水道橋博士の「日記のススメ」 第11回

女子の日記

水道橋博士

浅草キッドの水道橋博士は、タレントや作家の顔を持つ一方で「日記を書く人」としても知られています。

小学生時代に始めたという日記は、たけし軍団入り後も継続、1997年からは芸能界でもいち早くBLOG形式の日記を始めた先駆者となり、現在も日々ウェブ上に綴っています。

なぜ水道橋博士は日記を書き続けるのか? そこにはいったいどんな意味があるのか?

そう問うあなたへの「日記のススメ」です。

 

なりすまし?

 前回を「談志の日記」に付随して「男子の日記」で括りました。
 そこで、今回は「女子の日記」をテーマに進めましょう。
 日本史に於ける日記史のなかでも最も有名なフレーズがこちらです。

男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。

 誰もが日本史で学ぶ、ご存知、「土佐日記」の冒頭の一節です。
 そして、オトナになって必ず思い返すのは……作者は紀貫之であること。
 つまり男性なのです。
 今でいうところの「なりすまし」です。
 男性が漢文の日記から、和歌の布教と共に、ひらがな文化を嗜むようになり、あえて男性が女性を装って書いた、土佐から京都への紀行文が土佐日記なのです。
 「え‼ あれって男が書いたの!」
 今も、何処に行ってもこの話は、一定数の初耳の人がいます。
 いったい彼ら彼女らは歴史の授業は寝ていたのでしょうか?(笑)

 余談ですが、これと似たような「歴史あるある」があります。
 「小野妹子」=「おののいもこ」のネタも全国共通の小学生、定番の笑い話です。
 遣隋使で知られる小野妹子は、「日出処天子」の文言で知られる国書を携えた使者=遣隋使であり、『日本書紀』によれば官吏である小野妹子だと教えられます。
 そして、「妹子」は「イモウトコ」ではなく、「イモコ」と音読しながら、男性である事実を、先生に知らされて、生徒が一様に驚くのは、日本列島の全小学生の共通体験なのです。

 この小学生受けは「イモコ」の響きも良いのでしょう。
 我が家ではこの話に「1翻ドラ」が乗ります。
 何故なら、ボクの芸名は「水道橋」ですが、本名の性は「小野」なのです。
 長男誕生後、第二子が女子であることがわかると、その娘の命名に俄然、この名前が第一候補に浮上しました。
 小野家、初の妹の誕生。彼女は性別は女子ではあるが、名前は「小野妹子(おののいもこ)」──。
 どうですか。芸人の子供としては、掴みはOKでしょう。
 その命名は見送られ、娘は「文(ふみ)」と名付けられましたが、実子への命名に歴史上の人物からの引用は、しばしの空想だけでも楽しいものでした。

「アンネの日記」と田辺聖子さんの日記

 日記の話に戻します。
 筆者は、田辺聖子の『文車日記』(新潮文庫・昭和49年単行本刊)を読んだ時に初めて、この古典の概要を知りました。

地方官である紀貫之は、任地の土佐で、可愛ざかりの女児を失いました。「京へかへるに、をんな児のなきのみぞ悲しび恋ふる」(P77)

 この解説だけで、この本は現代語訳でするすると読めます。

 ボクは女子の日記も男性に劣らず大ファンであります。
 長く読んでいるものもあります。
 この連載の最初に紹介した「アンネの日記」ほど、世界史のなかで長く現在進行系で語られ続ける日記はありません。
 つい先日もこんなニュースが報じられました(1月18日「NHK NEWS WEB」より)。

「アンネの日記」で知られるアンネ・フランクの隠れ家がナチスの秘密警察に見つかった経緯について調べていた調査チームは、ユダヤ人の男性が密告した可能性があるとする結論を出し、真相に迫る調査結果として関心を集めています。
アンネ・フランクは、第2次世界大戦中、ナチスによるユダヤ人の迫害から逃れようと、オランダ、アムステルダムの隠れ家で生活していましたが、1944年、秘密警察に見つかって拘束され、強制収容所に送られたあと15歳の若さで亡くなりました。
アンネが秘密警察に見つかった理由については、戦後、オランダの警察が捜査しましたが真相は明らかにならず、アメリカのFBI=連邦捜査局の元捜査官などでつくるチームが、6年ほど前から調査を進めていました。
ロイター通信などによりますと、調査チームはこのほど、ユダヤ人の男性が隠れ家を密告した可能性があるとする結論を出したということです。
この人物は、公証人として働いていたアーノルト・ファンデンベルフ氏で、調査チームは、自分の家族の安全と引き換えに密告したのではないかとしています。
調査では、最新の分析手法で関与した可能性がある人物を割り出し、最終的には、アンネの父、オットーに宛てて書かれたメモにファンデンベルフ氏の関与を示す記述があったことが、根拠になったとしています。
アムステルダムにある博物館「アンネ・フランクの家」は「価値のある、新しい重要な情報と、興味深い仮説を生み出した」とする声明を発表し、真相に迫る調査結果として関心を集めています。

