一週間 ――原発避難の記録 第8回

木場尚子さん(福島県浪江町大堀)

 浪江町大堀にある自宅で農作業中に被災。その後、浪江町津島地区の避難所を転々とし、二本松市、猪苗代町を経て、福島市の仮設住宅へ。現在は、南相馬市原町区に暮らす。

 

三月一一日

 朝からタバコ畑をトラクターで耕していました。家の西側の畑を4反歩(1200坪)ほど耕し終えたところ、40年もののヒノキの森がゆさゆさと揺れているのが見えました。「いやに揺れているなぁ」と思ってトラクターを停め、ジーッと見ていると、そのうち自分が揺れるのを感じ、トラクターがひっくり返りそうになりました。慌ててトラクターを降り、急いで家に走りました。
 家にいる夫は、足が悪く、身体障害者3、要介護3。「お父さん!あぶねぇ!」と中に向かって叫びました。夫は私に、「震度、何ぼあっか、今テレビつけて見てんだ」と言うんですが、その会話を交わす中でも何度も余震は続くので、「家、壊れっと大変だ!」と言いながら、後ろから夫を抱きかかえて外に引っ張り出しました。
 しばらく外で様子を見て、揺れがおさまったかな……と思いましたが、停電や断水になる可能性があると思い、その準備を始めました。米を多めに炊いて、お風呂も熱めに沸かし、バケツ・ボウル・鍋に水を汲み置き、野菜を洗って秋刀魚を焼いたりしました。
 一通り、家の準備が終わると、私が勤めている「杉乃家(すぎのや)」の食堂に片付けの手伝いに行こうと思い、夫も車に乗せて出発しました。
 「杉乃家」に到着すると、「お父さん(杉乃家の社長)」はすでに来ていて、「落ち着いたら連絡するから、片付けはその時でいいよ」と言われました。「お父さん」は、「浪江の町に津波が来っから、高台さ避難しろって言われたよ」と教えてくれました。すでにみんなが西台のほうに避難を始めていたので、私も一緒にそこに向かい、私の家の墓(西台にある)の無事も確認して、家に戻りました。
 家に戻ると、やはり停電になっていたので、ロウソクを用意しました。夕方、仕事に出ていた息子も帰宅して、無事だったのでホッとしました。
 余震は夕方も夜も続きました。家がいつ壊れても困らないようにと、カバンに位牌を入れ、紙袋には家庭薬を入れ、夫の1ヶ月分の薬も準備しました。幸い、2日前に病院に行ったばかりで、薬が手元にたくさんあったことは、本当に良かったです。
 ロウソクの光でみんなでご飯を食べ、お風呂も入りました。その最中も余震が続いていたので、不安になりながら、横になりました。でも、不安だわな。よく寝られねぇわな……。

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一週間 ――原発避難の記録

2011年3月11日からの一週間、かれらは一体なにを経験したのか? 大熊町、富岡町、浪江町、双葉町の住民の視点から、福島第一原子力発電所のシビアアクシデントの際、本当に起きていたことを検証する。これは、被災者自身による「事故調」である!

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木場尚子さん(福島県浪江町大堀)