一週間 ――原発避難の記録 第1回

熊川多恵子さん(双葉町両竹)

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「東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会」がまとめあげた、2012年7月23日の最終報告からは、何が欠落していたのか? 3.11から七年、歴史社会学者・小熊英二、NPO法人とみおか子ども未来ネットワーク理事長・市村高志、福島の現状に精通するジャーナリスト・木野龍逸、『ルポ 母子避難』の著者・吉田千亜の四人がタッグを組み、もっとも困難な調査に乗り出した。あの日、あの場所で、本当は何が起きていたのか? 現代史の巨大な空白を埋める、貴重な証言集。連載スタート。

*   *   *   *   *

双葉町のホームセンター、マイプラザにて勤務中に被災。その後、浪江町の実家、川俣町の小学校(避難所)、宮城県の親戚宅を経て、埼玉県(あさ)()市で現在も避難生活を送る。

インタビュー/構成 吉田千亜

 三月一一日
あの日のあの時間は、職場のレジに立っていました。「揺れがいつもと違う」と、思ったら、もう、身体のバランスがとれなくなっていました。目の前にある重たいレジが、横に揺さぶられて、尋常ではない揺れでした。
慌ててレジを抑えたんですが、レジを押さえているのか、自分の身体を支えているのか、わからないくらいで。全身に力を入れて踏ん張っても、立っているのもやっと。目の端に、「お酒コーナー」の瓶が四方八方に飛び交っているのが見えました。一方向に倒れる、というのではないんですよ、飛び交っていました。陳列台は波打つように揺れて、電気が(こつ)(ぜん)と消えて、ガラス張りの窓がガチャン!と音をたてて割れて。砕けたガラスが、買い物客のおじいちゃんに降りかかるのが見えました。そんな揺れの中で、目の前の女性が、足を踏ん張りながら必死に財布からお金を払おうとしているんです。我に返って、
「お金はいいですから、店の外へ!」
と叫びました。
(とっ)()にエプロンのポケットに入っていた携帯をとりだして、自宅の息子に電話しました。でも、電話は繋がらないんです。その間も、揺れは激しさを増していました。
「外に出てください!」
と、お客さんに向かって叫びながら、逸る気持ちを抑え、何度もリダイヤルをしていました。おさまって、おさまって、と祈りながら。息子はいつも何があっても動じないタイプなんです。こんなにひどい地震があっても、逃げないでいるのではないか……と思って。
「逃げてください!」
とお客さんに言いながら、頭の中は息子のことだけ。一刻も早くここから家に帰らなくてはならないと思っていました。
最初の長い揺れがおさまって、お客さんを店の外に出し終えた同僚たちが出入り口に集まって、みんなで、もう一度店内を確認に回りました。
「誰かいますか!」
と、散乱する商品を踏み分けながら、手分けして薄暗い店内を回ったんですが、何度も、余震がくるんです。
「みんな、もう外に出よう!」
と、誰かが言い、同僚たちも外へ退避しました。幸い、商品の下敷きになったお客さんはいなかったんです。

店の外に出ると、手が震えていました。
心配だから家に戻りたい、と課長に伝えて、駐車場で休憩をしていた資材の業者さんに途中まで乗せて行ってくれるようお願いしました。いわき市の(よつ)(くら)から来ている業者さんだったので、帰る方向が同じだったんです。私は、普段は自分の軽自動車で通勤していたんですが、この日に限って、春休みで帰省した息子に送迎してもらっていて、帰宅の足がなかったんです。
電話は、何度かけても、息子と繋がらなくて。周りの人も、電話が繋がりにくいと困っていました。
実は、この時、私と同じように海沿いの自宅に戻ったパートの同僚は、その後、津波に飲まれてしまって、帰らぬ人となってしまったんです。私の家と同じ方向の、海に近いところに住んでいた人でした。当然、津波がきていることを知るはずもなくて……この時、津波には、誰一人頭が回らなかったんです。
エプロン姿のまま業者さんのトラックに乗って通りに出ると、町並みは一変していました。家屋や店は崩れ落ち、道を塞いでいました。
六国(ろっこく・国道六号線)は混むだろう、という判断で、山側の旧道から南下したんですが、その道路にも大きな亀裂や起伏があって、車が立ち往生していました。
双葉町の火葬場(聖香苑)を過ぎたあたりで、一メートルくらいの段差があったんです。
「熊川さん、一回降りて」
と業者さんが言うので、言われるままに降りると、トラックは助走をつけ、段差をジャンプしたんです。呆気にとられていたら、
「熊川さん、乗って」
とまた、トラックのドアが開いて。彼は、そういえば、自衛隊に居たことがあると話していたことがありました。乗ったまま段差を越えたら、私が舌を噛むと思って降ろしてくれたんでしょうね。
「寺内前」という交差点の手前で降ろしてもらって、お礼を言って別れたあと、地下の歩道から六国を渡って、自宅方向へ走りました。普段ならここまで車で一五分もかからないのに、倍以上の時間がかかっていました。
田んぼの広がる道を海方向へ数百メートル走ると、息が上がってしまったんです。ボールペンやドライバー、六角レンチが入ったエプロンのポケットが、ガチャガチャと音を立てていました。
下長塚公民館の手前で、誰かが通行を止めていたんです。
「この先は行けないよ!」
って。近くに停めてあるライトバンに「双葉町」の文字が見えたので、役場の人だったと思います。
「いや、家があるから! 家で、子ども、待ってるから!」
と叫びながら、脇をすり抜け、再び走りました。役場の人が、なんのために道を塞いでいたのか、考える余裕もありませんでした。
ちょうどその時、私と同じように、役場の人の制止を振り切ってきた車の女性が声をかけてきました。
「この先、行けますかね。私も帰るんです」
「わからないけど、私も行きます」
って。その女性は道を曲がって去っていきました。その人、無事だったのかな、と今でも思うことがあります。
あと少しで自宅だな……と思って走ったんですが、もう、足がもつれそうになるんです。こんなに走ったのはいつぶりだろう、と思いながら必死でした。
でも、古跡橋の手前で足が止まってしまったんです。橋が、ないんです。いつも渡る橋が。
川のすぐ向こうに家があるのに、川を渡れないんですよ。ふと周りを見回すと、いつもの穏やかな風景も、ないんです。代わりに、私の軽自動車が、プカプカと浮いているのが見えて、その奥には、海産物を運ぶトラックまで浮いていて。これは、津波だ、とその時はじめて津波を認識しました。それまで気がつかなかったんです。自宅は海から約二キロほど離れているのに、水が来たんですね。
その瞬間、「あの浮いた軽自動車に、息子が乗っているかもしれない」と思いました。「もう少し近くまで行って、確認しなければ」って。それほど大きな川ではないので、橋が沈んでいても、橋桁に足が届けば、水の中を渡れるかもしれない…なんて考えたんです。
でも、足を踏みだすと、ずぶっと腿まで浸かってしまって。それでも構わず数歩歩き出した次の瞬間、右手の海のほうで、波が大木を軽々と押し流してくるのが見えたんです。
第二波だ、と気がついて、慌てて、川から足を抜き、波に背を向け走り出したんですが、川の両脇から水が滲み出て、扇状に広がって、生き物のように地を這って追いかけてくるんです。訳がわからなくなって、元来た道ではなく、田んぼの畦道を突っ切ることにしました。必死で縦横に走っていると、もう、どこに向かって走っているのかわからなくなってしまって。ゆっくり水が追いついてきてしまいました。もう走れない……と思った時に、繋がらなかった携帯電話が鳴ったんです。夫からでした。
「何をやっているんだ! こっちだ!」
と電話から夫の声がするので、ふと、顔を上げたら、通りで手を振って叫ぶ夫が見えたんです。ああ、あそこに向かって走ればいいのか、と思って夫を目指して走りました。