 アンネが死して77年を経ても、彼女の日記は、今も生き続けている証だと思います。
 再度、書きますが、「アンネの日記」は、題名だけは知っているという人にも、是非、読んでいただきたいと思います。
 活字が苦手な方には、アニメ映画も3月に公開予定なので是非に。

 前回、昨年は10代日記の発掘の当たり年であることを書きましたが、年末に、女流作家の第一人者・故・田辺聖子さんの18歳の頃の日記も発掘、出版されて話題になりました(11月16日「朝日新聞デジタル」より)。

 2019年に91歳で亡くなった作家の田辺聖子さんが終戦前後に記していた日記が『田辺聖子 十八歳の日の記録』として単行本にまとまった。友人たちとの穏やかなやりとりから、空襲に焼けた街の風景まで、心情を織り交ぜて書き残していた。日記からは4編の未発表小説が見つかり、あわせて収録している。12月3日に文芸春秋から発売される。解説を担当したノンフィクション作家の梯久美子さんに聞いた。
 「十八歳の日の記録」と記されたノートは1945年4月に始まり、47年3月で終わる。兵庫県伊丹市の自宅を整理していた親族が見つけた。戦争の記憶をとどめる日記を多くの人に読んでほしいという遺族の希望で書籍化したという。
 短編は日記の合間に書かれていた。「蒙古高原の少女」(45年4月の日記に記載)、「公子クユクの死」(同5月)、「或(あ)る男の生涯」(同6月)の3編は数ページの短編でファンタジー性が強い。
 45年12月から46年1月の間に書かれた無題の中編は約60ページ。文学論を交わしたり、教師に恋したり、女子専門学校国文科を舞台に等身大の女子学生が生き生きと描かれ、空襲で焼けた跡に主人公がたたずむ場面で未完に終わっている。
 梯さんは、この中編が父を亡くした直後に書かれていたことに注目する。「空襲、終戦、父の死。全てが変わり、失われてしまった。失う前のことを書きとめておきたかったのではないでしょうか」。物語の少女たちは動員先の工場でもおしゃべりをしている。「日常こそ、些事(さじ)こそが大事だというのは後の田辺さんの文学に通じます。稚拙さもあるけれど、文体はやわらかく、読者を意識している」
 戦中の日記文学といえば、伊藤整や高見順、ノンフィクションなら清沢洌(きよし)と枚挙にいとまがないが、「10代の少女の目線による、まとまった日記は珍しい」。空襲にあうまで、若き田辺さんがつづった大阪の暮らしは穏やかで、のんびりしていた。「少女の日常は決して戦争一色の真っ暗な時代ではなかった。誰も奪うことのできない青春の輝きを、自分と同世代の人々のために書き残そうとしたのではないか」とみる。
 後年の作品群と日記を読み比べて、発見があったという。田辺さんが小説やエッセーで空襲を描くとき、当時の日記の記述をほぼそのまま使っていたのだ。「あの日の空襲は正確に書かねばという思いがあったのでしょう。小説であっても、空襲については事実を曲げてはいけないという、歴史に対する誠実さがある。付箋(ふせん)があったそうで、日記を繰り返し参照していたことがわかります」
 空襲と父の死。つらく、目を背けたい出来事こそ、筆がさえていた。「大変な状況の中で、書きとめておくべき価値あるものを見ているという自覚があったのでしょう。空襲後、本当の意味で作家に一歩近づいた。17歳の田辺聖子さんはものを書く人の目と手をすでに持っていたのです」(中村真理子)

 戦中の日記文学のなかでも「10代の少女の目線による、まとまった日記は珍しい」と書かれているところに注目してしまいました。
 まるで「日本版アンネの日記」ではないでしょうか。
 そして、「付箋(ふせん)があったそうで、日記を繰り返し参照していたことがわかります」というクダリにもグッと来ます。

 BLOG以前、手書きの日記は、作者と読者が同じなのです。
 未来の自分に向けて書いているのが大人になった後にわかるのが、日記の持つエモーショナルな部分なのだと思います。
 日記文学とは成長小説の一ジャンルではないでしょうか。

