分断と衝突を繰り返すアメリカ。今や国民の多くが「数年以内に内戦が起こる」との恐怖を抱いている。そうした時代の変化に伴い、民主主義と国民国家の在りかたに向き合ってきたアメリカ文学も、大きな分岐点を迎えている。
本連載ではアメリカ文学研究者・翻訳家で早稲田大学文学学術院教授の都甲幸治が、分断と衝突の時代において「アメリカ文学の新古典」になりうる作品と作家を紹介していく。
第3回目はノーベル文学賞を受賞した黒人作家、トニ・モリスンの代表作『ジャズ』と今年9月に文庫化されるエッセイ集『暗闇に戯れて』。アメリカ文学に多大な影響を与えてきた作家が、黒人文化を再解釈して描いてきたものとは?
ひょんなことから、トニ・モリスンのエッセイ集を翻訳することになった。小説家の澤西祐典さんと、アメリカ文学研究者の柴田元幸先生が編訳した『芥川龍之介編 英米回幻想譚』という本がある。これに翻訳者として参加させていただいたのが縁で、岩波書店の編集者であるFさんと、いろいろ話をさせてもらうようになった。
それで、今度Fさんが文庫部門に異動することになって、何かいいアイディアはないか、と話になったのである。いろんな作家の名前が出た中で、何げなく、トニ・モリスンのエッセイ集『暗闇に戯れて』は長らく絶版ですよね、と言ってみた。
これ、30年ほど前に単行本で翻訳が出たのだが、なぜかまったく文庫化されず、そのまま入手不可能になっていたのである。当時は古書の値段がとんでもないことになっていた。そしたら、それ、いいですね、ひょっとして都甲さん翻訳やってみる気ある、という流れになった。驚愕である。
そのとき、なんでトニ・モリスンのこのエッセイ集を思いついたかと言えば、 20年ほど前、ロサンゼルスにある南カリフォルニア大学の英文科に留学していたころ、これが教科書だったのだ。100ページほどの薄い本だったが、なかなか内容には骨があった。
白人が書いたものも黒人が書いたものも、実はアメリカ文学はすべて黒人の存在を前提としているのではないか、という画期的な議論で、強い衝撃を受けたのを覚えている。留学するまで僕は、特にマイノリティの文学には興味がなかったから、そんなアメリカ文学の見方もあるんだ、とモリスンの議論から強い影響を受けた。
当時、僕を指導してくれていたのが、ヴィエト・タン・ウェン先生だ。彼はもともと南ベトナムの出身だったが、1975年に南ベトナム政府が崩壊すると家族で出国し、そのままカリフォルニア州に居を構えた。やがてカリフォルニア大学バークレー校で英文学の博士号を取得し、その後ほどなくして、南カリフォルニア大学で終身在職権を得たのである。それが30歳、ということは、まあはっきり言って天才だ。しかも副業である小説『シンパサイザー』(ハヤカワ文庫)で後年、ピュリッツァー賞を獲ることになるのだから恐ろしい。
年下である彼から、僕は強い影響を受けた。一言で言えば、マイノリティから見たもう一つのアメリカ文学、とでも言おうか。アジア系アメリカ人たちの文学や映画、演劇などを幅広く研究していた彼と一緒に、マキシン・ホン・キングストンの小説など、さまざまなマイノリティ文学を読むうちに、これはこれで素晴らしいものだと思うようになった。
それだけではない。彼はもちろん、レイモンド・カーヴァーなど、マジョリティの文学もたくさん読んでいる。さらに加えて村上春樹も好きだという。『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』なんて最高だね、と言う先生に留学先で出会うとは思わなかった。国や言語にかかわらず、感覚が合う人っているもんですね。
そして、彼の授業で読んだ一冊がこのトニ・モリスン『暗闇に戯れて』だったのだ。そんなに厚い本ではないし、ざっくりと原書で内容を掴むのは、そこまで苦ではなかったという、ぼんやりとした記憶があった。だからこそ、岩波のFさんにうっかり提案してしまったのだ。
「うっかり提案してしまった」という言い方をしたが、確かに、訳してみてまるで後悔がなかったか、といえば嘘になる。一言で言えば、翻訳するのがとにかく難しかった。いかに英語で楽しく読めても、いざ日本語に訳そうとすると、モリスンの文章は急に 90度にそそり立った岩山の壁となって、僕の前に立ちふさがったのだ。
