【短期連載】燃えるノートルダム 貴婦人の二つの顔 第2回

2. フランスに、ヨーロッパに走った亀裂

須藤輝彦
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 エッフェル塔、凱旋門、ルーブル美術館……。パリの名所と聞いて、何処を思い浮かべるだろうか。もし、そこにノートルダム大聖堂が欠落していたら、大きな違和感を抱くだろう。

 

 そのノートルダムが燃えたというニュースは、祈りを捧げる人々の姿や、文化人たちが嘆き悲しむ数多くの声とともに、記憶に新しいはずだ。だが他方で、火災はフランスに静かな、しかし決して小さくない波紋を呼んでいる。

 パリでチェコ文学を学ぶ気鋭の研究者が、その日、目にした光景から波紋の意味を考える。

 

フランス国民の心を結びつける「記憶の場」

 4月15日のノートルダム火災に対するリアクションを見ていくなかで、わたしの注意を引いたのは、その複層性だった。社会的な大メディアと個人規模の小メディアでは、主張する内容がかなり違っているように思えた。それぞれが帰属する「階級」の利益が絡みあい、織りなす二つの層のあいだには、大きな亀裂が走っていた。

 前回も触れたが、フランスを筆頭に世界の大手メディアが世に出した記事の多くは、おもにノートルダムの歴史や文化的価値について語っていた。もちろん建築物としての大聖堂の美しさを賞賛するものもあった。しかしそれらはどれも、大きくいえば文化的「象徴」としてのノートルダムを論じたものである。そして敢えていえば、そのような語り口は自然とエリート的なものになる。

写真提供:vvoevale / PIXTA(ピクスタ)

 強力なイングランド・プランタジネット帝国に包囲され国家存続の危機に立っていたフランスが、国王ルイ7世のもとノートルダム大聖堂の建立を決定したのは12世紀半ばのこと。大聖堂が長い月日をかけて民衆の心へ染みこんでいくなか、フランス革命時には略奪などの被害を受けながらも、時代の大変動をどうにか耐え抜いた。1804年、ナポレオンはここで皇帝になるための戴冠式を開く。20世紀の二度の大戦の最中にも平和を祈願するミサが催され、終戦の際には歓喜の鐘が鳴り響いた。大統領だったドゴールやミッテランの葬儀が行われたのもこの大聖堂である。フランス国民の心を結びつける「記憶の場」としての大聖堂は、『ノートルダム・ド・パリ』のヴィクトル・ユゴーをはじめ、国の境を越えて、多くの芸術家・作家達に霊感を与えてきた……。

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【短期連載】燃えるノートルダム 貴婦人の二つの顔

フランスの、ヨーロッパの歴史を象徴するノートルダム大聖堂を襲った火災。またたく間に世界中へ伝わった痛ましい悲劇の報せが、思わぬ波紋を呼んでいる。「エリート」と「庶民」、そこには、パリのみならず世界が抱える深い断絶が浮かび上がっていた……。パリに学ぶ若き中欧文学研究者が捉えた「ノートルダムが燃えた日」とは。

プロフィール

須藤輝彦

1988年生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程在籍。ミラン・クンデラを中心に、チェコと中東欧の文学を研究中。論文「亡命期のクンデラと世界文学」(『れにくさ』第8号、2018年)、「偶然性と運命」(『スラブ学論集』第20号、2017年)、エッセー風短篇「中二階の風景」(『シンフォニカ』第2号、2016年)、留学記「中空プラハ」(http://midair-prague.blogspot.com)など。

 
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2. フランスに、ヨーロッパに走った亀裂