一週間 ――原発避難の記録 第1回

熊川多恵子さん(双葉町両竹)

 三月一三日
 双葉町からも浪江町からも町の方針は出なくて、何の指示もありませんでした。どこにどう行けばいいのか分からないんです。悩んでいると、宮城県の夫の妹から電話が来て。夫の母親を引き取ってくれるというんです。高齢の母親は、避難所生活が厳しいだろうということで、その日のうちに、宮城県まで連れて行くことになりました。
 母を乗せて、家族四人で国道四号線を北上していると、福島県伊達郡国見町のあたりで、母の意識がなくなってしまったんです。
「しっかりしろ!」と言って、夫が運転しながら片手で母の口を開かせ、私は首の後ろを緩めて、息子が胸を叩きました。必死の応急処置です。
 通りかかった人に窓から、
「近くに病院はないですか!」
 と叫ぶと、目の前に藤田総合病院があったんです。本当に、奇跡だと思いました。幸い、ぐったりはしていたものの、母は意識を取り戻していました。
 慌てて急患に駆け込むと、受付の事務員から「原発事故の時に、どこに居ましたか?」って聞かれたんです。なぜ、そんなことを聞くのだろう、と思いながら、避難していた場所を告げたんですが、次に駆け込んできた人にも同じことを聞いていました。その方は、なぜか「こちらでは処置できませんので、○○病院まで行ってください」と言われていました。居た場所によって、対応が違うのだろうか、と不思議に思ったんですが、それ以上のことはわかりませんでした。
 母は、厚着をして避難をしていたため、身体が圧迫されていたようでした。幸い、入院の必要もなく、そのまま病院から出られることになりました。宮城県からは、夫の妹夫婦がその病院まで迎えに来てくれていました。母を引き渡して、私たちは再び川俣町の小学校に戻りました。戻った頃にはすでに夜になっていましたね。
「明日からどうしよう」と私の妹一家と相談しました。このまま、避難所にいればいいのだろうか。それとも、また別の場所に移ったほうがいいのだろうか。夜遅くまで話し合いました。宮城の夫の妹夫婦は、「よかったら、みんなこっちに来ないか」と言ってくれていたんです。でも、私の妹一家と実母まで連れて行くことはできないんですよね。では、妹一家と実母は、どこへ行けばいいのか。この頃浪江町は、二本松市か、福島市に行くよう、避難所の住民に伝えていました。妹一家と実母は、福島市の避難所へ、私たちは宮城県の夫の妹夫婦の家へ、翌日、それぞれの場所に移動することになりました。
 追い込まれて仕方なく選ぶしかない、そんな状況でした。妹一家と実母と、離れたいわけではないんですよ。双葉町の自宅と浪江町の実家は車で十数分の距離で、頻繁に行き来していたんです。こんなに苦しい状況の時こそ、一緒にいたいと思いましたが、自由がきかないんですよね。
 体育館の中はいっぱいで、この日も車中泊をしました。
 この日、職場の別の同僚から電話がありました。連絡がつかなくて、私は、死んでしまったと思われていたそうです。「(津波に)飲まれたかと思った!」と、電話の向こうで同僚は泣いていました。本当に、命を落とすかどうか、紙一重の場面がそれぞれに、たくさんあったんです。

 三月一四日
 食事はずっとオニギリばかりでした。コンビニに行ってもスーパーに行っても、物が何もないんです。
 午前一一時に、今度は三号機が爆発しました。体育館にはテレビがあったんです。
 慌てて妹と母たちは福島市の福島高校へ、私たち一家は宮城県へ、それぞれの場所へと移動することにしました。町からの細かい指示はなく、受け入れ先を見つけるのが困難でした。この時は、妹たちは福島高校に行くつもりだったんですが、結局すでにいっぱいになっていて、やっとの思いで次の福島第三中学校に辿り着いた、そんな感じだったそうです。
 別れの時になると、涙が止まらなくなりました。私は姉として、小さい頃から妹をいつも守ってきたんです。身体は私よりも大きいんですが、そんな妹は、私をいつも頼ってくれていたんです。こんな時にこそ、そばにいてあげたいのに、次に、いつ会えるのかも、分からない。この時が一番つらかったですね。姪たちは、窓から身を乗り出して泣きながらいつまでも手を振っていました。私も涙が止まらず、なにかを憎まずにはいられませんでした。

 午後三時頃、宮城県富(とみ)谷(や)市の夫の妹夫婦の家につきました。その夜は、数日ぶりに暖かい布団で眠ることができました。ひとまず落ち着くことができた夜でした。
 妹夫婦は、二階建ての家に二人で住んでいました。内陸だったので、津波の被害はなかったんですが、ガスが止まっていたので、お風呂に入れなかったんです。近所の人がお風呂を貸してくれたんですが、妹夫婦を含め、六人の大人が一度に借りることになるんですよね。申し訳ない思いしかありませんでした。姪っ子から借りたジャージは宮城に来る時まで同じものを着ていましたが、ようやく、用意してくれた服に着替えることができたんです。
 この頃になるとようやく、他の友人からも連絡が来るようになりました。メールや電話でお互いの所在を確認し、励ましあったりしていました。携帯の充電も、宮城に来てからです。今のように、スマートフォンが主流ではなく、ガラケーを持っていましたよね。充電器なんて持っていませんでした。