夫と息子は無事だったんです。二人は、夫の会社の車で自宅から逃げていたんですね。
実は、地震のとき、夫は偶然、自宅の周辺を通りかかり、すぐに家に帰ったんです。ひどい地震だったから、息子は飼っていた犬を白い軽自動車に乗せ、ガレージが潰れても車を使って逃げられるよう前方に動かし待機させていたそうです。同居していた夫の母親は、近隣の人たちと一緒に避難場所に避難させて、二人で車のラジオを聴いていると、津波の情報が流れ始めたそうなんです。
そのとき、「ドーン」という音とともに、二キロ先に、防波堤よりも遥かに高い波の壁を見たらしいです。防波堤に波がぶつかった音だったんですね。咄嗟に息子は軽自動車に乗せた犬に向かって走って、連れて戻ると、夫の車に乗り込んで、二人は猛スピードで逃げ出したそうです。あと一瞬遅かったら、津波に飲まれていたなんて、二人は言うんです。
そんな話を聞きながら、私は震えが止まりませんでした。恐怖による震えと、寒さと。夢中で走っていた時には気がつかなかったんですが、上着を職場に置いたまま、カーディガンを羽織っただけの薄着だったんですね。でも、濡れた衣服を着替えたくても、自宅には戻れなくて、どうしようかな……と。
六国(ろっこく)沿いのファミリーマートには五〜六台の車が停まっていて、人々が情報交換していました。町内放送を待っていたんですが、何の指示もないまま、次第に周囲が暗くなってきてしまって、浪江町の実家に向かうことにしました。
電話をかけると、母も妹も、津波のことを知らなくて、驚いていました。
実家のある浪江町は隣町ですが、六国は渋滞で動けないと判断して、山側の道を使いました。道はどこもガタガタで。(しも)()(とり)を抜け、()()()を抜けて、やっとの思いで実家にたどり着きました。もう、すでに夜の八時を回っていましたね。
実家は水も電気もダメになっていたんですが、偶然、その日は早めに湯船に水が張ってあって。薪で沸かせるお風呂のありがたさが身に染みました。
姪っ子が私にジャージを貸してくれたんですが、
「おばちゃん、変だよ」
と言って笑っていたのを覚えています。そういう、いつも通りのやりとりに、ホッとしました。でも、そんな風に、日常的に行き来をする実家でのひと時が最後になるなんて、この時は考えてもいませんでしたね……。
この日の夜のうちに、私は職場に自分のバッグと上着を取りに行きました。その時、ちょうど店長が店の片付けをしていて。
「明日は、片付けの手伝いには来られないです。家のほうが大変で、すみません」
なんて店長に謝ったりしていました。まだ、自宅に戻ったり、職場の片付けをしたりできるものだと思っていたんですね。

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一週間 ――原発避難の記録

2011年3月11日からの一週間、かれらは一体なにを経験したのか? 大熊町、富岡町、浪江町、双葉町の住民の視点から、福島第一原子力発電所のシビアアクシデントの際、本当に起きていたことを検証する。これは、被災者自身による「事故調」である!

 
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