水道橋博士の「日記のススメ」 第14回

勝谷誠彦の日記

水道橋博士

浅草キッドの水道橋博士は、タレントや作家の顔を持つ一方で「日記を書く人」としても知られています。

小学生時代に始めたという日記は、たけし軍団入り後も継続、1997年からは芸能界でもいち早くBLOG形式の日記を始めた先駆者となり、現在も日々ウェブ上に綴っています。

なぜ水道橋博士は日記を書き続けるのか? そこにはいったいどんな意味があるのか?

そう問うあなたへの「日記のススメ」です。

 

過去最も長く毎日の日記を読んできた同時代人

 毎日が濁流のような勢いに流され、日々の日記すらままならない日々が続いています。

 只今、ご紹介に預かりました、れいわ新選組から参議院立候補予定者になっている、還暦芸人の浅草キッド、水道橋博士です。

 時節柄、このような自己紹介から入ってしまいました。

 

 さて、本連載の「日記のススメ」ですが、ボクは日記を書くことも好きですが、他人の日記を読むことも大好きです。

 ボクが過去、最も長く毎日の日記の更新を、同時代に並走して読んできたのは、故・勝谷誠彦氏のものです。

 元週刊文春のライターであり、コラムニストと世に知られ、テレビでもコメンテーターとしてマスコミで活躍されました。

 しかし、2018年11月28日に享年57で急逝されています。

 1960生まれ、ボクより2歳年長でしたが、まさしく同世代の同時代人でした。

 彼が「日記書き」として特異だったことは、毎日朝9時までに有料メールマガジンで日記の配信を続けたことです。

 しかも驚くことに、字数が平均でも4千字以上、それを定時に送信し続けたことであります。

 文字通り、ボクは、そのはじまりから遡り、その全文を読んできたはずです。

 過去の読んでよかったものは、単行本を探して蒐集しています。

 勝谷誠彦氏の小説『平壌で朝食を。』(2010・光文社)の文庫版解説をボクは書いています。

 

 以下、他己紹介に当たる部分を時制、文体などを変え、加筆して引用します。

 

テレビのコメンテーター時代、局是を優先するおためごかしではなく物申す。

口角泡を飛ばし、聴衆に一喝棒を振り降ろし、常に多頭の蛇のごとく誰に対しても挑発的であった。

そのスタイルに一時期、ボクが「喋る時限爆弾」と名付けたほどに、テレビメディアで最も物騒な人であった。

この芸風からも、当然、毀誉褒貶も多い。

 

この人のコメントの基本は現場主義だ。

素材の仕込みは現地調達、ベースの味付けは「事実」に即し、人に当たる。

「まっとうさ」を丹念に出汁にとる。

仕上がりには、古き良き勝ち気なマチズモ(男らしさ)を加え、隠し味が「含羞」なのである。

含羞があるからこそ吠える──。

明らかに安全地帯だけで過激な発言をする“テレビ文化人”とは大いに異なるところだ。

 

そして守備範囲はグルメ、社会時評にとどまらない。

健啖、健筆に健脚まで備わり、戦火のイラクに乗り込み、竹島には天下御免で潜入する。

本書にもあるように北朝鮮へ乗り込みレポートを著す。

特筆すべきは戦場レポートすら厭わないことだ。

最近でも『イラク生残記』(講談社)に詳しいが九死に一生得ている。

その文章は権力者には容赦なく激烈であり、過激な言葉遣いを確信犯的に言い足す。

「義をもってせざるは勇無きなり」とばかりに、敵をも作ることが多いであろう言論を引き受ける。

その根底には市井に生きる“良民常民”の生活こそ尊重すべきだというイズムが根を張っている。

 

もともと勝谷誠彦氏の出自が異色である。

学生時代より風俗ライターでデビューし、やがて文藝春秋社に入社。

トップ屋として凄惨な事件を嗅ぎ回り、かの元週刊文春編集長・花田紀凱の片腕として数々の現場へ派遣される。

若王子事件以降の戦乱のフィリピン特派員時代は、そのまま常駐し、数々のスクープをものにする。

その一方で現地でタクシー会社を経営していたというのだから並外れた行動力、才覚の持ち主なのである。

 

