分断と衝突を繰り返すアメリカ。今や国民の多くが「数年以内に内戦が起こる」との恐怖を抱いている。そうした時代の変化に伴い、民主主義と国民国家の在りかたに向き合ってきたアメリカ文学も、大きな分岐点を迎えている。
本連載ではアメリカ文学研究者・翻訳家で早稲田大学文学学術院教授の都甲幸治が、分断と衝突の時代において「アメリカ文学の新古典」になりうる作品と作家を紹介していく。
第4回目は、今年6月に逝去したコーマック・マッカーシー。ピューリツァー賞も受賞し、文明崩壊後のアメリカの暴力と善と自然を描いた『ザ・ロード』を読み解く。
アメリカで驚くのは何よりその広さだ、と言ったら、当たり前のことを、とあなたは笑うかもしれない。けれども、本で読んで、あるいは地図で見て知っているのと実際に体験するのとではだいぶ趣が違う。
アメリカに留学していたころ、あるとき学会に参加するというので、ロサンゼルスから飛行機に乗り込み、テキサス州のヒューストンに行くことになった。アメリカ合衆国を半分ほど横断する道のりだが、これだけでも何時間もかかる。
遠くコロラド州からわざわざ引いてきた水でかろうじて緑を保っているロサンゼルスを離れ、上空にあがると、あとは一面の荒野だ。見下ろせば、巨大に広がる大地がすべて茶色でうねうねとうねり、そこに涸れ川の跡だろうか。細かい筋がたくさんついている。
しかもその光景が、びっくりするほど終わらない。1時間飛んでも2時間飛んでも変わらないのだ。これには度肝を抜かれた。東京から2時間ほど飛行機で行けば、もちろん本州から飛び出してしまう。それぐらいの距離を行っても、漠然とした岩の砂漠のままだ。これは本当に地球の光景なのだろうか。眺めていると、だんだんと怖くなってくる。
テキサス州に入るとようやく緑が見えてきた。大きな木が密集して生えているのを見て心が和んだ。ああ、ここには命がある、と思った。ヒューストンに着き、ニューヨークから来た人たちに、「アメリカにも樹が生えているんですね」と言ったら、当たり前だろうと笑われた。ロサンゼルスには、無理やり植えたヤシの木と、生きているんだかどうだか分からない、茶色く枯れたような灌木しかない。だからそのとき僕は、森を見るのは二年ぶりで、それでつい本音を言ったのだが、なかなかわかってもらえなかった。
こんな経験もある。車でロサンゼルスからラスベガスまで行ってみようと思い立ち、周囲の人たちに注意すべきことを聞いた。そうしたら、いろいろ恐ろしいことを言ってくる。フリーウェイから外れてしまうと、携帯の電波は繋がらない。人口が少なすぎて基地局がないからだ。だから連絡が取れなくなることも考えて行動すること。
あるいは、車には必ず何枚か毛布を入れて行くべきだ。日中は暑いと思っても、砂漠は夜から朝にかけて非常に温度が下がる。だからちゃんと備えていないと寒さに凍えてしまうかもしれない。車が急に壊れたのに、誰も助けに来てくれなくて、そのまま一日が過ぎたらどうするんだ。
そんなことを言われて、僕はつくづく嫌になってしまった。そして迷うことなくグレイハウンドのバスに乗り込んだ。おそらく長距離バスなら、僕が運転する車よりも確実に目的地までたどり着くだろう。人がたくさんいれば、いざ何か起こっても、助けてくれる人も多そうだ。
それでも砂漠の道を走っていると、だんだんと怖くなってきた。見渡すかぎり何にもない。そしてときどきポツンと家が建っている。なんでこんなところに住んでいるのか。買い物はどうしているのか。全然理解できない。植物も、動物も、周囲には全くいない。
そうした風景を何時間も何時間も眺めていると、根源的な怖さが湧き上がってくる。それはきっと、大人になるまで、どちらを見ても人がいて、あるいは人がいなくとも、植物が青々と生い茂っている日本で育ったからだろう。命に囲まれ、命の息吹を感じて暮らすのがあまりに当たり前だったから、樹もなく動くものもない光景に恐怖を感じたのだ。
ネイティヴ・アメリカンの人々は、太古の昔からこの大地に暮らしていた。その知恵と能力が卓越したものだったことは、こうした景色を見るだけでよくわかる。この中で何万年も暮らしているなんてすごすぎる。