 ボクはまず主に古典の解説者、そして小説家兼面白エッセイストとして、田辺聖子さんを最初に認識していました。
 後年、テレビに出演しても、底抜けの明るさが魅力的でしたが、その一方では影のある思春期を送られていたことをこの本で改めて知りました。
 今後、NHKの朝ドラにでも描かれそうではなかろうか──と思って読んでいましたが、2006年に連続テレビ小説『芋たこなんきん』として、ヒロイン・藤山直美、夫・國村隼ですでにドラマ化されていました(完全に知りませんでした)。

女神・小泉今日子様の日記の素晴らしさ

 ボクが神聖視している芸能人はビートたけし、ただひとりであることは、さまざまなところで語ってきましたが、最近は、昔から、小泉今日子様を女神の如く崇拝していることをカミングアウトしています。
 小泉今日子様が文才にも恵まれたタレントであることは、2017年に第33回講談社エッセー賞を受賞した、『黄色いマンション 黒い猫』を読んでも言わずもがなですが、小泉今日子様の日記もまた素晴らしいのです。
 『小雨日記』(KADOKAWA)は2011年の刊。
 日記の主語は私ではなく、猫。
 「吾輩は猫である」形式で綴られます。
 「小雨」という名の猫から見た、小泉今日子の日々、今日が語られていきます。

 

 この日記の素晴らしさをどうお伝えしてよいのやら。
 我々、「小泉チルドレン」にとっては、お姫様の御簾の中、「裏小泉」を覗き見しているような、背徳感と共に、苛烈な日々を強いられている超一流芸能人が猫とふたり暮らしを続ける、穏やかな日常を垣間見て、癒やされてしまいます。
 日記とは、昨日のことを今日に綴るものです。
 長く所属した芸能事務所から自立して新たに作った個人事務所を「明後日」と名付けたように、過去を愛でながら目線は常に未来を見つめているのが我らの今日子様なのです。

 ちなみに『黄色いマンション 黒い猫』は、昨年、新潮社で文庫化されました。
 この本は2007年から2016年のSWITCH誌の『原宿百景』の連載を纏めたもので、『小雨日記』のその後が語られています。
 『あまちゃん』で娘役を演じた能年玲奈さんへの眼差しとエール。ボクも大好きな沢村貞子さんへの想いなど、何箇所も大好きなフレーズがあります。
 今日子様が、50歳になる日までのカウントダウンが文字で確認できますので、小泉信徒は必ず読むように。

 

ボクの一番好きな女性日記

 最後にボクの一番好きな女性日記を挙げさせてもらいます。
 それは女性芸人の先駆者でもある、清水ミチコさんの日記です。
 テレビブロス誌に綴るようになってから、30年近く続いた、一大長期連載です。
 本としては3冊に纏められていますが、いずれも大傑作であり、前回の男子の日記の方で紹介した、高田文夫の日記と同じく、同一著者による、長期間にわたる、エンターテイメント見聞録にもなっています。
 古い方の日記は、既に読み返しすぎて帯がボロボロです。

 この日記に登場する、ボクたち浅草キッドを紹介しながら、この原稿を終わりたいと思います。
 1996年にはボクたちの蛮行が暴かれています。

 

 そして2002年には、こんな見出しが立っています。

 そりゃあ、こんな風に描かれていたら、何度だって読み返したくなるものです。
 他人の日記に書かれる自分へのコメントが、賛美だったりするときほど、文による繋がりを強く感じることはありません。
 面と向かいあう仲良しにすら、口に出さない言葉も文には記されていきます。
 星屑ほどに鈍い輝き、忘れても良い些細な出来事。
 時代を超えた、スターダストメモリーが文字として残されていくことが、日記が持つロマンだと思っています。

 第10回
第12回  

プロフィール

水道橋博士

1962年岡山県生れ。ビートたけしに憧れ上京するも、進学した明治大学を4日で中退。弟子入り後、浅草フランス座での地獄の住み込み生活を経て、87年に玉袋筋太郎と漫才コンビ・浅草キッドを結成。90年のテレビ朝日『ザ・テレビ演芸』で10週連続勝ち抜き、92年テレビ東京『浅草橋ヤング洋品店』で人気を博す。幅広い見識と行動力は芸能界にとどまらず、守備範囲はスポーツ界・政界・財界にまで及ぶ。著書に『藝人春秋』(1~3巻、文春文庫)など多数。

水道橋博士の日記はこちら→ https://note.com/suidou_hakase

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