一週間 ――原発避難の記録 第1回

熊川多恵子さん(双葉町両竹)

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 三月一二日
妹と二人で犬の散歩をしている時でしたね。
「避難してください」
という町内放送が流れたんです。
「いま、避難、って言ったよね」
「なんでだろう」
なんて言いながら、周囲を見回しつつ散歩の続きをしていると、車に布団を積む人がチラホラと見えました。それを見て、
「家に帰って、うちも準備しようか」
妹と話をしながら散歩から戻りました。
このころには、「原発」は頭をよぎっていましたよ。この地域の子どもたちは、就職先として原発を目指すんですが、数年前に亡くなった父はずっと反対していました。表立って原発反対運動に加わることはなかったんですが、小さい頃から、私たちに、
「あれが爆発したら大変なんだぞ。どこに逃げても無駄だからな」
と言っていました。そのことが忘れられなくて……。
午前九時頃に、車三台で出発すると、すでに車列ができていました。川俣町方面に向かう県道一一四号線は、歩くほうが速いくらいでしたね。時折、犬の散歩をさせるために車を降りて歩いていると、数台先の姪っ子が窓から顔を出して、
「おばちゃん、車から出ないほうがいいんじゃない?」
とジャージ姿をからかいました。
昼過ぎに、浪江町赤宇木にある石井商店近くの集会所の駐車場で休憩をとりました。集会所では、テレビが観られるようになっていて、人々が集まって情報交換をしていましたね。私たちは犬が居たため車内で過ごしていたんですが、わざわざオニギリを持ってきてくれた人もいて。
その集会所の前の通りを車がどんどん過ぎて行くんです。ちょうどそこに、双葉町民を乗せた大型バスも来て、
「おーい!」
と声をかけると、顔見知りに交じって、夫の母親と、親戚の姿も見えたんです。窓から手を振りあいながら無事だったことを喜びました。
「そのままバスに乗って行っておけ!」
と、夫は、母親に呼びかけて、先に行くように言いました。
この場所では、休憩をしている人と、移動をしている人がお互いに生存確認ができ、大きな声で喜びあう人もいました。
「生きていて良かった!」
なんて、そんな声も聞こえてきていました。
消防団の知人は、「助けて」という声を聞きながら、助けたいのにやむなく逃げた、とだいぶ経ってから、教えてくれました。原発から逃げろ、という指示が出ている以上、親ですら捜しに戻ることもできないんです。助けを求める声が、耳から離れないと言います。実際に私の知っている人も、助けを待ちながら自宅の二階で亡くなっていました。夜通し避難所を回って海沿いに住む親を捜し続けた身内もいます。あの時、助けられた人はたくさんいたと思います。「原発事故で死んだ人はいない」なんて言うお偉いさんがいますが、そんなことを言う人は、無念の思いを抱えて亡くなった人を知らないんでしょうね……。
集会所でしばらく過ごしていると、携帯にメールが入りました。職場の同僚からでした。
「いまどこにいるの? 遠くへ逃げたほうがいい」と、書かれていました。
そのメールとほとんど同時刻に、原発の三号機が爆発したとラジオが告げたんです。
「原発、爆発したぞ!」
爆発。なんとなく予感はしていましたが、本当に起きてしまった、と思いました。集会所でテレビを観ていた人たちは、ぞろぞろと慌てて出てきて、車に乗り込むと、一斉に動きはじめました。本当に、一斉に逃げましたね。
原発は、何とかなるのか、それとも、もう、ダメなのか、双葉町の自宅に、戻れるのだろうか。そんなことを、考えながら移動していました。川俣町方面へ車を動かしても、渋滞で速くは逃げられないんです。「逃げなくちゃ」という思いはあるんですが、何がどう危険なのかもわからないんです。この時、放射線量の高いところに居たことがわかるのも、ずっと後のことです。
「とにかく遠くへ行け! 原発からできるだけ離れろ!」
その同僚は何度かメールを送ってきていました。その一方で、これからようやく逃げようとしていた同僚や、まだ自宅で待機していた友人もいたようです。原発が爆発したことの危険性に対する温度差は、この頃からすでにあったんですね。
実母は、
「家に帰ったら、瓦を直さなくちゃいけないね」
と、帰宅してからの心配をしていたほどですから。
夜遅くに、ようやく川俣町の川俣南小学校についたんですが、体育館はたくさんの人で中には入れなかったんです。数少ないストーブの周りには人がたくさんかたまっていて。何とか暖をとろうとする人たちで足の踏み場もないほどになっていました。大勢の人が横になっていましたね。そのうち、具合が悪くなって救急車で運ばれる人もいました。
校庭にも車がたくさん停まっていて、オニギリや毛布が配られましたが、雪も降っていて、とても寒かったんです。ガソリンがなかったため、エンジンをかけたり切ったりしながら、暖をとって、先の見えない一夜を明かしました。

 

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一週間 ――原発避難の記録

2011年3月11日からの一週間、かれらは一体なにを経験したのか? 大熊町、富岡町、浪江町、双葉町の住民の視点から、福島第一原子力発電所のシビアアクシデントの際、本当に起きていたことを検証する。これは、被災者自身による「事故調」である!

 
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熊川多恵子さん(双葉町両竹)

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