オーバーツーリズム時代の「旅の哲学」
ここで読者のみなさんに一つお断りしておきたいことがあります。今回は三崎ハウスの浜も、この入り江の名前も伏せています。kotoba連載の第1回冒頭で引用した白洲正子さんの『かくれ里』の文章をもう一度繰り返しますと、「人が知らないところは、人に知らせたいし、知らせると、たちまち汚されてしまうのは、ままならぬ世の中だと思う」――。
白洲さんの時代でさえそうでしたが、最近はオーバーツーリズム(観光過剰)という問題が、日本だけでなく世界中で深刻化しています。「インスタ映え」する場所であれば、秘境であろうが、静かな山里であろうが、観光客が一気に押し寄せ、それにともなって足元が舗装され、看板、ガードレールや防護柵、さらに土産店や駐車場などが次々に作られてしまいます。
オーバーツーリズムの時代になったことによって、美しかった場所は、あっという間に汚されてしまいます。今は「旅をする」という行為に対して、革命的な変化が起こっている節目なのでしょう。私たちが生きている目の前で、「旅の哲学」そのものを変える事態が、余儀なく進んでいるのです。
私が若いころ、旅行はアドベンチャーであり、未知の世界を体験することでした。しかし、今の時代はグーグルの検索一つでほとんどのことが調べ上げられ、また、有名な場所に行ったとしても、大勢の観光客の中に埋もれてしまいます。それはアドベンチャーとは別のものです。
最近では旅行者にも「社会的責任」が問われるようになりました。たとえばヨーロッパでは、排ガス対策として、飛行機の利用を控えようという動きが盛んになってきています。また、どんなに行きたくても、マチュピチュやガラパゴスといった秘境の景観や自然環境の脆さを案じ、あえて旅を回避する人も出てきています。実は私もその一人で、ガラパゴスには行ってみたいのですが、この先に行くことはないでしょう。もっと以前に行くことができれば良かったのですが、すでにチャンスは過ぎ去ってしまいました。
旅行者だけでなく、私には執筆家としての責任もあります。これまでは自由にいろいろな場所を取材して、美しい景観や文化的価値の高い美術、芸術を紹介することが私の楽しみでもありました。しかし、オーバーツーリズムの時代では、知る人ぞ知る京都の寺院や、三浦半島の静かな入り江について、どこまで紹介していいのか、慎重に考えるようになっています。
もう一歩踏み込んで「旅の哲学」に思いを馳せると、本来の紀行文がどんなものだったかも、気になってきました。『奥の細道』にしても、松尾芭蕉は、読んだ人に自分の足跡を辿ってもらおうという発想は一切なかったと思います。昔の紀行文には、「世界にこんな面白い場所があるんだ」ということを著者が紹介した時、読者は想像を膨らませ、心の中で大事にしようとする姿勢がありました。
もう行くことはないであろうガラパゴスについて、私は既に多くの本を読んでいます。そこから知ったガラパゴスは、美しい姿のまま心の中で生き続けています。しかし近年は、旅行に関する本や文章は次第に「観光ガイド」の色合いが濃くなってきて、観光客向けの歴史のマメ知識、便利なアクセス方法、食べ物・買い物場所の紹介へと内容が変わってきています。
私がここでしたためてきた「ニッポン巡礼」は、白洲さんが著した『かくれ里』にインスピレーションを受けて始めたものですが、彼女も読者が同じ場所を追いかけることは期待しておらず、文章を通して喜びを分かち合ってくれることで十分だったはずです。
そのような思いから、この「ニッポン巡礼」では紀行文本来の意味合いを取り戻してみたいと思いました。読者には、「日本にこんな美しい場所がある」と知っていただくだけで十分で、ここに挙げた場所へは行かなくてもいいと思います。
その代わり、みなさんの住む町の周辺で、素晴らしいものを探してみましょう。そして、それを見つけた時は、自分の親しい友人とだけ楽しむようにして、世間にはあえて知らせず、そっとしておくのです。
構成・清野由美 撮影・大島淳之
著名な観光地から一歩脇に入った、知る人ぞ知る隠れた場所には、秘められた魅力が残されている。東洋文化研究者アレックス・カーが、知られざるスポットを案内する「巡礼」の旅が始まる。