水道橋博士の「日記のススメ」 第9回

記憶の改ざんを防ぎたいと思った、忘れがたき出来事

水道橋博士

浅草キッドの水道橋博士は、タレントや作家の顔を持つ一方で「日記を書く人」としても知られています。

小学生時代に始めたという日記は、たけし軍団入り後も継続、1997年からは芸能界でもいち早くBLOG形式の日記を始めた先駆者となり、現在も日々ウェブ上に綴っています。

なぜ水道橋博士は日記を書き続けるのか? そこにはいったいどんな意味があるのか?

そう問うあなたへの「日記のススメ」です。

 

「1979年8月17日」が一番印象的な日記

 日記を書く理由のひとつに「経年と共に劣化と変化を来す自分の過去の記憶の補完装置のため」と50歳を過ぎてから確信するようになりました。

 今回は、そう思うに至った、決定的な出来事について語りたいと思います。

 「日記芸人を自称する水道橋博士に聞きます。今まで子供の頃から書いてきた1万日以上ある日記の中で、どの日の日記が最も印象的ですか?」

 過去にそんな趣旨の質問をされたことがあります。

 確率的にも1万分の1を選ぶのですから、相当な困難だと思われそうですがボクの答えは一択です。

 「1979年の8月17日です!」

 一体この日に何があったのでしょうか? 興味を持ちませんか?

 

 その前に、芸能人になってから世間からは映画通と思われているのか「人生でフェイバリット映画は何ですか?」という質問もよく聞かれてきました。

 これは毎回、迷いがあり、「日によって変わります」と答えるのが常套句でしたが、現時点では「邦画では長谷川和彦監督・沢田研二主演の『太陽を盗んだ男』(1979)で、洋画ではスタンリー・キューブリック監督『時計じかけのオレンジ』(1971、日本公開1972)です」と必ずこの2本を挙げることにしています。

 何故なら、両作品ともに映画の鑑賞を本格的にはじめた思春期に映画館で見ているからであり、約半世紀を経た今でも不朽の名作であることを確信できるからです(ちなみに『太陽を盗んだ男』もNetflixで視聴できるようになりました)。

 そして、この質問に付随して「一番好きな『時計じかけのオレンジ』は19歳の頃、母と一緒に大学受験の下見に上京した際に、新宿でリバイバル上映していた映画館で見ました」とディテイルを交えて答えてきました。19歳の頃というと、1981年頃となります。

 今と違って、僕が10代のときはまだレンタルビデオが普及しておらず、巨匠・キューブリックの映画のリバイバル上映は都会のみと限られていました。

 それだけ忘れられない映画体験だったのです。いや、だったはずです。

 記憶は衰えても、この体験譚だけは揺るぎないものだと思っていました。

 

 しかし、50歳のとき倉庫部屋を借りて、岡山の実家から日記や、十代の時に集めていた蔵書や雑誌のバックナンバーを全て東京に送ってもらいました。

 この連載をお読みの方にはわかってもらえると思いますが、ボクは想い出話に節度がない過去コレクターなのであります。

 捨て去られることなく、幼年期からの日記が数多送られてきました。

 そこで見つけた「1979年の映画日記」には衝撃的な事実が綴られていました。

 

 

 なんと、ボクが『時計じかけのオレンジ』を見たのは1979年の8月17日だったのです‼

 しかも、この期日は8月18日、ボクの18歳の誕生日の1日前であり、同行したのは母ではなく、友達の矢北くんと共に岡山から新幹線で映画を見るためだけにわざわざ東京まで見に行っているのです。

 さらに、この記憶は驚くことに、日記を見つけた50歳の時には一切残っていなかったのです。

  この日の冒頭には、このように書かれています。

ぼくが、この時画を見るがための代償は、大きい。2万2千円もの旅費を使い、4時間半もの時間をかけ、はるばる倉敷から首都東京へこの映画を見に来たのである。初めて東京に来たというのに、国会議事堂はむろん、東京タワーにさえ、寄ることなく、この映画を見たいがための“東京”だったのである。しかしこの代償は、完全に報われた、今でもこの映画の余韻に浸ることで何ものにも換え難い満足感に浸るのである。

 