 三月一五日
 震災により宮城県も大規模な被害を受けていて、ライフラインはもとより、燃料や物資の入手が困難だったんです。この日、夫は給油のため朝早くからスタンドに並んで、戻ってきたのが午後二時過ぎていました。

 所持金は数千円しかなく、通帳もカードも持っていませんでした。すぐに帰れると思っていましたから……。通帳と、保険証書の再発行手続きをするしかないな、と思って、東邦銀行や郵便局など、あちこちを回りました。
 とても困っていたことがあったんです。私と息子は目が悪くて、コンタクトもメガネもなかったんですね。避難直後からとにかく不便でした。それに、血圧の薬。避難所には簡易医療相談コーナーがありましたが、薬の種類が分からないと渡せないと言われました。「お薬手帳」なんて持ち歩いたりしないんです。今は、その経験があって、持ち歩くようになりました。

 三月一六日
 義弟は、山形に燃料や物資を調達に行き、私たち一家の下着も全員分買ってきてくれました。私の下着まで買わせてしまうことが、申し訳なく、恥ずかしかったんですが、仕方がないですよね。

 この日、妹一家と実母は、福島第三中学校から山形県の避難所へと移動していました。避難所から一人減り、二人減りと、移動していくのを見て、自分たちも移動せざるを得なかったそうです。山形県への避難の途中、犬を乗せた車を一人で運転していた妹は雪山で遭難しかけたんですが、移動を終えた夕方になって、
「お姉ちゃん、怖かったんだよ」
 という電話越しの涙声を聞いて、涙が止まらなくて……。こんなに肝心な時になにもしてやれなかった悔しさと憤り。それが何に対してだったのか、その時には分からなかったんですが……なぜ、こんな目に遭うのだろう、という思いですよね……。
 その電話で、コンタクトの話もしていたら、
「お姉ちゃん、こっち(山形)に、いい眼科があるみたいだから、一度診てもらったら?」
 と妹が言いました。公共の温泉にも入れるというんです。ちょうどその頃、近所の人にお風呂を借り続けていることに、心苦しく思っていたところだったので、夫と息子と一緒に山形に日帰りで出かけることにしました。宮城に来てから数日後のことです。妹一家と実母に数日ぶりに会い、眼科で視力をはかってもらうと、ようやくコンタクトを手に入れることができました。

 三月一七日
 この日、義弟は、燃料と物資の調達のために船引(ふねひき)(福島県田村市船引町)に行きました。
 宮城の妹夫婦は、
「気を遣わなくていいよ」
 と言ってくれていたんですが、そうもいかないですよね。この頃、私と息子は、たびたび食材を用意し、ご飯の支度をしていました。
 息子の大学の授業料を払う時期も近づいていました。あと一年で卒業、というところだったんです。保険を解約するか、迷ったりしながら、先が何も見えない状況でした。
 埼玉県で働いている長男は、
「みんなでこっちに避難したらいい」
 と連絡をくれていたんです。四月になったら埼玉県に移動することを決めて、山形県ではかった視力を長男に伝えて、メガネを作っておくように頼んだりしていました。

 原発のような、あれだけ危ないものを動かしていたのに「想定外」というのは言い訳にしか聞こえません。避難マニュアルにしても、実際に起きてしまったら、今回のように逃げる経路すらない……っておかしいですよね。避難訓練もやっていましたが、いざという時に本当に使えない。例えば、「避難用リュック」だって家に戻れないんですから、結局役に立たないんです。それなら、避難所に物資がストックしてあったほうが役に立つ。上辺だけのことをやるのはやめて、同じことを、繰り返さないでほしいんです。
 帰りたい。帰りたいのに、帰れない。そのジレンマが苦しいんですよ。
 波に追いかけられたのに、波が恋しい。海のにおいが、音が、恋しい。
 津波に破壊された風景を見たはずなのに、思い出すのはいつも、何もなかった静かな平和な風景です。
 あの七日間は、私の親戚、友人の命が、まだ救えたかもしれない時間です。山すそで、両腕にしっかり孫を抱いて見つかった知人もいます。「原発事故がなければ、もしかしたら救えたのかもしれない」と思うたびに、苦しさが押し寄せるんです。もう二度と、人の命を後回しにしてほしくない。そんな思いで、悲しく、情けなくなり、テレビを観るのも苦痛になることがあります。
 あの逃避行では、自分が選びたい選択など、一つもできませんでした。「今はこれしかない」という苦しい選択を一つ一つこなしてきただけです。でも、最近になって、「選んでここに来たのでしょう」と悪意なく、言われることがあります。言う人には、本当に悪気はないんです。でも、そのたびに、返す言葉を失ってしまいます。
 避難先に家を建てるようになった友人たちは、口々に言います。
「全然、ほっとしない」
 なんでって、双葉町じゃないから。浪江町じゃないから。当たり前にあったものが、一瞬にして手が届かなくなったから。
 七年が過ぎました。でも、どんなに時間が過ぎても、私たちの悲しみ、痛みには、「区切り」はないんです。

(第1回 了)

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第2回  
一週間 ――原発避難の記録

2011年3月11日からの一週間、かれらは一体なにを経験したのか? 大熊町、富岡町、浪江町、双葉町の住民の視点から、福島第一原子力発電所のシビアアクシデントの際、本当に起きていたことを検証する。これは、被災者自身による「事故調」である!

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熊川多恵子さん(双葉町両竹)