックボックスを開いたり閉じたりしながら、そのなかにフィクション(虚構)というブラックボックスの体裁で畳み込まれた作者たちの人生を、やはり開いたり閉じたりしながら垣間見ることになるのです。このブラックボックスの開閉は、そこに書かれていることの真実性と虚構性が明滅するように入れ替わり、読者をあたかも幻惑するような働きを持っています。ジッドが『贋金づくり』で本物性と贋物性をくるくると入れ替えながら描いたように、またプルーストが『失われた時を求めて』の冒頭で、そしてマンが『魔の山』の終盤で描いてみせた、夢と現実が不分明になる様子はこのブラックボックスの開閉がもたらす真実性と虚構性の明滅を利用して描かれているのです。

高低の視線移動と幻燈機

 「小説について書かれた小説」という入れ子構造を持つメタフィクションには、「小説のなかに書かれた小説」と、それをいわば「覆う」ように書かれる「小説の外側の小説」というふたつの層があります。
 『失われた時を求めて』ならば、マドレーヌを食べてから思い出される「記憶」が「小説のなかに書かれた小説」であり、その「記憶」を思い出している語り手が「小説の外側の小説」ということになります。
 『或阿呆の一生』の場合、本節冒頭に引用した「時代」が「小説の外側の小説」、それに続く「母」以降が「小説のなかに書かれた小説」といえるでしょう。『魔術』『杜子春』は、それぞれ魔術と仙術によって主人公たちが体験することが「小説のなかに書かれた小説」、夢オチ的に主人公たちが戻ってくる層が「小説の外側の小説」となります。
 興味深いのは、『或阿呆の一生』の「時代」において、語り手が「梯子の上」にいて書店のなかを見渡しているということです。語り手がこの位置から降りる描写がないままに「母」以降が始まるのです。
 メタフィクションが文字どおり「メタ」フィクションなのだとすると、「小説の外側の小説」は「小説のなかに書かれた小説」の「上位(メタ)」にあります。作品の読者は、作品の表面(字面)を読みながら小説の外側と「なか」を往還する、そのときの虚構と現実の明滅を味わうことになります。いわば「ほんとうに」小説の「外側」にいるのは読者その人の筈なのに、メタフィクションは作品の「なか」にもうひとつの「外側/なか」の二層構造を作ることで、あたかも読者を作品内に引きずり込む、あるいは読者のいる現実に作品が漏れ出てくるような感覚を生み出します。
 『或阿呆の一生』で語り手が梯子の上にいるように、『魔の山』のカストルプ青年は汽車によって「低地」と繋がれた「高山」の療養所にやってきます。『或阿呆の一生』では、語り手の記憶は見下ろされているのですが、『魔の山』はほぼ一貫して高山の療養所でカストルプ青年が体験する出来事が書かれています。さらに言えば、「雪」という節では療養所を出たカストルプ青年がより「高い」雪山で幻覚を体験し、療養所へと戻る場面が描かれています。この「低地/高山の療養所/雪山」という高低を視点が移動することと、ブラックボックスの開閉が対応していることに注意してください。
 この高低の視点移動は、さきに触れたプラトンの洞窟の比喩にも当て嵌まります。プラトンはまるで幻燈機や走馬灯のように壁に影が投射される洞窟を想像し、その影の光源を「外側」に求めました。プラトンの比喩に登場する「振り返る者」は地の底の洞窟を抜け出し「上」にある地表に出ていき、ふたたび洞窟に戻るのです。
 プラトンの洞窟の比喩において、洞窟のなかで縛られている一群を抜け出した者は、洞窟の「外側」つまり地上で太陽の光を目の当たりにします。『或阿呆の一生』の「時代」はまさに日が暮れようとしている場面でした。『失われた時を求めて』の冒頭は寝入りばな、夜です。『魔の山』の「雪」は、先述のとおり夕方です。しかし吹雪のため、視界は雪で覆われ「白い闇」と形容されています。これは夜の闇でも、昼間の明るさでもない、明暗すら不分明になる状態だと言えます。
 このようにプラトンは洞窟と地上、暗闇と明るさ、影と実体を対比し、プルーストは現在と過去、「生きている時間」と記憶を対比し、マンは現実と虚構、生と死(健康と病)を対比したのでした。
 では芥川は『或阿呆の一生』で、何と何を対比したのでしょうか。それは「一行のボオドレエル」が象徴する世紀末(19世紀末)と、自身の「人生」でしょう。梯子の上で彼が眺めた著作の、背表紙に並ぶ舶来の作家たちの名前。その書物が並ぶ書店に響く「客と店員」たちが「言う」こと。彼らが言うには「人生は一行のボオドレエルに若かない」。「若かない」と価値を否定される声を書き留めつつ、芥川はわざわざその「若かない」人生を振り返るのです。
 プラトンは洞窟の比喩で、地上に出て実体を見て戻ってきた者を、洞窟で縛られたままの人々が殺そうとするだろうと説きました。芥川は『或阿呆の一生』のなかで、書店の客と店員たちに「人生」の価値を否定させ、その上でなお「人生」を語ろうとしました。そして自ら実人生では命を断ったのです。芥川にとって「世紀末」は、プラトンにとっての「地上」とはまた別のものだと思われるのですが、プラトンの洞窟の比喩で縛られたままの地下の人々が地上から戻った者を殺そうとしたように、芥川は自分のなかの「客と店員」たちによって殺された、と言えるのかもしれません。

※次回は2月23日公開予定

 第12回
第14回  

プロフィール

永田 希(ながた・のぞみ)
著述家、書評家。1979年、アメリカ合衆国コネチカット州生まれ。書評サイト「Book News」主宰。著書に『積読こそが完全な読書術である』(イースト・プレス)、『書物と貨幣の五千年史』(集英社新書)、『再読だけが創造的な読書術である』(筑摩書房)。
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