一週間 ――原発避難の記録 第2回

平良克人さん(富岡町西原地区)

その後

 柏には三月末まで世話になり、そこにいる間に次の住宅を探していました。四月一日から船橋市にあるUR賃貸住宅に入れることになったんです。六人家族でしたが、二世帯に分かれて、2DK二部屋です。九月には、西船橋に3LDKの民間アパートを借りて引っ越しました。

 夏には、一時帰宅もありました。もうその頃には感情がない……というか、あきらめの境地でしたね。「戻りたい」という思いはなかった。くそ暑いのにタイベックを着て時間ないに淡々と物を出す作業をしていたという感じです。放射能汚染のことを考えると、長居しようとも思わなかったですね。今は、放射能汚染というより、朽ちているので長居ができなくなっています。臭いもあるし。

 その後、GWには私の勤めていた会社は福島県内の別の場所で事業を再開しました。私は、「もうちょっと考えさせてくれ」と言いました。一緒に避難をした親せきの男性はみんな原発関係で働いていたんです。母子を残して福島に戻り、イチエフに入っていました。私は彼らから「自分に何かあったら頼む」と言われていた身でした。俺まで単身で福島に仕事に行ってしまったら、みんなが大変だろう……と。

 その時、はじめてやめるかどうかを考えました。妻は「もしやめるタイミングがあるとしたら、今なんじゃないの?」と言ってくれました。社長は一度も「戻って来い」とは言いませんでした。こっちは「求められているのかな?」と悩んだりもしました。でも、原発事故前のように稼げる自信もありませんでした。地元密着型の仕事だったから、その戦場を失った感じです。それまで働いていたのと同じ環境にたどり着くまで、努力できるかどうか自信がありませんでした。

 二一歳の時に親せきである「ワタナベ電建」の社長から声をかけてもらい、富岡町に来て二四年かけて努力して作り上げた人脈や信頼は、どこにも代わりがきかないんです。形に表れるものではない、そういうものを失うのはダメージが大きいんだなって、そう思います。東京電力には、それを一番言いたい。富岡町では「ワタナベ電建の平良」って言ったらそこそこ知られていて、顔も通った。その信頼は、自分で積み上げた努力以外の何物でもないんです。

 お盆に、再開する事務所に行って、「会社をやめます」と言いました。この時、すごい覚悟をもって行ったんですよ。宙ぶらりんじゃいけないなと思って。電話とか文書で送りつけるのはいやだったんです。

 九月にやめて、一〇月からは東京の同級生のコンピューター関連会社で働き始めました。働き始めてもずっと避難している感覚がありましたね。避難者としての意識が続いたまま。富岡町に戻っていないですからね。

 一方、子どもたちは「帰りたい」と言い始めていました。長男は、中三の時に「やっぱり富岡高校に行きたい」と言いました。本人は実力もあって、富岡高校でサッカーをやるのが夢だったんですね。中二~中三の現役の一番いい時期に、本人にはつらい思いをさせてしまった、と思っていました。そのことを富岡高校に連絡したら「ぜひきてくれ」と言われました。

 実は、上の娘がすでに富岡高校のサテライト校に通っていたんです。校長先生が「ぜひきてくれ、預かるから」と言ってくださっていて。寮も完備しているから子どもだけで来るのもOKだよ、と。二〇一二年四月、長男は飯坂町の富岡高校のサテライト校で新一年生に。長女はいわきにある富岡高校に通うことになりました。この時から家族は四カ所に分離したんですね。

 二〇一三年の四月に、長女の卒業に合わせて、郡山市に引っ越しをしました。下の子どもたちは「お兄ちゃんやお姉ちゃんの近くがいい」と。妻も元の生活に近い形で生活がしたいと言っていました。アパートの上下階を気にする生活が窮屈になっていたんですね。

 私自身も、その頃には仕事を変え、車を使う仕事をし始めていたので、仕事の車の置き場所を考えても、もうちょっと広い場所がいいなと。アパート暮らしには限界があるな……と思っていました。福島なら家を構えて事業ができるかな、と。千葉にいると、現場まで二時間かけて行くことは当たり前でした。同じ仕事が福島県内でできるんなら、状況は変わらないんじゃないか、と。福島には仲間がたくさんいます。いわきの仲間も「いくらでも協力するよ」と言ってくれていましたし、同じ電気関係の仕事をするなら、福島で少しでも復興に寄与できればとの思いもありました。どうしても、「逃げてきた」という引け目があったので……。

 すべてが震災前に戻るとしたら、富岡町に戻ります。でも「ワタナベ電建の平良」という名前も捨てたんだし、その時の仲間も戻るか、って言ったら、戻らないと思いますね。避難指示解除は「すれば?」という感じでした。「なんで、今決めなきゃいけないの? 俺もわかんないよ」と。これまでの避難生活は、「自分ひとりでなんでも決められた」というわけではない。周りの要因があって、なすがままなんです。自分は、今後、どこに根を下ろすべきなのかな……と、ふと考えることもありますね。

(第2回 了)

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 第1回
一週間――原発避難の記録 第3回  
一週間 ――原発避難の記録

2011年3月11日からの一週間、かれらは一体なにを経験したのか? 大熊町、富岡町、浪江町、双葉町の住民の視点から、福島第一原子力発電所のシビアアクシデントの際、本当に起きていたことを検証する。これは、被災者自身による「事故調」である!

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平良克人さん(富岡町西原地区)