一週間 ――原発避難の記録 第2回

平良克人さん(富岡町西原地区)

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三月一三日

 二人が迎えに来てくれたのは、夜中の二時でした。それから、他の世帯を迎えに行って、朝六〜七時くらいに三春町の体育館に集まりました。うちが六人、富岡駅前近くに住む親せきが五人、姉のところが四人、放射線管理員のいとこ・その姉の家族が七人、会社の社長であり叔父の家族が四人。全部で二八人です。車は六台でした。

 新潟に避難することにした七人と、東京の親せきのところに向かう二一人に分かれました。東京に行く車は四台……満ぱんでしたね。東京からもう一台来てくれることになって、栃木県那須塩原市の黒磯で合流することになりました。食事をとりながら待っていたんですが、そこで食べたラーメンが本当においしかったなぁ。温かい食事が久しぶりでした。

 もう一台の車が来たので、母は横浜の叔父に預け、子どもたちは千葉県柏市の従弟に預けることにしました。その従弟は弟分なので安心して預けられる関係なんです。そのころ、うちの妻はいわきに移動しているのが分かっていました。従弟で放射線管理員のタケヒロも、イチエフから呼び戻されていました。「(原発に)一度顔を出したい」というので、俺の車に乗り、二人で黒磯からいわきに向かいました。夕方になっていましたね。タケヒロの妻の実家がいわきにあるので、そこでいったん夕飯を食ってから、妻の職場の施設ごと避難しているいわき市上遠野(かとおの)の体育館に行きました。

 妻のところに行くと、「今すぐには動けない。自分ひとりだけ避難するわけにはいかない」と言われました。一晩様子をみようかと思い、自分はいわきのタケヒロの妻の実家に戻りました。

 

三月一四日

 翌日の日中、タケヒロは朝からイチエフに行きました。私は、その間に銀行回りをして、クレジットカードでキャッシングしていました。金策ですね。でも、五〇万円が限界でした。「どうすっかなぁ」と考えていました。とりあえず、寝泊りする場所はある。でも、避難は長期化するのは目に見えている。「どう動いたらいいのか」と。妻の力も必要だ、と思いました。

 でも、ゆかり(妻)は動けない状況でした。もう無理やりにでも連れてこないと、来ないな、と思いました。次のことを考えるためには、いわきを離れたほうがいいな、と。

 タケヒロは、夕方、原発から帰ってきて言いました。「やばいよ。離れられるだけ離れたほうがいい」と。

 夜一九時か二〇時くらいでしょうか、ゆかりを説得しに体育館に行きました。「離れよう」と。ゆかりもいろいろ相談していたみたいでしたね。他の施設職員も納得してくれていて、「(自分たちは)これでどうにかなったら、仕方ない」と言っていましたね。妻がそこを離れることに対しても、「リスクを背負うよりいいと思う」と言ってくれました。

 このころは不安よりも、家族を抱えてこの先どうしよう、ということばかり考えていました。寝泊りする場所はあっても、ずっとお世話になるわけにはいかないし、どう生計を立てて行こうかと。でも、選択肢がなかった。情けないけど、弟分にお世話になるしかないな……と。

 このころには、「この日に何をした」というメモをしていましたね。後に、柏市のいとこの家に落ち着いてから、思い出しながらファイルを作ったりしていました。それはタケヒロが言っていたんです。いずれ賠償の問題になるから、メモと領収書はとっておいて、情報整理をしておいたほうがいい、と。

 地震があった時は、二万~三万円は持っていたんです。金曜日だったからですね。一四日になり、避難が現実になってきてからです。お金のことを気にしたのは、その時です。通帳も印鑑もない中で、「お金がないとまずいぞ……」と。行き先が決まって、リアルになってきたからでしょう。

 とりあえず、妻も説得できたので、一四日の夜中に「東京に行くね」といわき市にタケヒロを置いて、別れました。まずはお世話になった東京都板橋区の小豆沢(あずさわ)のいとこの家に向かったんです。

 そういえば、このころはすでに、放射線に対する知識を、タケヒロから聞いていました。一三日以降は、一緒に行動していたので、その時にいろいろな質問をしました。「(自宅には)もう近づかないほうがいい」と言われていたから、何か荷物を取りに行くつもりもありませんでした。タケヒロは、私を四倉(いわき市北部)に連れて行くことすら気を遣っていました。「車の窓、ガムテープで目張りをしていくか」なんて言っていましたから。放射線量の数値が高くなっていることを懸念していたんですね。四倉には一四日はほとんど車もいませんでした。

