「お笑い」は国民的なのか?
日本の文化の中で、長い間大きな存在感を示し続けているもののひとつが「お笑い」である。「お笑い」と一口に言ってもその形態はさまざまで、昭和・平成を彩ったバラエティ番組や劇場での演芸、戦前から続く近代漫才、お笑い芸人によるYouTube、ボリュームのあるコントライブなど、枚挙にいとまがない。パッケージも形式もメディアも歴史もバラバラなものを、私たちは「お笑い」として受容している。
しかし、「お笑い」を鑑賞するうえで、もしくは語るうえで、しばしば中心に据えられるものがある。それは、毎年12月に決勝戦が放送される若手漫才頂上決定戦「M-1グランプリ」(以下M-1)である。普段は特にお笑いに興味がない人も、M-1の決勝だけは見るという人も多いのではないか。それはJリーグを見ずにワールドカップで盛り上がる人たち、あるいはプロ野球には興味がないのにWBCに熱狂している人たちと同じ構造である。そうした状況を指してしばし、「M-1は国民的なものである」ということが語られている。
しかしそうした表現に違和感がある人がいるだろう。「お笑い」は国民的なものなのだろうか、と。実際、お笑いは国民的なコンテンツではない。
先述のとおり、「お笑い」自体がざっくりとした呼称なので何を指し示しているかがわかりにくいし、その文化自体が細分化しすぎているからだ。価値観が多様化する現在では表現が細分化し、「国民的」や「マス」という考え方は無効になりつつある。
たとえば一組の芸人を人気を測るにしても、ただ単にテレビに多く出ている芸人だけが「人気芸人」とは限らない。単独ライブの動員数や、YouTubeのチャンネル登録者数、芸人のファンクラブ的なものになりつつあるオンラインサロン登録人数なども重視されるなど、その指標は多岐にわたる。いまやマスを対象としたテレビだけではなく、個人へどれだけアプローチできているかも重要になりつつある。
有名なところでは、テレビレギュラー番組0本でありながら、YouTubeチャンネルやオンラインサロンにてファンからの絶大な支持を得ているジャルジャルは、既存の芸人像にとらわれないモデルを確立したパイオニア的存在だろう。一方で、可能な限り多くのレギュラー番組の獲得を目指しつつYouTubeチャンネル登録者数を増やすことに尽力している、かまいたちのような伝統と革新のハイブリッド型のコンビもいる。他にも、諸事情でテレビ露出が控え目なメンバーを擁しつつも自分たちの事務所を運営し、独自の存在感を放つさらば青春の光、日本での知名度はあまりないが、その刺激的なパフォーマンスで海外のメディアから注目を集め、TikTokのフォロワーが1000万を突破したウエスPなど、それぞれの分野で活躍している芸人が多く可視化されている。
M-1で巻き起こる「論争」
このように細分化されている文化においては、しばしば諍いが発生しやすい。東京と大阪、漫才とコント、テレビとネット……お笑いはすぐにわかりやすい二項対立が生まれる。その一つがM-1のあとに発生する「論争」である。
もっとも象徴的だったのが、2020年の決勝後に勃発した「漫才論争」だ。この「論争」とは、優勝したマヂカルラブリーの漫才がノンバーバルでフィジカルを駆使したボケが連続していた点、準優勝のおいでやすこがが歌ネタかつ、正規のコンビではなくユニットであった点などがピックアップされ、視聴者からの「漫才ではないのでは」という意見が続出した……というものである。既存のお笑いファンにとっては見慣れた漫才であっても、M-1決勝が唯一の漫才鑑賞の機会である層からは型破りであるように見え、結果への賛否につながっていくという構造がある。
