一週間 ――原発避難の記録 第2回

平良克人さん(富岡町西原地区)

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富岡町のワタナベ電建(電気工事関連会社)に勤め、富岡町での電気工事中に被災。その後、川内村、三春町、東京都板橋区、千葉県を経て、現在も福島県郡山市にて避難生活を送る。

インタビュー/構成 吉田千亜

 三月一一日

 私がいたのは、富岡町にある福島県富岡合同庁舎です。年度末ということで、地中の漏電調査をしていたんですね。福島県から受けた仕事でした。行政関係の仕事は、あまり遅くまでできないんです。だから一六時には片付けが終わっているように、前倒しでやっていました。

 地震があった二時四六分は、ちょうど地震速報がなり、仕事も一区切りのところだったので、「地震が来るみたいだから、一服すっかー」と、外に出た瞬間でした。外で本当に良かった……と思うんです。その直前までマンホールに入っていたんですよ。

 揺れがすごくて、「これはすごいのが来た」と思いました。とっさに、手をついて伏せました。伏せながら周囲をうかがうと、駐車場の街灯が車の上にガチャーンと倒れるのが見えました。自分の身を守るのが精一杯です。建物から離れた場所にいて良かったのですが、何かが倒れてくるのではないかと思いました。とにかく揺れがおさまるのを待つしかない。

 ようやく少しおさまって、「これは仕事を続けられない」「撤収だね」と職人と話し、県の担当も同意してくれました。その間も、余震が続いていました。

 撤収作業中に津波を知らせる防災無線を聞いたのを覚えています。漠然と「ここにいないほうがいいのかな?」と思いました。それほど海に近い場所ではなかったんですが、さっさと帰ったほうがいいな……と。防災無線はそれほど緊迫した様子ではなく、「念のため注意してください」という感じでした。

 片付けが終わり、車に乗って、県の合同庁舎から、自分の会社まで、帰ろうと走らせたんですが、思うように動けないんです。何しろ、六号線(国道)がまったく動かない。信号が停電でついていなくて、横断できなかったんですね。

 六号線をやっと渡れた……と思ったら、今度はマンホールは飛び出て、道はガタガタ。注意しながらおそるおそる運転して、普段なら五分かからない道のりなんですが、三〇分もかかってようやく会社にたどり着いた感じです。

 実は、会社に戻る途中、職人と橋の上で富岡川を遡上する津波を見ていたんです。県道一一二号線にかかっている門口橋の上。それは、今まで見たことのない音と光景でした。黒いものが海から逆流してくるんです。二人とも驚いて無言になるような状態。職人は双葉町の人だったんですが、「すぐ家に帰っていいよ」と言って、その場で解散しました。

 富岡川沿いにある会社には誰もいませんでした。事務所の中もぐっちゃぐちゃ。川の反対側に社長の自宅兼倉庫があるので、そこにも歩いて行ってみたんですね。橋を渡って二~三分のところなんですが。行ってみたら、そこにも誰もいない。ピンときました。「津波の避難警報が出たのかな」と。川から津波が遡上するから、どこか避難したんだな、と。

 一方、私の自宅は富岡駅に近いんですが、津波が心配で……。家に向かう途中で今度は会社の事務の子とすれ違って。「富岡駅が津波ですごいことになっている」と教えてくれました。その事務員は広野町の海沿いに住んでいたんですね。「家が心配だけど、渋滞が酷くて行くに行けない。ダメかもしれないけど、時間かかっても行けるだけ行ってみる」と話していました。

 地震から一時間半後くらいに家に戻りました。この時も、マンホールは飛び出て凸凹でしたし、商店街の建物のガラスも壊れていたりしていましたが、なんとか帰りましたね。

 自宅に戻ると、長女と次男がいなかった。妻は仕事に出ていました。地震があった時間は小学校三年生の次男の下校時間だったから、心配でした。とにかく、長女と次男を確認しなくてはと、通学路を車で走りながら小学校へ行ったら、「文化交流センターに避難しています」という張り紙があって、すぐに向かいました。次男は先生と一緒にいました。本当にほっとしました。地震のとき、次男は帰ろうとして別のクラスの前の廊下で待っていたんですね。そのクラスの子どもたちと一緒に避難していて。息子を一人で帰さずにみんなと一緒に避難させてくれていたことを、すごく感謝しています。

 次は長女でした。富岡高校は新しく建てたばかりだったので、大丈夫だろう、と思っていました。学校に行ったら、新しい建物に待機させていました。ちらほら迎えに来る保護者がいましたが、私は早いほうでした。長女は、顔を見るなり大泣きしていましたね。家族を心配していたらしいです。

