【短期連載】燃えるノートルダム 貴婦人の二つの顔 第3回

3. 人間の命と巨大な石

須藤輝彦

街と美しい貴婦人を長年見守ってきた、老人の目

 おそらく午後10時ごろだろう。ノートルダムが燃えた夜、セーヌ河岸を背に喧騒から離れようとしていたとき、わたしは思いがけず、白髪の老人男性が至近距離でこちらをじっと見つめているのに気がついた。うしろ髪を引かれるように立ち止まり、ふり返って最後に大聖堂を目に焼きつけようとしていたわたしが、杖なしでは満足に歩けない彼の行く手を阻んでいたのだった。いまだ火煙を放ち続けるノートルダムをまえに動じた様子など微塵もなく、物珍しいのはおまえの方だとでも言いたげな、異様に澄んだ目でこちらを見つめている。

 その灰色の目に動揺する心のうちを察したのか、老人はわたしにニコリと笑いかけた。場違いなほど自然な微笑によって硬直状態を解かれ、わたしはただ「すみません」と言って歩道脇に身を引いた。気がつけばひとり取り残されている。あたりを見まわし、トゥルネル橋を渡ろうとしている友人たちを早足に追った。

 あの老人は、燃えるノートルダムをまえに何を思っただろう。大聖堂の屋根が焼け落ちたからといって、パリでの生活がどうなるわけでもない。ましてやパリが、フランスがどうなるわけでもない。このくらいでへこたれるようなら、とうの昔に滅んでいる。わたしは落ち着きはらった彼の目の奥に、パリの、そしてヨーロッパの未来を覗きこむ思いがした。この街と美しい貴婦人を長年見守ってきたその目は、わたしに忘れがたい驚きと、不思議な安堵感を残して人混みのなかに消えた。

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 第2回
【短期連載】燃えるノートルダム 貴婦人の二つの顔

フランスの、ヨーロッパの歴史を象徴するノートルダム大聖堂を襲った火災。またたく間に世界中へ伝わった痛ましい悲劇の報せが、思わぬ波紋を呼んでいる。「エリート」と「庶民」、そこには、パリのみならず世界が抱える深い断絶が浮かび上がっていた……。パリに学ぶ若き中欧文学研究者が捉えた「ノートルダムが燃えた日」とは。

プロフィール

須藤輝彦

1988年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程在籍。ミラン・クンデラを中心に、チェコと中東欧の文学を研究中。論文「亡命期のクンデラと世界文学」(『れにくさ』第8号、2018年)、「偶然性と運命」(『スラブ学論集』第20号、2017年)、エッセー風短篇「中二階の風景」(『シンフォニカ』第2号、2016年)、留学記「中空プラハ」(http://midair-prague.blogspot.com)など。

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3. 人間の命と巨大な石