エッセイの内容自体はシンプルである。アメリカの文化や文学は、自主独立を重んじ、荒野などの新たな世界を切り開いていく、高度に個性的な人々によって作られている。自由と民主主義に基づいたその文化は、対話を重んじる、平等でオープンなものだ。
このこと自体には、特にモリスンも異存はない。けれども、そうした自由で強い個人の多くは白人男性である。そういった人間として自分たちを定義する上で、そうでない者としての黒人たちを彼らは考えているのではないか。これがモリスンの議論だ。言うなれば、主人が存在するためには、常に奴隷としての誰かが前提となっているのではないか、という話である。
こうした論旨は完全に腑に落ちる。そして名文で書いてあるモリスンのエッセイから、こうした内容を掴み取るのはそこまで難しくない。難しいのは、文章の細部を細かく読み解こうとしたときだ。まずは、意味や音の連想で次々と単語が連続して行く。その過程で、いままで見たこともないような単語が登場する。あるは、見たことがある単語でも、知らなかった意味で使われている。
そうした単語が組み合わされて文章になっているのだが、その文章がとにかく長い。どんどん挿入句が入ってくる上に、構文がやたらと複雑だ。しかも、andなどの使いかたが破格だったりする。だから、どこがどこを修飾しているのか、あるいは、どこがなにと並列しているのかを読み解くのが難しい。すなわち、文法構造と内容を両方考慮しなければ、なかなか細かい文意が分からないのだ。
加えて、論じられているアメリカ文学の作品がウィラ・キャザーなど、そこまで日本では広く読まれていないものだったりする。あるいは有名なポーやヘミングウェイなどでも、そこまで知られていない作品が対象となる。だからまずは、扱われている作品に触れて内容を掴んだ上で、モリスンが標準的な読みをどうずらしているのかを見る必要がある。これはなかなか大変だ。
理論的な枠組みを必ずしもモリスンが明示してくれない、という点も難しかった。作中、重要な概念として「アフリカニズム」という言葉が出てくるのだが、これはモリスン自身の造語である。あるいは造語とまでは言えないとしても、彼女らしい独特の使い方がされる。
実はこれはサイードの「オリエンタリズム」を、アラブの人々からアメリカの黒人たちに置き換えたものだ、ということが分かれば、ああ、なるほどね、と全体の論旨が見えてくる。だが、なぜかモリスンはそういうベタな書き方をしない。私のエッセイを読み解ける人なら当然そんなことわかるでしょ、というふうに、いきなり説明なしに書いていく。いや、わからないですよ。
要するにモリスンは、彼女特有の詩的な小説言語で,論文的な内容を書いてしまっているのである。通常、そうした文章で論文は書かない。だからこそこのエッセイは、小説を読み慣れている人にも、あるいは論文を読み慣れている人にも、同じぐらい分かりにくい作品となっている。この本がここ30年ほどのアメリカ文学に非常に大きな影響を与えていることを思えば、これはもったいない状況だ。
この作品を翻訳していた期間は、本当に修行僧のように暮らしていた。細かく辞書を引き、構文を捉え、内容を理解した上で、分かる日本語として再構成する。その一つ一つの作業が大変で、まるで手に持った小さなのみで岩穴を掘り進める、青の洞門のようだった。あの菊池寛の短篇「恩讐の彼方に」のやつですね。
しかも、ほとんど最後のあたりまで作業が楽にならないというのも、翻訳書として初めての経験だった。普通の作品なら、最初は大変だが、だんだんと楽になってくる。だが、モリスンの文章はそんな僕の甘えを全く許してくれない。
結局、読者に分かってもらいたいという気持ちが高まりすぎて、巻末の解説を2万字も書いてしまった。難解だと思われがちなモリスンって分かるんだ、そして面白いんだ、と感じてくれる読者が一人でも多く生まれてくれたら、本当に苦労し甲斐があったと思う。
