――「ノンフィクション作家」と名乗り始めたのはいつ頃のことですか? ノンフィクションというジャンルの確立を目指した功績が評価され、第43回(1995年)菊池寛賞を受賞されました。
独立して間もなくですね、70年代の後半ぐらいかな。これは僕がつくった肩書きなんですよ。当時はまだなじみのない言葉でしたが、名刺に刷り込んで配ったら、みんなが使うようになりました。
最初の頃に澤地久枝さんが面白いこと言ってたな。澤地さんもまもなく「ノンフィクション作家」と名乗るようになったんだけど、自分の母がノンフィクションと言えなくて「ノンヒクション」と言うんだ、って。なかなか発音がしにくいね、なんて笑ってましたね。
ノンフィクションジャンルで表現活動する。それは何のためかといえば、繰り返すように世の中にある事実が何年経っても見返されなければならない、という意識があるからです。歴史の彼方に消してしまってはいけない。これは災害でも戦災でも、あるいは病気の記録でも、です。よりよい人生を送れるようなモチベーションを後世の人につかんでほしい、という思いがあります。
――今回の企画展開催にあたり、まさに柳田さんの残した記録が後世につながった、と実感する出来事がありました。追悼平和祈念館の学芸員・橋本公さんが『空白の天気図』に登場した台員たちの遺族を見つけ出し、新たに遺影や手記を収集しましたね。中でも特筆すべきは、同作で唯一仮名だった「津村正樹」さんについて、橋本さんの調査で親族にたどり着き、有常正基という実名での展示にこぎつけたことではないでしょうか。歴史がつながったと感動しました。
橋本さんの調査には、作家として顔負けしましたね。有常さんは当時19歳で、気象台員の中でも最も重傷を受けた方です。渡し船で川を渡っていた時に原爆に遭いました。全身にやけどを負って顔も膨れ、わずかに開いた唇のすき間から台員たちが粥の米粒を1つずつを流し込んで看病した様子を書きました。しかし、後に精神病を患ったということで、取材をしても消息がほとんどわかりませんでした。当時はまだ精神障害に対する偏見も強く、不確定情報も多かったので、例外的ですが仮名にしたんです。
それを橋本さんが今回調べてくださったんですね。生まれ故郷の瀬戸内海の島へ行き、お墓を訪ね……。すると7年前に親戚の方がお参りに来ていたことが分かり、ついにたどり着きました。市内の病院で60年間過ごし、80代半ばで亡くなった、と。学芸員のリサーチワークはすごいなと感服しました。
今はしっかり、有常さんの名前を申し上げ、ご冥福を祈りたいです。気象台にいたある一人を取り上げただけでも、原爆が若者の人生をこんなにも変えてしまうということがわかると思います。
――まさに50年後に生きるノンフィクションになりました。今回、直筆原稿も柳田さんの資料から見つかり、追悼平和祈念館で展示されることになりました。作品を書き上げるにあたり、心がけたことはありますか?
面白さやドラマチックさに足を引っ張られないようにしました。確かに書いてあることはどれもドラマチックなんですが、いわゆる週刊誌のスクープのように、興味本位で飛びつくような意識や感情は排除しましたね。
核時代の最初の洗礼を受けた広島の被爆と、それと「複合災害」としての枕崎台風による災害、これらを重ね合わせたものを書くからには、絶えず読み返されるものにしなければと思いました。そして冒頭にも申し上げた通り、世の中に問いかける意味が古くならないものを目指したんですね。
今回、生原稿は資料の整理中にたまたま見つけました。見直してみると、気持ちは盛り上がっていながらも「抑えてるな」という感じがします。
書き出しは鹿児島県の薩摩半島南端・枕崎に台風が上陸する風景から書き出していますが、普通の報道記事とはタッチが違います。文学的なんです。もちろん事実なんですが、表現としては小説を意識しました。トルーマン・カポーティの『冷血』のように、新しいノンフィクションの書き方として「ニュー・ジャーナリズム」という手法が注目されるようになった頃です。こういう書き方ならば5年、10年たっても普遍的に読まれるだろう、という刺激を受けたんですね。
――今回、追悼平和祈念館が企画展の題材に『空白の天気図』を選んだのも、まさに現代に通じるテーマを伝えていると、学芸員の橋本さんが考えたためでした。
今や「複合災害」はどんな形で起こるかわかりません。非常にリスキーな時代になっています。この本の意味がますます重要性を増してきているのではないかと思います。
例えば東日本大震災では、津波や地震の揺れによって被害が引き起こされただけではなく、原発が爆発事故を起こして大変な放射性物質がまき散らされました。避難経路がどこかさえわからない中で汚染が広がり、震災や津波で家族を亡くした方が避難せざるを得なかった。そして、放射能はどんどん広がっている……これはまさに、「複合災害」の典型なんですね。
これから想定すべき複合災害というのは、災害や事故に加えて核戦争や原発事故についても考えなければなりません。これらが重なり合った時、大変な、手に負えないことが起こり得る、ということです。原爆被爆と枕崎台風は、そんな複合災害を歴史的に教えてくれているんだ、ということを読み取らなければならないと考えています。
・・・・・・・・・・・・
第2回は「取材者に必要な『2・5人称』の視点」について聞きます。
12月13日更新予定。
柳田邦男(やなぎだ くにお)
ノンフィクション作家。1936年生まれ。1972年『マッハの恐怖』で第3回大宅壮一ノンフィクション賞、79年『ガン回廊の朝』で第1回講談社ノンフィクション賞、95年『犠牲(サクリファイス)わが息子・脳死の11日』などで菊池寛賞、97年『脳治療革命の朝』で文藝春秋読者賞を受賞。著書に『人の痛みを感じる国家』『「想定外」の罠 大震災と原発』『終わらない原発事故と「日本病」』『言葉が立ち上がる時』、『悲しみとともにどう生きるか』(共著)、『この国の危機管理 失敗の本質 ドキュメンタリー・ケーススタディ』など多数。
『「黒い雨」訴訟』の著者でありジャーナリストの小山美砂が、ノンフィクション作家として数々の傑作を生みだしてきた柳田邦男さんにインタビュー。ノンフィクションの「これから」を聞く。デジタル時代に生きる私たちはいかに「事実」と向き合い、後世に手渡していくべきなのだろうか。(タイトル写真撮影/山田尚弘)
プロフィール
ジャーナリスト
1994年生まれ。2017年、毎日新聞に入社し、希望した広島支局へ配属。被爆者や原発関連訴訟の他、2019年以降は原爆投下後に降った「黒い雨」に関する取材に注力した。2022年7月、「黒い雨被爆者」が切り捨てられてきた戦後を記録したノンフィクション『「黒い雨」訴訟』(集英社新書)を刊行し、優れたジャーナリズム作品を顕彰する第66回JCJ賞を受賞した。大阪社会部を経て、2023年からフリー。広島を拠点に、原爆被害の取材を続けている。