三月一二日
すぐにそのまま遠くに行きたいと思っていたのですが、ガソリンスタンドがあきませんでした。電気がなくて、給油ができないというんです。
早朝、川俣の知人宅に何か情報が得られるかもしれないと思って尋ねました。
その時、妻の腰が痛いということを話したら、「休んでいけ」と勧められました。
できるだけ早く遠くに離れたいと思っていましたが、ご好意に甘えることにしました。布団を出してくれて、妻は腰に湿布薬を貼ってもらい、横になると安心したのか、眠りについていました。
その頃、114号線沿いには車がずらーっと並んでいましたし、原発事故や爆発のこともテレビで報道されていて、逸る気持ちもありました。
三月一三日
明け方3時にそこを出発しました。本当は北のほう、秋田方面に行く予定でしたが、妻の腰があまりに痛いということで、見ず知らずのところで入院するよりも、妻の実家がある埼玉県に行こう、ということになりました。埼玉方面に行くには、被ばく覚悟だよ、という話もしました。世話をしてくれた川俣の知人は、おにぎりを持たせてくれました。
国道4号を南下して、那須で偶然、同じところに避難していた、塾講師仲間の富岡町のWさん一家と出会いました。奥さん、娘夫婦、じーちゃん、ばーちゃんが車2台で避難していて、ばーちゃんは体が不自由な方で、歩行器を使っていて。「乾パンしかない」と言うので、握ってもらったおにぎりを渡したら、泣いて喜んでいましたね。
私は津波を見てないんですね。聞いていたので、想像するだけだったんです。でも、あとでその映像を見てから、「うわー」と……。津波の被害が甚大だった請戸には生徒や親戚がいたんです。とても心配でした。
つり仲間のお父さんは、「俺は残る。お前は避難しろ」と言って、本当に残ったそうで、津波に流されてしまいました。ゴルフ仲間で、漁師の同級生も、沖に船を出そうとしてのまれてしまいました。生徒の中にも、家族で、ギリギリのタイミングで車で逃げて、のまれてしまったけれど、お父さんが手を引っ張り上げてくれて、なんとか助かった、という女の子もいました。でも、10台後ろにいた同級生は流されてしまった、と……。
埼玉県には13日の夕方に着きました。ガソリンは2回入れました。並んで2000円分とか10リッターとか、制限がありました。
避難をして、福島県を出て、栃木県に入ってすぐの4号線のパチンコ屋さんは駐車場の車がいっぱいで、ああ、原発事故は遠いところの話なんだ、という温度差を感じてしまって言葉がありませんでした。
2011年3月11日からの一週間、かれらは一体なにを経験したのか? 大熊町、富岡町、浪江町、双葉町の住民の視点から、福島第一原子力発電所のシビアアクシデントの際、本当に起きていたことを検証する。これは、被災者自身による「事故調」である!