 その後は、日記には延々とストーリーを辿っていますが要約すると──。

 近未来のロンドンで、クラシック音楽を愛する主人公の少年・アレックスは仲間たちと共に暴力とセックスに明け暮れる日々を送っていた。そんな中、彼はある小説家殺人事件をきっかけに逮捕されてしまい、クラッシック音楽を聴かせながら残忍な人格を矯正するという名目の奇妙なルドヴィコ治療法の被験者となる。過去の暴力の記憶を消されて、暴力の想像だけで体調不良を来す身体になったアレックスは……。

 という英国の作家、アンソニー・バージェスが描いた近未来デストピアを原作に映画化しています。

 この映画は、元々1972年の4月に日本公開されています。キューブリックは、この映画の4年前の1968年に『2001年宇宙の旅』という映画史に残る叙事詩的超大作を撮っており、その長い映画キャリアの中でも絶頂期と言って過言はないはずです。

 ボクはキューブリックが描いた未来的映像と、サントラを担当したキーボード奏者のウェンディ・ウオルター・カルロスが奏でるベートーベンのクラシックナンバーとの融合にスクリーンの前に釘付けとなり打ちのめされました。

 17歳の映画評論家、小野正芳くんの日記にも最後に、「今なお未来の映画であり、つまるところ創造的なのである」と締めて、最高点数である(100点)を計上しています。

 

 

なぜ、どのように記憶が改ざんされたのか?

 不思議なことは、何故、この記憶が〈母とともに大学受験の下見で一緒に見た〉と改ざんされているのでしょうか?

 思い当たることが有りました。

 この日、映画を見終えた後、渋谷のパルコの2Fにあった輸入ビデオ専門店を訪れ、輸入ノーカット版の『時計じかけのオレンジ』とダン・オバノン監督の『ダークスター』を一本2万円もの値段で購入していました。

 そして倉敷に帰郷した後、当時のリビングに置いていたビデオデッキで一日中、繰り返し見ていました。

 しかも、映画内でレイプシーンが描かれ、陰毛もノーカットであった『時計じかけのオレンジ』を食い入るように見つめる、引き籠りで学校へ行かなくなった息子に対し、母は何もクレームを言うことなく、後ろから哀しい目で覗いていたのです。

 その母の視線を脳が記憶していたのです。

 やがて、その記憶が母と共に上京した大学受験の下見に結びつき、母と共に劇場で見たという新たな記憶を作り出していたのです。

 

 『時計じかけのオレンジ』が好きだという話は、ボクの人生の中で、同じくこの映画に魅せられた人たちとの奇妙な縁を築きます。

 ボクが今、最も着用することが多いブランドの「JETLINK」は、オーナーがこの映画の大ファンであることから、知り合い、長く衣装提供していただける関係になりました。

 映画監督の園子温さんと知り合うと、この1979年の京王地下のリバイバル上映に園子温監督も18歳で家出したときに、同じ映画館で偶然にも見ていることが判明しました。

 しかも、園さんは、それをきっかけに映画監督になることを決意しています。

 2人で2013年に『ザ・水道橋 in 座・高円寺 vol.1~園子温芸人デビュー~』というLIVEを開催したときには、全編サントラと共に、舞台をこの映画のモチーフで彩りました。

 『藝人春秋Diary』を出版した今年、版元のスモール出版の中村社長の経歴を聞いたところ、原作の『時計じかけのオレンジ』を研究するファンジンを創っていたことがわかりました。

 一本の映画の記憶が人生の端々に縁を創っていたのです。

 

 それにしても、何故、何時、記憶が改ざんされたのかは不思議なのです。

 きっと映画で主人公が体験するルドヴィコ療法と同じように、ボクの記憶もあの映画のなかで無理やりリセットされたのかもしれません。

 

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プロフィール

水道橋博士

1962年岡山県生れ。ビートたけしに憧れ上京するも、進学した明治大学を4日で中退。弟子入り後、浅草フランス座での地獄の住み込み生活を経て、87年に玉袋筋太郎と漫才コンビ・浅草キッドを結成。90年のテレビ朝日『ザ・テレビ演芸』で10週連続勝ち抜き、92年テレビ東京『浅草橋ヤング洋品店』で人気を博す。幅広い見識と行動力は芸能界にとどまらず、守備範囲はスポーツ界・政界・財界にまで及ぶ。著書に『藝人春秋』(1~3巻、文春文庫)など多数。

水道橋博士の日記はこちら→ https://note.com/suidou_hakase

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