フリーに転出後は、テレビ、ラジオでは憂国の志士、最も物騒な語りをあえて扇情的に語る愉快犯になりすます。

コラムニストとしては、週刊誌で社会性の高い時事ネタを即座に料理する。

 

そして、長く女性誌『女性自身』の人物ルポタージュ「シリーズ人間」を担当。

市井の無名の人々の人生を掬い取り、一遍の読み物に編上げるアンカーをつとめた。

現在は終了したが、このシリーズを担当したペンネーム田村章は、のちの直木賞作家・重松清になる。

そして、勝谷誠彦の署名仕事のプロフェッショナルぶりは、彼らが無名の頃より、どれだけ「才能証明」として、この書き手の「男性自身」を際立たせていたかは、週刊誌好きなら忘れることはないだろう。

これらの取材文章は、テレビの物言いの激烈さに反し、パブリックイメージの “居丈高な言動”には思えなかった。

むしろ勝谷誠彦氏が信条とする「ただ生きるな、よく生きろ!」の実践。

その言葉を己に言い聞かせるための自らに律した戒律に思えるのである。

またグルメ誌、旅雑誌では紀行文という地図の中に市井の人生の起伏を描き、噛み分けた味の濃淡を際立たせる。

(それどころか、讃岐うどんブームの仕掛け人であり、『東京麺通団』といううどんチェーンの経営者であったりもする)

 

また、勝谷誠彦の支持率の基礎票を固め、かつ勝谷機関と呼ばれるほどの情報網を構成しているのは、日々の日記だ。

彼が一年365日、駆使するウエブマガジンである。

 

2000年5月からWEBサイト『勝谷誠彦の××な日々。』を開設。

現在も有料メールスタイルで一日も欠けることなく更新されている。

その文章の中身も、書き易いであろう身辺整理的な日記は極力少ない。

それどころか、時事問題や新聞やテレビ報道等に対し、挑発的な文体で問題提起する。

日本の国柄に対する発展的な意見を提唱している。

 

しかも、一日平均4千字以上の分量を一日も休むことなく書き続けている。

早朝の間に、書き上げ送信することを10年にわたって続けているのだ。

「天才は質よりも量」と言う言葉もあるが、そのエネルギー量に圧倒されるだろう。

ボクは、この『勝谷誠彦の××な日々』を、1年365日読み続けて、既に10年になろうとする。

ボクは著者について「知らないことはない」と思えるほど、この人の出自、日課、行動パターン、思想信条を既に刷り込まれているだろう。

 

それでも、いざ勝谷誠彦氏が小説を上梓したとなると最初は食指が動かなかったのだ。

それには理由がある。

著者は今まであまりにリアリストであり、日々過酷な現実に対峙し続けている人であった。

だからこそ、「小説を書ける人」であるとは思っていなかったのだ。

いや正確に言えば、あの怒涛の多忙な日常を知るだけに「小説を書ける暇のある人」には思っていなかった。

しかし、本書を開くと、その予断はあっさり裏切られる。

 

 中略

 

そして、文庫用に書き足された『耽美』は最も異色だ。

著者は早稲田大学時代には、少女マンガ研究のサークル「早稲田おとめちっくクラブ」に在籍している。

故に現役の風俗ライターであった経験が容赦なく発露されていると言えるだろう。

 

この章を読んでいて、ある対談番組で、勝谷誠彦氏に「今まで人生のなかで最もアブノーマルな体験は?」と、ボクが聞いたところ、

「それには、まず相手の性別が男か女か人間か否か、そこから語らなければ……」

嘯(うそぶ)き、煙に巻いたのを思い出した。

 