そこにマスコミの煽りが加わり、ニュースサイトのセンセーショナルな見出しにつられたコメント欄やTwitterは「あんなの漫才じゃない」「審査員がおかしい」「単純に嫌い」などの主張で埋めつくされ、地獄のような状態になる。実際に「漫才論争」の際は、順位報告をするファイナリストのツイートのリプライ欄で、ユーザー同士が言い合いをしてしまうという状況も発生していた。このような状況が続くと、出場者も審査員も心身ともに疲弊していく。和牛のようにラストイヤー前にもかかわらずエントリー控えをするコンビや(俗にいう「卒業」)、審査員オファーを辞退する人が多いのは、年々増していく論争の過激さも一因だろう。これらのことから、長い芸歴と豊富な経験をもってしても、SNS時代特有の過激な論争に巻き込まれることは非常に耐えがたいのだということが読み取れる。
こういった騒ぎが発生するのも、M-1が国民的であるがゆえの弊害だ。もっとも、国民的な場であるからこそ、7000組以上がロマンを求めてエントリーをする。
実力がある芸人でも、お笑いシーンをよく知る人から「劇場投票のバトルライブで上位」だとか、「先輩に気に入られて軍団にいる」という評価をどれだけ得たところで、それはあくまでもローカルな話で、本当の意味での認知度も仕事の幅も広がらない。
そうした芸人にとって、M-1とは公に評価される貴重な機会であると同時に、もしかしたら一晩にして人生が変わるかもしれない可能性のある、夢のあるものなのである。国民的であるからこそ皆があの場所を目指し、名前と爪痕を残そうと切磋琢磨する。M-1で得るものと比較したら、多少の痛みは副作用だと思えるほどになるだろう。この覚悟を持つことが栄光への一歩だともいえる。
出場者本人たちにもM-1は国民的であるという自覚がある。2020年の敗者復活戦において飛び出し、Twitterのトレンド入りもした「国民最高」「国民最低」といった台詞は、M-1という大会が国民的である前提での咆哮であったはずだ(前者は敗者復活戦の視聴者による採点が高かったコンビ、インディアンスの田渕による言葉、後者は点数が最も低かったランジャタイの国崎によるもの)。
M-1が大会開始から20年を迎えたときに掲げられた「人生変えてくれ」というキャッチコピーや、M-1に挑戦する芸人たちの裏側をエモーショナルに編集したPVについても、「人生が変わるほどの力がある大会である」という大会運営側の自覚と自信にあふれている。
国民的であること、それこそがいまのM-1のアイデンティティであり、大会意義である。
このM-1の存在によって、良くも悪くも現代においてお笑いは国民的コンテンツかのようなふりをしている。毎年、老若男女のファン以外の人々、すなわち国民を巻き込んで。
では、いかにしてM-1は国民的になっていったのか。この連載では、M-1という大会が国民的になっていった経緯やそれを実現させた、文化・時代の背景を読み解いていく。
ちなみに筆者は1990年代からのお笑いファンであり、大阪の漫才の魅力を常に声高に叫んでいる。
もちろんお笑い好きでも、別の価値観の人もたくさんいることだろうし、お笑いのいいところは様々な価値観があることだと思っている。好みが細分化されているローカルなジャンルであるのにもかかわらず、M-1のような国民的な場に登ってしまう。そのねじれを、「大阪のお笑い好き」というローカルな視点から掘り下げていきたい。
いまや漫才の大会としてのみならず、年末の恒例行事として人気を博しているM-1グランプリ。いまやその人気は「国民的」とも言える。なぜあらゆるお笑いのジャンルのなかで、M-1だけがそのような地位を確立できたのか。長年、ファンとしてお笑いの現場を見続けてきた評論作家が迫る。
プロフィール
てじょうもえ
評論作家。広島県尾道市生まれ。『カレーの愛し方、殺し方』(彩流社、2016年)で商業デビュー。『平成男子論』(彩流社、2019年)のほか、『ゼロ年代お笑いクロニクル おもしろさの価値、その後。』『2020年代お笑いプロローグ 優しい笑いと傷つけるものの正体』『漫才論争 不寛容な社会と思想なき言及』『お笑いオタクが行く! 大阪異常遠征記』『上京前夜、漫才を溺愛する』など多くの同人誌を発行している。