だが、こうした場所に徒歩で、あるいは馬車で入って行った、ヨーロッパからの探検家や移住者たちは、いったいどんな気持ちでこの広大な荒地をさまよっていたのだろうか。
よほど運が良くなければ、何年も生き長らえることなどできるはずもない。しかも、この場所で生きるための知恵を持っているのはネイティヴ・アメリカンたちだが、彼らとは必ずしも友好な関係にあるわけではない。
そのことは猿谷要『アメリカ西部開拓史』(岩波新書)などを読めばよくわかる。ヨーロッパ人たちはなぜこの巨大な大陸に来ようと思ったのだろうか。それだけではなく、やがてここまで広大な場所を、一つの巨大な国家として統合する、なんていう大それたことを考えたのだろう。
およそ人間的なスケールを遥かに超えた場所を体感しながら、あのとき自分は、長いことアメリカについて勉強してきたけど、根源的なところでは何もわかっていなかったんじゃないか、とまで思った。そうした疑問は今でも、アメリカを考える上で自分の基盤となっている。
コーマック・マッカーシーの『ザ・ロード』では、こうしたあまりにも広大すぎる荒野を父と息子がたった2人で歩いて行く。ここはもはやアメリカ合衆国ではない。確かに北米大陸ではあるが、10年も前に国家は消滅してしまった。それだけではない。植物や動物を含む、ほぼすべての命が死に絶え、生き残った人々は、過去に缶詰や瓶詰めなどの形で貯蔵された食糧を漁って生きている。
一体何があったのか? 300ページ以上ある作品だが、アメリカがこうなってしまった理由は全く明かされない。ただところどころで、ヒントになる描写は挿入される。たとえば、全ての時計は1時17分で止まっている。そして様々な場所の家の庭には核シェルターが整備されている。ということは、10年前に突如、核戦争が起こり、そのまま文明が一瞬で崩壊したのだろうか。しかしながら、メディアも噂話も機能しないこの時代の人々には、何があったかを知る手段が全くない。ただ目の前の危機を回避し続けるだけだ。
死の灰が降り注ぎ、地上に光が届かなくなりつつある今、気候はどんどんと寒冷化していく。今までは親子がなんとか生きてこられた場所も、もう人の命を支えることはできない。
そもそも1か所にいては、周囲の人々に居場所を知られて襲われる可能性が高い。捕まれば殺され、最悪の場合、彼らに食われてしまう可能性すらある。だから、そもそも屋内にいられるのは短期間だけだ。あとはひたすら移動し続け、疲れれば道路から見えない場所に身を隠して眠るしかない。
だから、この親子は南を目指して歩き続ける。少しでも南下すれば、気候も暖かくなるだろうという読みゆえにだ。だが、寒冷化のペースが速ければ、彼らの歩く速度などを軽く追い越してしまうだろう。
だが、この親子に選択の余地などはない。古くなりボロボロに避けた紙の地図を手がかりに、彼らは文明が存在していたころの道を必死にたどっていく。直感に基づいて自分たちが現在いる場所を推測するのだが、 GPSもない今、それが正確かどうかは分からない。
どうして親子2人きりで歩いているのか。息子の母親はどうしたのか。実は数年前まで彼女は一緒にいた。しかし、果たして自殺は許されるのかという論争を夫と幾晩も続けた後、ふいに姿を消したのだ。おそらくもはや生きてはいないのだろう。けれども、実際に彼女がどうなったかは誰にもわからない。
途中で親子はさまざまな困難に出会う。スーパーマーケットのショッピングカートに毛布やビニールシート、手に入れられる限りの食料など、必要なものを全て詰め込み、あと数発しか銃弾が残っていない拳銃を手に、彼らはボロボロの姿で歩き続ける。
靴が完全に破れてしまえば、シートで足を覆って、なんとか前に進めるようにする。住居があれば危険を冒して忍び込み、貯蔵されている食料をなんとか手に入れる。もちろん先に略奪されていることも多い。あるいは誤って、暴力的な集団のアジトに踏み込んでしまう時もある。