 長女と次男を連れて家に帰って、ぐちゃぐちゃの家をどうするかな……と。

 妻は看護師をしていて、楢葉町のデイサービスで働いていました。地震後に、利用者を車で送り届ける途中で、妻は一度家に寄りました。そのあと、また職場に戻るんです。妻の職場の人は、まさか妻が戻るとは思っていなかったみたいですが、私は、妻は看護師だから、緊急時に職場に戻らなくてはならないのは仕方がない、と常に覚悟はしていました。利用者さんについていなくちゃいけないし。「気をつけろよ」と言って別れました。

 妻もいないし、余震も続き、「しばらく眠れないだろう」という覚悟をしました。仕事、町、家……どう考えても、すぐに通常通りに戻るのは無理だな……と。

 まずは、自分の家族が安全な状況を作らないといけないと思ったので、近所の西原集会所に様子を見に行きました。自宅から高台のほうに歩いて五分くらいのところにある集会所なんです。すでにたくさんの人が出入りしていて、開放せざるを得ない状況でした。そこには石油ストーブもあったから、一晩そこにいようと、家族を連れていきました。だいたい夕方六時くらいですね。毛布だけ持って行きました。

 その場にいた行政区長も副区長も、「何をしたらいいかわからない」と言うので「来た人の名簿だけでも作っておいたほうがいい」と伝えました。避難所で、家族が落ち着ける場所ができたので、今度は自分が自由に動けるな、と思いました。

 そのころには、消防団の人も集まっていました。消防団の人たちは、要請が出たら、そこを離れて現場へ行かなくてはならない。でも私は消防団ではなかったので、「おまえが避難所は仕切ってくれよ」と。区長と副区長と自分とに集会所の運営をまかされました。

 とにかく連絡手段がなかったので、町役場に対策本部ができるはずだと思い、役場に向かいました。役場に行き、「何か食べ物はありませんか」と言ったら、かんぱんと水をくれました。「人数分全部は無理だから、半分にしてね」と言われました。私は集まった人数について、五〇人くらいのところを一〇〇人と申告していたので、不足なかったんですが(笑)……役場は「炊き出しも考えます」と返事をしてくれました。

 ちょうど、役場から出たところで、義兄に会いました。義兄は、ニエフ(福島第二原子力発電所)に勤務しているんです。普段車で通勤している義兄が歩いて帰っているから「何かあったな」とピンときました。「どうした?」ときいたら、駐車場が陥没して車が出せなかった、と。義兄は大熊町に住んでいるので「西原(集会所)まで一度、一緒に戻ってくれたら、そのあと、家に送るよ」と言いました。

 二人でいったん集会所に戻り、五〇人分のかんぱんと水を届け、義兄を避難している家族に会わせてから、大熊町に送りました。あさひ台という団地で、山のほうにあります。車の中では、「発電所は大丈夫なの?」という話もしました。大丈夫だよ、と。義兄の言葉は、それほどひっ迫感はありませんでしたね。ただ、イチエフ(福島第一原子力発電所)の情報がまったく入って来ない、とは言っていました。職場(第二原発)にいたらやることは山ほどあったけれど、「妻子持ちはいったん帰れ」と言われたそうです。

 大熊町の姉のところで、みんなの無事を確認しました。エコキュート(自然冷媒ヒートポンプ給湯機)がひっくり返ってしまったので「どうしたらいい?」なんて話もしていましたね。

 その後、二〇時くらいに、情報を得るために富岡町の対策本部に立ち寄りました。「炊き出しをしたから食べ物を取りに来て」という話でした。その足で集会所に戻ったら、今度は人がすごいことになっていて。入りきれなくなって、外まで人があふれていたんです。「これじゃ大変だ」と、区長と話をして、「となりにある保育所を開放してほしい」と再び町役場に交渉に行きました。それが二一時くらいかな。その時の回答は、「開放する動き」だと。

 集会所には、眠れるスペースはありませんでした。なんとか座れる程度。炊き出しが二一時すぎに来ました。塩おにぎりでしたね。町からは、保健師さんも来ていました。

 

 三月一二日

 地震の直後は、原発のことは話題にもなっていませんでした。日付が変わる午前〇時くらいに区長を連れて町役場の対策本部に行ったんですが、その時に「もしかしたら一時避難になるかもしれない」というのを役場の人が言っていました。でも、「原発が危ないから」とは、はっきり言っていませんでした。