 すべてタケヒロのいう通りになっていくんです。タケヒロの情報に、少し遅れてテレビが報道する、という感じ。三号機の爆発もそうでした。「できるだけ離れたほうがいい、子どもたちに影響があると良くないから」とも言っていました。

 それから「東京がやばくなったら、宮古(の親せきのところ)に来い」と沖縄の石垣のいとこから連絡がありました。「お前らを受け入れる準備は整った」と。大船に乗ったつもりでそこにいろ、と、段ボール五箱の食料を送ってきてくれました。宮古の親せきからは「何が必要か」と聞かれ、「ほんっとに悪いけど、お金がないんだ……」と金銭の援助もお願いしました。本当にありがたかった。

 

三月一五日

 板橋の小豆沢には朝の九時頃に着きました。六号線で南下したんですね。実はこの日、土浦で後ろの車に追突されちゃって。夜中の二時くらいですかね。九〇歳近いおじいちゃんが水を汲んできたらしくて、信号で停まったらどーんとぶつかってきて。それで、おまわりさん呼んで、事故処理をして、二時間くらい時間がかかりました。まあ、保険でまかなえたからいいんですが……。そのあと、朝の五~六時くらいは、通勤渋滞に巻き込まれましたね。

 東京に来て最初に困ったのは、車のことでした。フィットで七人の家族で来ていましたし、動けないなと思っていたら、東京の王子で床屋をやっている高校時代の親友が、ノアに乗っていて「使わないから」と貸してくれることになりました。うちの子どもたちは、柏のいとこの家でお世話になっていました。「不安がっているから、そのまま柏でお世話になったら?」と勧められて。姉の世帯は板橋の小豆沢にいていいし、おふくろは横浜の叔父のところで面倒みてくれると。「その通りにさせてもらいます」という話で落ち着いたので、柏に向かいました。

 

三月一六日

 千葉県流山市で車の修理をしました。私が被災者であることが伝わり、とても良心的に対応してくれました。「車検も通しましょう、うまく保険でまかないますから!」と。後ろの板金を交換して、車検も通してもらって、初期費用だけで済みました。しかも、フルーツかごももらったんですよ。

 代車も出してくれたので、その代車で、高校の親友のところにノアを取りに行きました。その車の中には、米が一袋(三〇キロ)と野菜なども用意してくれていて……これも涙が出ました。まずは食料だろ、って思ってくれたんでしょうね。本当にいろんな人に助けられましたね。

 

三月一七日

 一七日の夜中の二時に、妻と一緒に富岡町に行きました。楢葉町に置いたままのワゴン車とお金と、荷物を取りに行くためです。行く前には、念のため柏のいとこにも「行ってくるけどいいか」と断りました。明るい時間にいわきに居たかったんです。時間がかかるだろうと思ったからです。常磐道はいわき中央までは行けました。

 一七〜一八日の段階で、今は原発でひどいことは起こらないだろう、と放射線管理員であるタケヒロは判断して、タケヒロやタケヒロの姉もいったん自宅に行ってきた、と連絡があったんです。避難するときには、何も持たずに出てきたので、子どもたちに「何を持って来てほしい?」と聞きました。下の二人は「オモチャ」と言ったんですが、それほど荷物も積めないので、勉強道具にしました。実は二番目の子は震災の一週間後にフランスに行く予定だったんです。中止になってしまったんですが、福島県のサッカーの選抜チームに選ばれていたんです。トランクに荷物も積めてあって、あとは行くばっかりだったんです。だから、それをそのまま運んできました。長期避難が目に見えていたので、着るものと子どもの勉強道具、貴重品、家にある大事なものを持ち出しました。

 帰りはいわきのスクリーニング場で車を被ばく検査してから帰りました。自分も、車も、車の中身もすべて検査しました。いわき中央で降りて、国道六号線の四倉あたりでもう通れなくて、山麓線の四倉の交差点でバリケードがあって、警備していました。いわきの地区保険福祉センターではスクリーニング検査もしていました。これはタケヒロからの情報です。東京で預かってくれている人や代車を貸してくれている人にも心配をかけないように、と思いました。

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一週間 ――原発避難の記録

2011年3月11日からの一週間、かれらは一体なにを経験したのか? 大熊町、富岡町、浪江町、双葉町の住民の視点から、福島第一原子力発電所のシビアアクシデントの際、本当に起きていたことを検証する。これは、被災者自身による「事故調」である!

 
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