ノンフィクションに未来はあるか 柳田邦男さんインタビュー 第1回

50年後に生きるノンフィクションとは?

小山 美砂(こやま みさ)

 ノンフィクションに、未来はあるのだろうか。そんなことをふと思うのは、「事実」を追うことが難しい時代に生きているからなのかも知れない。
 ネット上には真偽不明の情報が氾濫し、報道さえ「フェイクニュース」と揶揄される。さらに書籍の売れ行きは落ち込む一方で、時間も取材費もかかるノンフィクションは「危機的」だ。生成AIが台頭し、自ら思考して言葉をつむぐ価値さえ見失いそうな時代に入ってしまった。新聞社を辞めてフリーで書く私も「本なんて書いても……」と周りから言われることはしばしばで、先が見通せずに立ち尽くしてしまうことがある。

 そんな現代において、今なお輝きを放つ一冊がある。ノンフィクション作家の柳田邦男さんが1975年に刊行した『空白の天気図』(新潮社)だ。広島に投下された原爆とその直後に襲った大型台風による被害を記録した同作は、2011年に文春文庫から復刊された。
 刊行から半世紀となるが、そのドキュメントは色あせるどころかますます価値を高めている。広島市の国立広島原爆死没者追悼平和祈念館では、2023年3月から24年2月まで同作と連動した企画展「空白の天気図—気象台員たちのヒロシマ―」が開かれている。また、原爆投下後に降った「黒い雨」を浴びた住民たちが「被爆者」としての援護を求めた「『黒い雨』訴訟」の主張書面でも引用され、2021年夏の住民側の全面勝訴を支える証拠の1つとなった。まさに、50年後にも生きるノンフィクションだと感じた。

 本連載は『空白の天気図』はじめ多数の著作を生み出してきた柳田さんに、ノンフィクションの「これから」を聞く。デジタル時代に生きる私たちはいかに「事実」と向き合い、後世に手渡していくべきなのだろうか。そして、ノンフィクションに未来はあるのか。全3回のインタビューおよび取材後記の4週にわたって、この答えを探ってみたい。

(取材・構成/小山美砂 撮影/山田尚弘)

=2023年11月6日、広島市の国立広島原爆死没者追悼平和祈念館にてインタビュー実施

――『空白の天気図』をもとにした企画展が広島市の追悼平和祈念館で開催されています。関連した講演も広島で3回開かれました。半世紀近くもこの作品が読み継がれていることへの受け止めを、まずはお聞かせください。

 ものすごくうれしいことですね。僕の人生が認められたような気持ちがしました。
 大学を1960年に卒業し、NHKの記者として最初に赴任したのが広島でした。終戦から15年、川沿いにはまだバラックが立ち並んでいました。被爆の実態を生々しく知る一方で、同時に当時の気象状況にも興味を引かれました。というのも僕は少年時代から星空を眺めるのが好きで、気象学にはずっと関心があったんです。
 そこで初めて知ったのが、敗戦後の1945年9月17~18日に発生した「枕崎台風」です。全国で3756人が死亡・行方不明となる中、広島では突出して多い2000人超が犠牲となりました。昭和の三大台風と言われる威力のある台風が、十分な気象情報もない中、被爆地を襲ったのです。原爆の被害を受けた後に台風に襲われたら本当に大変なことだと感じ、原爆と台風が同時に襲った「複合災害」を意識するようになりました。
 調べ始めると、広島地方気象台の台員たちが、精力的に原爆と台風の調査・記録に取り組んだという事実が見えてきました。本当に「命がけ」で、体を張って調べているんですね。

――『空白の天気図』にその記述があります。白血球減少症といった被爆後の症状に苦しみながらも現場を歩き、荒れ狂う嵐の中でも百葉箱にしがみついて観測機器を確認していました。

 台員たちがこうしたことを徹底したのは、「観測精神」が根付いていたからです。これはあくまで科学者の精神で、命を捨てて突撃していくような軍人精神とは違います。二度と同じことが起こらない自然現象を正確に規則正しく観測し、記録を残していく。それがどういう意味を持つかは後世が判断することです。ただ、記録が途中で抜けていると、連続性のある自然現象を科学的に解明することはできない、という考え方なんです。
 彼らの仕事を取材しているうちに、「気象台員たちの魂を伝えるためには、私自身も同じ気持ちで取材し、記録し、分析して作品を書かなきゃいかん」という思いが湧き上がってきましてね。10年後、20年後に検証しても、その記録が生きている、生々しく感じられる、そういう作品にしなきゃいかんという意識を持って書きました。