 帰りの車の中で、「もしかしたら明朝あたりに一時避難になるかも」という話をしました。実は、「一時的に町の外に出る」くらいの感覚です。それも第一原発ではなく、第二原発の様子で、という話でした。「どうやって移動しようか」という話をしていましたね。ちょうど同じ頃、三月一二日の夜中一時くらいに消防団も解散しています。一度撤収して、翌朝集まる、と。

 集会所には、一五〇~一六〇人はいたと思います。私たちの行政区は、富岡町二七行政区の中で二番目に大きいんです。集会所に五〇人くらい、外の車二〇~三〇台に人がいっぱい乗っている感じ。夜中に保育所をあけてくれていましたが、そこから明け方まであまり記憶がないんです。確か、水汲みに行っていたと思います。ポリタンクを持って、川に行っていました。寝てられないな、という感じ。人としゃべったり、タバコ吸ったり、切迫感はないけれど、避難所運営の責任感で起きていましたね。

 明け方五時に集会所に戻ったとき、区長から「避難指示が発令されて正式避難になりそうだ」と聞き、上の子二人だけ連れて家に戻ったんです。毛布、食料……って言ってもパンくらいですね、あとは飲み物。貴重品を持ちだすような感じではなかったですよ。車は五人乗りのフィットで、六人無理やり乗り込みました。避難が長期化するなんて思っていなかったので、出発した時は、ドライブ感覚だったんですよ。

 集会所に戻ったら、区長が「正式に避難だ」と。朝六時くらいですね。広報が始まったのは七時くらいでしょうか。集会所の人が全員避難しないと私は出られないな……と思っていたので、区長、副区長、私の三世帯は最後まで待っていました。一人暮らしのお年寄りに声をかけたりして、全員避難したのが朝の八時くらいです。

 そうして、川内村に向かおうとしたんですが、長女の佳鈴(かりん)がファミリーマートでアルバイトをしていて、その日はシフトが入っているっていうんです。三月一二日の朝九時からだったんですね。「バイトどうしたらいい?」と聞かれ、川内村に行く途中だから寄ってみようか、と。でもね、寄ったら最後……、という感じでした。店を閉めたいけれど、閉められない状況でしたね。停電でレジも使えないから店長が手打ちで会計をやっていて、客もたくさん並んでいました。佳鈴はその様子を見ていられなくなって手伝いはじめました。私たち家族も、佳鈴が落ち着くまで出られないなーと思って。会社がそのファミリーマートの近くだったので、とりあえず会社に行って、営業車から懐中電灯と作業バッグを持ち出しました。仕事の書類や資料が入っているものです。

 会社からファミリーマートに戻ると、まだ人は並んでいました。公衆電話をかけている人もいて……公衆電話が災害のため、無料になっていたんですね。そこで、妻の職場に電話して、はじめて連絡が取れました。私たちは「川内村にドライブしてくるねー」という感じですよ。妻は「私(職場)はいわきに避難だってー」と。「車は大丈夫なの?」と聞いたら「楢葉町に置いていくから」と言っていました。その時はその程度の危機感です。というのも町からの情報は「ベントという措置をするから、(いったん)町外に出てください」という程度だったんです。

 娘は「もう私がいなくても大丈夫」と、納得しないと車に戻ってこないだろう、と思ったので、待ち続けていました。「すみません、お店閉めますんでー!」というアナウンスを娘がしていました。結局、ファミリーマートを出られたのは朝一〇時を過ぎていました。

 出たはいいけど、今度は大渋滞していました。一一時くらいでしょうか。六号線と山麓(県道三五号)線のぶつかる交差点のところで、白いタイベック(防護服)を着た警察が立っていて「あれ?」と思いました。毎年行われる防災訓練の時にもその格好しているなーと思い出して「ああ、訓練で着ているから、今日もやらされているのか」と思いました。まだ切迫感はありませんでしたね。「あの訓練のやつだよ」「暖かそうだね」と、そんな話をしていました。その警察は全面マスクもしていましたね。

 川内村に着いたのは正午頃でした。でも、川内村の体育館には入れなかったんです。防災無線で「富岡町民は川内方面に行ってください」「町外に出てください」という指示だったから、とりあえず川内のほうに向かったわけです。そのころ、楢葉町以南はいわき方面へ、浪江町は津島地区、双葉町は田村市、大熊町は田村市の都路のほうに避難していましたよね。みんな渋滞で並んで動いているから、そのうちに避難所があるだろう、と思っていました。