そうなれば必死に逃げるが、いつも危険を回避できるとはかぎらない。一度など、敵に息子を人質に取られたことさえある。たまたま相手が一人だったので、隙を突いて父親は貴重な銃弾を放ち、敵の頭を打ち抜いて息子を助けられた。だがふんだんに武器があるわけではない以上、このまま戦い続けられるかは心もとない。
寒さと疲労で父親はどんどん弱っていく。それでも息子のために、そして息子の未来のために、2人は南へ歩き続ける。とうとう目的地である南の海岸にたどり着いた。そして海辺を歩いていて、難破船を発見する。父親は体力を振り絞って船まで泳いでいき、中で食料や医薬品など、使えそうな様々なものを見つけ、少しずつ岸まで持ってくる。
だが、彼の頑張りもここまでだった。歩いていて、ふとした隙に住民に矢を射掛けられ、脚に深手を負ってしまう。自力で傷口を消毒し、糸で縫い合わせて、治療は成功したように見えた。しかしおそらくそこから雑菌が入り込んだのだろう。彼はみるまに体調を崩し、とうとう一歩も進めなくなってしまう。
もう死ぬと気づいた彼は、息子をある男女の集団に託す。彼らが人食いなのか、それとも善意の集団なのかを知る手段はまるでない。だがそれでも、大丈夫だ、という直感が父親にはある。そしてたぶん、その直感は当たっているのだろう、という見通しが開けたところで物語は終わりを告げる。
1933年にロード・アイランド州で、裕福な弁護士の子として生まれたコーマック・マッカーシーは、人生の長い時間をテキサス州やテネシー州、ニューメキシコ州といったアメリカの南の方の地域で過ごしてきた。読みにくいものの、鮮烈な印象を残す彼の文章は、時に過剰なほどの暴力描写に満ちながら、アメリカという社会の成り立ちの根源にまで迫っていく。
僕が初めて彼の作品を読んだのは、1985年に書かれた『ブラッド・メリディアン』である。 1840年代のアメリカとメキシコの国境地帯を舞台として、白人たち、メキシコ人たち、ネイティヴ・アメリカンたちという3つの集団が入り乱れ、互いに攻撃し合う。国境はあってないようなもので、常に複数の勢力がぶつかり合いながらアメリカ合衆国そのものが辺境において形作られていく。
こうした醜い負の歴史を、現在のアメリカの人々は、おそらく見たくはないはずだ。にもかかわらず、彼の作品は全米図書賞や全米批評家協会賞、ピュリッツァー賞といった主要な文学賞を獲得し、何度も映画化されてきた。アメリカ合衆国という国につきまとう暴力性を描写し、鋭く批判して来た彼の作品がベストセラーになるところに、この国のとてつもない矛盾と懐の深さを感じる。
さて、『ザ・ロード』に戻ろう。本書でもの凄いのは自然描写だ。と言っても、その自然はほぼ死に絶えている。たとえば広大な森の樹木がすべて枯れている。だから、その中で親子が寝ていると、雪が降ってきて、周囲の木がどんどんと倒れ始める。
ただ枯死しているだけではない。ある地域では、当たり一面の樹木が焼け焦げていて、脇を通る道路の路面に触れてみるとまだ暖かい。さらに、そこに並んでいる車列は全部が燃えた後で、中では人々が炭になっている。
あるいは海もそうだ。濁った海水の中に、おそらく生き物はいない。だから海まで来ても、魚や海藻などを獲って生き延びることはできない。ただ、打ち寄せる波を見ながら、過去の生命に満ちた姿に思いをはせるだけだ。
ならばもう、生きているものはいないのか。そうではない。編笠茸はかろうじて生き残っている。そしてもう一つ、生き残ったものがいる。人間だ。国家が消滅した今、犯罪を冒しても罰せられる危険はない。こうして人々は、万人の万人に対する闘争状態という、かつてホッブスが『リヴァイアサン』で想定した、暴力に満ちた状態に堕ちてゆく。
その様をマッカーシーはこう描写している。「そのころには食料を売る店はすべて正常な機能を停止し地上の至るところで殺人が横行した。ほどなく世界には子供をその親の眼の前で食うような者たちがはびこるようになり都市は真っ黒な姿の略奪者の一団に制圧されたが廃墟の中をうろつき瓦礫のあいだから歯と眼を白く光らせて中身のわからない缶詰を入れたナイロン製のネット袋をぶらさげて這い出てくるそうした略奪者たちはさながら地獄の酒保の買い物客だった。」(211ページ)。