 報道の世界ならば、その日ごとの「ホットさ」やスクープ性、あるいはドラマチックな興味が重視されます。そうではなくて、たとえテーマや事実自体が「地味」なものでも、何年経ってもその価値が変わらない、あるいは世の中に問いかける意味が古くならない、というものを目指しました。だから、このように企画展にしていただけて本当にうれしいですね。

――そもそも、どうしてノンフィクションに取り組もうと思われたのでしょうか。

 僕は人間の命を脅かすものに非常に敏感なんですね。小学生時代には空襲を体験し、終戦直後には父と兄を相次いで結核で亡くしました。そうした経験が生き方に影響を与えました。大学では経済学を学んだのですが、すごくアカデミックで面白くない。僕としては労働者の搾取の問題や炭鉱労働者の悲惨さとかに目が向きました。
 それでどんな職業に就こうかと考えた時に、戦争は終わったけれども人の命が危機に追いやられるような事態はさまざまな形であって、そういうものを少しでも減らせるように取り組んでみたい、と思いました。特に物書きになりたい、という気持ちは最初からあったので、人間そのものへ直に当たって、まずは世の中を理解することから始めようと報道の道を選んだわけです。

――NHKではどんな取材を担当されましたか。

 広島を振り出しに原爆、災害、事故などを担当しました。1966年2~3月には航空機事故が相次いで3件も発生し、この継続取材を命じられました。このことは『マッハの恐怖』(フジ出版社、1971年。新潮文庫、1986年。第3回大宅壮一ノンフィクション賞受賞)に書きました。
 その後、『空白の天気図』に取り掛かろうと思いましたが、30代半ばを過ぎたころだったので、取材の中心になって記者を手配したりとすごく忙しい。そして1974年4月、人事部にいた先輩が「柳田くん、明日で管理職になるよ」と耳打ちしてくれて、「これはやばい!」と。「デスクワークをするようになったらもう現場なんか歩けない、俺は取材するために記者になったのに!」と思ってその日の夕方、辞表出して辞めちゃったの。38歳でした。
 一番年長の兄が「お前、どうやって食っていくんだ!」と、心配して田舎から駆けつけてきましてね。大変な冒険でした。でも、その時に書きたい本がすでに5冊くらいあって、その筆頭が『空白の天気図』でした。

=追悼平和祈念館の企画展会場にて

 NHKには14年間いましたが、組織で仕事をするとどうしても「その日暮らし」にならざるをえません。社会のあり方や人間の命を継続的に考えようにも、記者稼業だとあまりに断片的だし、転勤や配置換えもあります。自分の思うような取材はしていましたが、やっぱりこのままでは初志貫徹ができない、フリーになろう、と思ったんですね。

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第2回  
ノンフィクションに未来はあるか 柳田邦男さんインタビュー

『「黒い雨」訴訟』の著者でありジャーナリストの小山美砂が、ノンフィクション作家として数々の傑作を生みだしてきた柳田邦男さんにインタビュー。ノンフィクションの「これから」を聞く。デジタル時代に生きる私たちはいかに「事実」と向き合い、後世に手渡していくべきなのだろうか。(タイトル写真撮影/山田尚弘)

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「黒い雨」訴訟

プロフィール

小山 美砂(こやま みさ)

ジャーナリスト

1994年生まれ。2017年、毎日新聞に入社し、希望した広島支局へ配属。被爆者や原発関連訴訟の他、2019年以降は原爆投下後に降った「黒い雨」に関する取材に注力した。2022年7月、「黒い雨被爆者」が切り捨てられてきた戦後を記録したノンフィクション『「黒い雨」訴訟』(集英社新書)を刊行し、優れたジャーナリズム作品を顕彰する第66回JCJ賞を受賞した。大阪社会部を経て、2023年からフリー。広島を拠点に、原爆被害の取材を続けている。

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