 川内村の役場前には橋があるんですが、そこで消防団の人がいて誘導していました。その誘導している人がこちらにやってきたので、窓を開けたら、顔見知りの人でした。その人は「平良さん、三春町の体育館に行けますか?」と聞いてきました。「どうしたの?」と聞いたら、「川内村には避難者がいっぱいになってしまったから、田村市のほうでも受け入れしてくれている。でも、三春町の体育館にも富岡町民を入れてもらえないか、聞いてきてくれないかなー」と。

 私が「ガソリンがそろそろやばいんです」と伝えると、川内村の「佐和屋スタンド」で一五リッターくらい入れられるみたいだよ、と言われたので、何とかなるかな、と思って向かいました。川内村から三春町までの道は、混んでいませんでした。みんなあまり知らない道を通ったからかもしれません。すいていましたね。

 実はそのころ、妻の母を三月一一日の朝から田村市都路の特別養護老人ホームのショートステイに預けていたんです。預けっぱなしだったんですね。だから、川内村から三春町に向かうなら道の途中にあるし、顔が見られるかな、と思ったんです。それで、その特養に寄って、妻の母にも再会することができました。施設の人は「ここは大丈夫だから預けてください」と言ってくれました。

 三春町には一四時くらいに到着しました。ラジオをつけっぱなしにしていました。三春町についてから携帯に一〇〇件くらいメールが届きました。それまで通じていなかったんですね。電話の留守電、着信履歴もたくさん。当時ガラケーだったのですが、充電は何とか持ちこたえていました。

 三春町について、まず町営体育館に向かいました。そこではちょうど受け入れの準備をしていて。入口に受付を作るために机を並べているところで、私たちは四組目くらいでした。受付にノートがあって、名前を書いてください、と言われました。

 「今日は足をのばして眠れるぞ」と思いました。下に敷くマットも毛布も確保して、「どこがいいか」と家族と相談して、体育館の真ん中あたりを確保しました。壁際だと、余震で何かが落ちてきたり壊れたりしたら嫌だな、と思ったからです。

 どんどん人が来て、体育館は埋まりはじめていました。自分の家族のスペースを確保して、タバコを吸いに外に出ました。三春町の体育館にはテレビがあって、人だかりができていたんですね。「何だろう?」と思って近寄ると、原発が爆発していました。

 私は、一週間前までその爆発しているイチエフで電気の配線の仕事をしていたんです。「へ?」と思いました。俺が配線したところだよな……と。現実を受け止められない感じです。「あんな建物がどうやったら爆発するの?」と。そもそも安全だと言われていたから、爆発するなんていう発想がない。それくらい強固だという意識が強くて、本当にショックな映像でした。「もし、核爆発だったとして、放射能汚染が起こるんだったら、ここだってやばいんじゃね?」と思いました。

 ふと我に返って「ああ、タバコを吸いにきたんだった」と外に出たら、同じ富岡町の人に会いました。その人は富岡町の体育協会の人で、町民を連れてきていました。「うちらも入れますか」と。その時に「もう富岡なんか帰れない」と話したのを覚えています。その時にはもう、そういう感覚がありましたね。

 「ここに居ても危ない……どうすっかな」と思いました。そのとき、一人の顔が思い浮かびました。「ほうかん(放射線管理員)」といって、放射線に詳しい従弟がいるんです。連絡取れないかな……と思い始めました。そういえば携帯が鳴りっぱなしだったな、と思い出し、メール、留守電をチェックしました。東京にいる親せきが、「福島は大丈夫か、すぐに連絡をくれ」と。東京ではすでに騒ぎになっていたんですね。

 着信は二時間前くらいの、正午頃でした。関東圏ではテレビで津波のことも原発のこともやっていたんですね。「一時的に東京に来い。どうやったら(富岡町を)離れられる?」と。

 もともと、私たちの親族は、富岡町と東京とで分かれて暮らしていましたが、連絡を取り合って、毎年のように行き来がありました。富岡町のまとめ役として私がいて、東京にもまとめ役のいとこがいて。とりあえず、東京のそのいとこに連絡をしました。すると「親せきで集合しよう」ということになりました。「ガソリンを持ってきてくれたら動ける」ということと「大熊町の姉はバスなので、移動手段がないから、迎えに行く」ということを伝え、まとまって東京に行くことにしました。それが決まったのは、この日の一七~一八時くらいでした。

 それから準備をはじめました。東京都の板橋区のいとこと横浜の叔父はこちらに向かってくれました。

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 第1回
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一週間 ――原発避難の記録

2011年3月11日からの一週間、かれらは一体なにを経験したのか? 大熊町、富岡町、浪江町、双葉町の住民の視点から、福島第一原子力発電所のシビアアクシデントの際、本当に起きていたことを検証する。これは、被災者自身による「事故調」である!

 
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