だが、苛烈な暴力はその振るい手を救わない。復讐の連鎖は彼らを限りなく殺していき、やがて暴力的なカルト教団に属していた人々はすべて死に絶える。それでも暴力にすがりつき、他者から奪うことでなんとか生き延びようとする者たちはまだまだ存在する。だから親子は常に危険に曝されている。
そもそもどうしてこんな希望の無い状態で生き続けなければならないのか。もはや安楽な死の世界に逃げ出してもいいのではないか。けれども息子の母親は言う。「一ついえるのは自分のためだと生き延びられないってことね。あたしも自分のためならここまで来なかったからわかるの。」(67ページ)。言い換えれば、人を生かすためになら、人は生き続けられるのだ。
先に述べたように、こう言っていた母親は姿を消してしまった。それでもなにもかも崩壊した世界で父子とともに数年間、生き続けたというだけで、彼女の強い意志は伝わってくる。そしてその意志は今、父親に引き継がれている。彼が生き続けているのは、ひたすら息子のためだ。息子が生きられるよう、そして今後も生き続けられるよう、彼は息子を守り、そして知恵を与える。そのために必要な時間だけ、父親は息子と旅を続ける。
父親は少年に言う。善い者であれ、と。善い者とは誰か。人間を食わない人間だ。そしてまた、どんなに不利な状況にあっても諦めない人間のことだ。目の前の状況がいかに悲惨でも、かつて存在したことのないユートピアを夢見て、その幻想に逃げてはいけない。あくまで現実に向き合いながら、思いつくかぎりのことを試してみるのだ。
それだけではない。やがて成長した息子は父親に教えるようになる。自分たちから食料を奪い取った男を捕らえ、身ぐるみを剥がした父親に対して、男に服と靴を返すようにと息子は命じる。息子の信念の強さにとうとう父親は折れ、息子の言うとおりにする。
世界が崩壊した後しか知らない息子でありながら、彼の心からは、父親の教えを超える善良さがにじみ出す。そしてこの息子の気持ちが、今度は他人を救い始める。おそらく彼は、新たなアダムとしてこの世界を再構築して行くのだろう。
死にゆく者が次の世代に何を残せるのか。マッカーシーはこの物語を、自分の息子のために執筆したらしい。だからこそ、暴力に満ちながらも、『ザ・ロード』は『ブラッド・メリディアン』にはない明るさや優しさが、ほんの少しだけ書き込まれている。これを僕は、作家の成長と呼んでみたい。そしてこの明るさがあるゆえに『ザ・ロード』という陰惨な物語は、奇妙なほど爽やかな読後感を我々に与えてくれる。
(次回に続く)
分断と衝突を繰り返すアメリカ。今や国民の多くが「数年以内に内戦が起こる」との恐怖を抱いている。そうした時代の変化に伴い、民主主義と国民国家の在りかたに向き合ってきたアメリカ文学も、大きな分岐点を迎えている。 本連載ではアメリカ文学研究者・翻訳家の都甲幸治が、分断と衝突の時代において「アメリカ文学の新古典」になりうる作品と作家を紹介していく。
プロフィール
とこう こうじ
1969年、福岡県生まれ。翻訳家・アメリカ文学研究者、早稲田大学文学学術院教授。東京大学大学院総合文化研究科表象文化論専攻修士課程修了。翻訳家を経て、同大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻(北米)博士課程修了。著書に『教養としてのアメリカ短篇小説』(NHK出版)、『生き延びるための世界文学――21世紀の24冊』(新潮社)、『狂喜の読み屋』(共和国)、『「街小説」読みくらべ』(立東舎)、『世界文学の21世紀』(Pヴァイン)、『偽アメリカ文学の誕生』(水声社)など、訳書にチャールズ・ブコウスキー『勝手に生きろ!』(河出文庫)、『郵便局』(光文社古典新訳文庫)、ドン・デリーロ『ホワイト・ノイズ』(水声社、共訳)ジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』(新潮社、共訳)など、共著に『ノーベル文学賞のすべて』(立東舎)、『引き裂かれた世界の文学案内――境界から響く声たち』(大修館書店)など。