とにかく滅法面白い、小説集であることは請負いたい。

タレント本とは逆に、勝谷誠彦の著作は、本人の有名性が逆に本読みの認知度を下げている。 

だからこそ、この小説は予断なく是非一読して欲しい。

 

最後に、活字を通して、これほど日常まで知悉している人について、果たして、「私は何を知っているだろうか」と思った件が、つい先日あった。

そのことを目撃したのが、読売テレビでのレギュラー番組。

死刑をテーマにした回で「袴田事件」についての見解において、「“僕ら”ボクサーは」という主語で語り、厳しい鍛練に耐えたボクサーの犯行可能性を否定する姿がそこにあった。

どうやら今や勝谷さんは、拳闘という路上では決して行使することのできない、過剰防衛を絶対視される“核”を、正式な資格として取得されたようだった。

まさに「歩く“勝”断層」から、「歩く核弾頭」へと変貌したのである。

 

 中略

 

そして、ボクが直接、大阪、読売テレビの特番で共演した時のこと。

氏は、収録時間ギリギリで入ってきた。

この日、別件のスケジュールがあることは知っていた。

しかし、何をしていたかは、メールマガジンにも謎めかし書かれていなかった。

 

スタジオへ入った勝谷誠彦さんが足を引きずりながら僕に囁いた。

「実は、今日、ボクシングの試合のデビュー戦だったんだよ!」と。

なんと50歳のリングデビューである!

 

 後略 

 

 文庫本の解説なので、いささか惹句が過ぎて、褒めすぎのきらいもあります。

 しかし12年前には、氏のことに敬意を持ち、かように思い描いていたのです。

 

勝谷氏と軌道を一にするボク

 その後、勝谷誠彦氏は、あれほど明記していた「政治のプレイヤーにはならない」という言を翻しました。

 2017年の7月、兵庫県知事選挙に出馬、一敗地に塗れることになります。

 2018年8月には「アルコール性肝炎」で慶応病院の集中治療室に入院。

 一時は回復傾向にあったが、10月下旬に再び療養生活に入り、そして、11月28日、肝不全のため、故郷の尼崎市の病院で死去されました。

 

 晩年は、自民党政治に肩入れし、沖縄ヘイトに参加する様を見て、ボク自身は警戒して、批判的になりました。

 しかし、病に倒れると、その矛先を向けることはありませんでした。

 病床でも日記は断続的に描かれました。

 ときには意味不明、解読不能の文字が書き殴られていました。

 それは、死に至る片道切符を手にした文人の執念、壮絶な遺書を綴る行為に感じさせられました。

 

 50歳を過ぎてから、まるで勝谷誠彦氏の日記に引っ張られるように、ボクの日記が彼の軌道と一にしていることを、自覚しています。

 過剰な飲酒、老いらくからの格闘技への参戦。

 その後のうつ病の発症、同じ病院での入院体験などなど──。

 なにより、今回のボクの政界進出など、我ながら同じ轍を追いかけるようなものなのだと思います。

 あえて書けば、日記とは、後進が先人の失敗の轍を踏まないための過去からの教訓、メッセージ、羅針盤であるべきです。

 今後、ボクは、無事に「裁判日記」を全うし、もしかしたら「政治家日記」が書けるかもしれぬ予感を抱きつつ、もはや、この濁流に身を任すしか無いのかもしれません。

 

2022年6月1日に記す。

 

 第13回
第15回  

プロフィール

水道橋博士

1962年岡山県生れ。ビートたけしに憧れ上京するも、進学した明治大学を4日で中退。弟子入り後、浅草フランス座での地獄の住み込み生活を経て、87年に玉袋筋太郎と漫才コンビ・浅草キッドを結成。90年のテレビ朝日『ザ・テレビ演芸』で10週連続勝ち抜き、92年テレビ東京『浅草橋ヤング洋品店』で人気を博す。幅広い見識と行動力は芸能界にとどまらず、守備範囲はスポーツ界・政界・財界にまで及ぶ。著書に『藝人春秋』(1~3巻、文春文庫)など多数。

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