浪江町権現堂にある自宅で仕事に行く直前に被災。その後、川俣町の知人宅に避難したあと、妻の実家がある埼玉県へ。その後、静岡県富士市へと避難し、現在に至る。
三月一一日
私は大学から東京に出て、10年ほど塾の講師をして、浪江に戻り、個人で塾を開いて23年が経っていました。チェルノブイリ原発事故が東京にいる頃に起きたんですが、その頃、東京の生徒たちに「うちの田舎には原発があってね」と話をしていたことがあるんです。
浪江に帰ってからも、生徒たちには、「もしも大きな地震があって原発が爆発してしまったら、この町も住めない土地になるぞ」と話をしていました。チェルノブイリ事故での甲状腺癌の知識もあったので、「まずは、ヨウ素から身を守ることが大切だよ」「濡れタオルを口と鼻にあてて、風上へ逃げるんだぞ」と。
当時、私の塾は、小学生・中学生を合わせて68人の生徒がいました。子どもたちは、私がチェルノブイリの話をすると「またはじまった」と茶化すようなところもありましたが、中には、その言葉を信じて、3月11日に避難してくれた子どももいました。
塾が夕方からはじまり、夜遅くなると23時になったりするので、だいたいいつも、遅いお昼を食べるんです。食べてから職場に行くんですね。職場は、浪江町にある西病院の真向かいにあるビルの2階です。1階は化粧品屋さんで。そのビルのオーナーは、私の同級生なんです。いつもだったら2時くらいに塾に着くように行くんですが、その日は塾が始まるのが遅かったので、2時半頃に家を出ようかなと思っていたんです。
自宅でお昼を食べ、そろそろ出ようかと思っていたときに、カタカタカタカタと揺れはじめました。徐々に大きな揺れになって。縦揺れというより横揺れでした。漆瓦が崩れてきて、重い屋根が潰れるのでは、と思うほどだったので、縁側の窓をあけて、すぐに飛び出せるようにしていました。普通の地震とは違う、とすぐにわかりました。
長い揺れの間に、土壁がはがれ落ち、土埃で家の中がもうもうとしました。このままではペシャンと潰れる、と思ったのですが、ぎりぎりまで家の中にいようと、表に出られる場所で万が一を待っていました。
妻はこの時、庭にいた犬のモモちゃんを庇うように抱えていました。モモちゃんは大きな犬で、地震の激しさに腰を抜かしてしまったんですが、その衝撃で妻が後ろに倒れて、実はこの時、腰椎を圧迫してしまっていたんです。
揺れが少しおさまってから、動けなくなってしまった妻とモモちゃんを抱っこして、2人とも50キロ近いんですが、車の中へ運びました。第2、第3の余震が次々と襲っていました。
猫も飼っていたんですが、恐怖であちこち飛び回ってしまって。捜して捜して、ようやく2重窓の隙間に入っていたのを見つけ出して車に乗せました。
しばらく様子を見ていたんですが、私は、佐屋前区(行政区)の副区長をやっていたんですね。近所の見回りが必要だろうと思って、「ぐるっと回ってくる」と妻に伝えると、妻は福祉委員で、一人暮らしの老人を把握していたので、「○○さんの家、見てきて」と言うので、その家も一緒に見回りをしました。
この時、お一人、私が見つけたのではないのですが、近所の方で、地震のショックでなくなっておられた方がいます。この方が、おそらく震災関連死の第一号だと思います。ご家族が「おばあちゃんが……」とショックを受けておられました。
その後も、体協(体育協会)の若者が、「こっち側回ります!」と言って手伝ってくれました。私も、隣のアパートで6本のガスボンベが倒れてしまったので、ガス漏れがないかを確認して元栓を閉めたりしていました。
見回りがいち段落して、家に戻ると、妻が「腰が痛い」と。病院に連れていこうと、西病院に行きました。地震から1時間半ほど経っていたと思います。
西病院に着くと、すでに津波は到達していたのか、津波被害を受けた人たちが、泥まみれになってストレッチャーに乗せられ、たくさん来ていました。「これではとても腰が痛いくらいでは診てもらえないだろう……」と諦めて帰ることにしました。
西病院の向かいが私の仕事場(塾)なので、もしかして、子どもが早めに自習のために来ていたりするのではないかと心配になり、念のため見ておくことにしました。2階はぐちゃぐちゃになっていましたが、幸い子どもはいませんでした。
この時、パトカーが「津波が町に到達するので高台に避難してください!」と呼びかけているのを聞きました。なので、高台に避難をしておいたほうがいいだろうと思い、浪江町の北西部の小高い地域(線路の北西側)でしばらく様子を見ていました。車が弾むような余震がその時もなんども襲い、「地球が壊れてしまうのでは」と思いました。
その時、はた、と原発のことを思い出したんです。こんな地震や津波が起きたら、あの原発はダメになっているのではないか、ダメになっていなかったとしても、時間の問題ではないか、と。
それで、妻に「おそらく原発がダメになるから、大事なものを取りに行って、避難するよ」と伝えました。
ちょうどこの日は、中学校の卒業式だったんですね。毎年、そのあとにカラオケやお別れ会などをするんですが、家に帰ったら、塾の生徒の1人が家に来て「先生、大丈夫ですか」と言うんです。「いや、大丈夫、じゃなくて、早く家に帰りなさい!」と思わず言いました。親御さんも心配しているだろうし、私の心配してる場合じゃないぞ……と。
そして、すぐに、通帳、家の権利書、寝袋、猫トイレ、猫砂、猫と犬のゴハンを車にぎゅうぎゅう詰めにして、18時頃には出発したと思います。
家を出るとき、手を合わせて、「おやじ、おふくろ、ごめんね。もう戻れないかもしれないけど、俺、逃げるからね」と言いました。
この頃は、まだ車は全然走っていませんでした。
この時は、秋田県まで逃げようと考えていました。そのために、川俣町まで行き、道の駅で一泊して、朝一でガソリンを満タンにしてから向かうつもりでした。
夜、雪が降って、犬の息で窓が曇り、それが凍りました。あまりに寒いからエンジンをかけ、暖房を入れて、消すというのを朝まで何度か繰り返しました。
道の駅は、114号線沿いにあります。その日、パトカーや救急車、自衛隊が、行き来していました。
夜中に、防護服を着た人が乗った警察車両を見た時、「ああ、やっぱり本当に原発事故が起きてしまったんだな」と思いました。
でも、情報は全く何もありません。テレビもなく、ラジオもなく、ただ想像力だけ。防災無線もありませんでした。
食事もしていなくて、翌日にコンビニに行きましたが、全部売り切れていました。ガムだけが少し残っていました。
2011年3月11日からの一週間、かれらは一体なにを経験したのか? 大熊町、富岡町、浪江町、双葉町の住民の視点から、福島第一原子力発電所のシビアアクシデントの際、本当に起きていたことを検証する。これは、被災者自身による「事故調」である!