さて、『暗闇に戯れて』の冒頭部分でジャズの話が出てくる。マリ・カルディナルというフランスの女性作家が書いた『血と言葉』という作品がある。著者自身が精神を病み、精神分析による長い治療期間をへて回復して行くという自伝的小説なのだが、出だしに彼女が精神の均衡を初めて失う場面がある。
そのきっかけとなったのがなんと、フランスにやって来たルイ・アームストロングの即興演奏だったのだ。複数の楽器が呼応しながら、だんだんと高まっていく音のうねりに、彼女はたまらずライブハウスから外に飛び出す。そして自分で自分をコントロールできなくなる。
このくだりを引きながらモリスンは問う。いったいルイ・アームストロングはそのとき、どの曲をどんなふうに演奏したのだろう。そして彼が体現している黒人文化は、フランス人女性であるカルディナルに、どんな影響を与えたのだろうか。言い換えれば、当時黒人は白人からどう見られていたのか。そしてまた、白人に対してどういう影響を与えたのか。
『暗闇に戯れて』というエッセイ集を、ジャズの響く場面から始めていることからも、モリスンがこの黒人音楽を重視していることがよく分かる。何しろ彼女は1992年に、その名も『ジャズ』という作品さえ書いているのだ。モリスンが小説という形でジャズをどう表現したのかは興味深い。
『ジャズ』の背景は、第一次世界大戦も終わった1926年、ニューヨークでも黒人が多く住む、マンハッタン島北部のハーレム地区だ。ここにはいつもジャズが流れていた。ニューオリンズ発祥のジャズは北上し、ここハーレムで隆盛を極めて、1920年代をジャズエイジとまで呼ばせたほどだった。たとえばF・スコット・フィッツジェラルドはこの時代を、長篇『グレート・ギャッツビー』をはじめとした様々な作品で描いている。
フィッツジェラルドが描くのは、あくまで白人から見たニューヨークだ。だがモリスンのニューヨークは黒人たちのものだ。この『ジャズ』という小説だが、まずは語り口が変わっている。このハーレムに住み、登場人物たちを知る複数の女性たちが語っているのだろう、というところまでは読者にも分かるのだが、それが誰なのか、そして何人なのか、そもそも彼女たちは個人なのか集団なのか、といった基本的なことすらわからない。
ただ、不倫がらみの殺人というこの作品の主題をめぐって、いくつもの視点から繰り返し語られ、細かく変奏されている、ということだけはわかる。言い換えれば、この小説自体がジャズ的な構造で書かれているのだ。
学者のヘンリー・ルイス・ゲイツは著書『シグニファイング・モンキー』で、黒人文化に固有の構造について語っている。ラップのサイファーにしても、ヒップホップのダンスにしても、あるいはジャズにしても、西洋文化のように直線的には展開しない。むしろ一つの主題をめぐって、次々と担い手が交代しながら自分なりのアレンジを加えていく。それを元に、ほかの人もどんどんとアレンジする。
こうした構造をゲイツは黒人文化における脱構築の伝統と呼んでいる。他の人が作ったものをどんどんと組み換えながら創作する。だからこそ、そもそも著作権とか、天才とか、個人的な表現といった西欧的な概念は黒人文化にはそぐわないのだ。
こうしたゲイツの議論を踏まえると、モリスンが小説で何をやろうとしているのかも明確になる。よくモリスンの文章は詩的だと言われるが、彼女はインタビューで、こうした評価はあまり嬉しくない、と語っている。そして、自分の文章は詩的なのではなく、黒人の口承による文化を、小説という西洋的な形式に落とし込んでいるからこうなのだ、と彼女は言う。
空を飛ぶ奴隷たちや、タールでできた人形、という黒人の民話のモチーフをモリスンが多く用いるのも同じ理由だろう。一言で言えばモリスンは、自己表現ではなく、黒人の共同体の、そしてまた、黒人の女性たちの集団的な経験を文章という形で書き残そうとしているのだ。
近代化とともに黒人たちの文化がますます引き継がれにくくなっている現代において、小説という形式を使いやすいように改変しながら黒人たちの思いや文化を残そうとするモリスンの姿勢は、とても新しいと思う。
300ページにもわたる『ジャズ』だが、中心となっている物語はシンプルだ。南部で貧しい農民だったヴァイオレットとジョーの夫婦は決意して、1906年に列車に乗り込みニューヨークに出てくる。ヴァイオレットは美容師を、そしてジョーは化粧品のセールスマンをして暮らすのだが、だんだんと夫婦仲は冷え切っていく。
それが決定的になったのはジョーの不倫だ。肌の色の薄い黒人であるドーカスという若い娘と知り合ったジョーは、彼女と密会するようになる。だが、そんな関係も三ヶ月しか続かなかった。実はドーカスは同年代のアクトンとも付き合い始めていたのだ。
そのことを知ったジョーはパーティーに乗り込み、ドーカスの肩を拳銃で撃つ。寝ていれば治るとドーカスは主張するが、心配した友人は何度も救急車を呼ぼうとして電話する。だが行先が黒人居住区なせいで、何度も救急車の出動を断られる。そしてドーカスは命を落とす。
彼女の葬式に刃物を持って乗り込んだヴァイオレットは、ドーカスの顔に切りつけるが、屈強な若者たちに取り押さえられる。その後、ヴァイオレットは姪のドーカスを育てていたアリスのもとに通うようになり、いつしか2人は友人同士となる。
この作品を読んでいて印象的なのは、まずは百年前の黒人差別の酷さだ。比較的差別が少ないと言われる北部ですら、店ではなかなか服の試着をさせてもらえない。そして列車で座席に座れば、隣の席の人がどこかへ行ってしまう。
しかも黒人たちはそうした差別を内面化している。こうしたテーマは、『青い眼が欲しい』とも共通している。作品の最後のほうでヴァイオレットが、もう一度若くなりたい。そして肌の色が白くなりたい、と言うシーンは切ない。
だが同時に、黒人たちの地位は確実に向上し始めている。第一次世界大戦では黒人の部隊が活躍し、ニューヨークの病院では黒人の外科医も看護師も現れている。公民権運動が起こる60年代はだいぶ先だが、20年代のアメリカでもかなりの変化が起こっていたことがよくわかる。
僕が好きだったのはこのシーンだ。ドーカスの死後、彼女の友人だったフェリスがヴァイオレットとジョーの家に来るようになる。そしてヴァイオレットは彼女に、人は世界を変えるべきだ、と語るのだ。「あんたに変えられなきゃ、世界があんたを変える。それは、あんたのせい。あんたが黙認したからよ。私は黙認した。そして、自分の人生をメチャクチャにした。」(288ページ)
日々の暮らしの中で、毎日の些細な選択を通して、僕らはちょっとずつ世界を変えている。つまり僕たちにはもともと、世界を変える力が備わっているのだ。こういう内容の作品において、はっきりとポジティブなメッセージを最後に置くトニ・モリスンに、僕は限りない力強さを感じる。ここが彼女の作品の魅力だと思う。
(次回へ続く)
分断と衝突を繰り返すアメリカ。今や国民の多くが「数年以内に内戦が起こる」との恐怖を抱いている。そうした時代の変化に伴い、民主主義と国民国家の在りかたに向き合ってきたアメリカ文学も、大きな分岐点を迎えている。 本連載ではアメリカ文学研究者・翻訳家の都甲幸治が、分断と衝突の時代において「アメリカ文学の新古典」になりうる作品と作家を紹介していく。
プロフィール
とこう こうじ
1969年、福岡県生まれ。翻訳家・アメリカ文学研究者、早稲田大学文学学術院教授。東京大学大学院総合文化研究科表象文化論専攻修士課程修了。翻訳家を経て、同大学大学院総合文化研究科地域文化研究専攻(北米)博士課程修了。著書に『教養としてのアメリカ短篇小説』(NHK出版)、『生き延びるための世界文学――21世紀の24冊』(新潮社)、『狂喜の読み屋』(共和国)、『「街小説」読みくらべ』(立東舎)、『世界文学の21世紀』(Pヴァイン)、『偽アメリカ文学の誕生』(水声社)など、訳書にチャールズ・ブコウスキー『勝手に生きろ!』(河出文庫)、『郵便局』(光文社古典新訳文庫)、ドン・デリーロ『ホワイト・ノイズ』(水声社、共訳)ジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』(新潮社、共訳)など、共著に『ノーベル文学賞のすべて』(立東舎)、『引き裂かれた世界の文学案内――境界から響く声たち』(大修館書店)など。