一週間 ――原発避難の記録 一週間――原発避難の記録 第3回

Mさん(女性:仮名/震災当時49歳)(帰還困難区域)

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「東京電力福島原子力発電所における事故調査・検証委員会」がまとめあげた、2012年7月23日の最終報告からは、何が欠落していたのか? 3.11から7年、歴史社会学者・小熊英二、NPO法人とみおか子ども未来ネットワーク理事長・市村高志、福島の現状に精通するジャーナリスト・木野龍逸、『ルポ 母子避難』の著者・吉田千亜の4人がタッグを組み、もっとも困難な調査に乗り出した。あの日、あの場所で、本当は何が起きていたのか? 現代史の巨大な空白を埋める、貴重な証言集。連載スタート。

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福島県富岡町→川内村→郡山市→宮城県→岩手県→福島県中通り。震災当時の同居家族:夫、子ども2人/震災後の同居家族:子ども2人(夫は単身赴任)

              インタビュー/構成 木野龍逸

 福島の中通りに住んで数年経ちました。当初は好き好んでここに住んでるんじゃないっていう気持ちはありました。転勤族として来たんだったら気持ちの切り替えができるんだと思うけど、そうじゃないから。来た理由は原発避難だから、今はそんなとげとげしい感情はなりをひそめましたが、かといって「**市民」かと言われると、そうでもなく。どこにも所属していないような気がします。

 あれから8年間、いまだに会いたくても会えてない人もいるわけですよ。消息もわからない。もう一生会えないかもしれない友だちもいます。どうしてくれるんだって。だから、「私は死ぬまで原発避難をひきずる」という思いはありますね。

 それくらい、言いようのない、お金には換えられないものを失くしたというか、今も失くし続けているのです。

 去年の6月に、今の避難先で中古のマンションを買いました。でも、富岡に別れを告げたわけでもないんです。物的なものは離れてますけど、精神的なものは変わらないって思っています。

 ただ、懐かしいっていうボリュームがだんだんしぼむとか、ボリュームの大小の変化はあるかもしれないけど、家を買ったからって、富岡と切れるとかっていうのではないですね。

 

 三月一一日

 震災のときは、夫と高校生と中学生の子どもの4人家族で富岡町に住んでいました。私は町内のスーパーでパートをしていて、地震のときも出勤日でした。

 その日は特売イベントの初日で、お昼過ぎの時間帯だったけど、お客様はそれなりにいっぱいいたんです。揺れたのは、自分のお弁当を買うためにレジで並んでたときでした。

 地震の揺れは長くて、大きくて、「これは避難させなきゃダメだな」と思いました。それで出入口を全部開放して、開閉式のドアを押えつつ、「こちらですよ!」ってお客さまを誘導したんです。

 でも、棚から倒れたりする商品もあって、その場に座り込んでしまうお客様もいらっしゃったので、男性従業員が引きずるようにして店外に連れ出すようなこともありました。

 私も、よその子どもを抱きかかえて外に出ました。あまりに揺れが長いので、みなさん、どこかの段階で「これは非常事態だ!」って思われたんでしょうね。自主的に店外に出られてました。

 外に出たものの、年配の方やお子さんは立っていられない様子で、その場に座り込んでましたね。防災無線の緊急のサイレンは、鳴ったり、途中で切れたりしていました。私も最初は立っていたのですが、揺れの強さや長さもあって、「どうしよう」って思って、座り込みました。

 しばらくして揺れが収まってから、店内にお客様が残っていないか、外に出た方にケガがないかなどを確認しました。ケガをした人はいなくて、お客様たちは三々五々帰られました。

 私たち店員も裏の駐車場に集まって、「今日はもう営業できないから、管理者だけ残って、明日片づけをすることにして、帰りましょう」という話になりました。事務所の机はぐちゃぐちゃだし、更衣室のロッカーも倒れてハの字になってましたね。

 電気も通ってなかったので、みんなで懐中電灯で照らして、自分の私物だけ取って、帰りました。地震が収まってから1時間くらいは経ってたと思いますけど、まだ明るい時間でした。

 お店の裏側には池があるのですが、その周辺の地面から液状化みたいな感じで水が出てました。店の前の方も、地面がくぼんでるところがありました。

 

 三月一一日 家族との連絡

 お店から自宅までは徒歩で数分です。自宅には夫がいました。夫は、この日は確定申告をするために自宅にいて、私が帰ったときには外で近所の人と地震の影響について話をしていました。

 中学生の息子は友だちのところに遊びに行っていました。この日は卒業式だったので、午前中で学校は終わっていました。それで夫が迎えに行ったんですけど、友だちとサッカーをして遊んでいたようです。友だちの団地は新しかったためか、あまり被害が出なかったみたいです。

 娘はいわき市内の高校に通っていて、地震のときは学校にいました。地震直後に、上の子から「大丈夫。元気」というメールがきました。この一回だけはメールが届いたんですよね。

 でも、すぐには迎えに行けませんでした。私のお店にはいわきの小名浜出身の人がいて、その人から「小名浜では津波があった」という話は聞いていたのと、6号線も走れるかわからないし、ガソリンも半分くらいしか残ってないし、というのもあって、中途半端に迎えに行くよりも、学校だから解散ということはないし、一泊くらいはどうにかなるだろうと思って、様子を見ることにしたんです。

 

 三月一一日 夕方

 自宅に戻った時は、電気はついてなかったです。家の中はぐちゃぐちゃですよ。サッシは外れて、台所は足の踏み場もなくて、タンスも前の方に出てるし、テレビも動いてました。

 自宅の建物は、築30~40年でした。家の南側がやられてましたけど、北側はそれほどでもなかったです。ただ、余震も大きいのが続いてたし、電気もないし、窓も外れてるし、「今日は、ここでは寝られないな」って思いました。

 でも、すぐに避難所に行く、という頭がなくて、夫と息子と私の3人で、わりと広いリフレ富岡の駐車場に車を停めて、毛布を家から持ってきたり、お菓子や家にあった食べ物を持ち込んだりして、とりあえず一晩しのごうっていう気持ちで車中泊することにしたんです。

 セブン−イレブンにも行きました。飴とか買ったんですけど、「食べよう」という気持ちはなかったですね。あの時は空腹感はなかったんですよね。

 そうしてるうちに、暗くなってきてからだから17時頃だと思うんですが、「原発から3キロ圏内は避難」っていう防災無線が流れました。

 そのあと、夜中には「10キロ圏内屋内退避」って言っていたかな。

 防災無線を聞いて、「あぁ、(富岡には)原発があったんだ」って意識しましたけど、事故とかそんなことは思わず、あの揺れだし、「念のための屋内退避なんだろうな」って思っていました。

 私は岩手出身なので、津波の話は昔から聞いてたんですね。だから津波くるって思ってて、夜中になっても車のテレビで津波の映像を見て「うわあ、すごいことになっている……」って言ってました。でも、原発までは思いつかなかった。

 車の中では、暖房つけたり消したりして過ごしました。でもガソリンも半分くらいしかないし、暗いし。

 あの日の夜は、星がすごくきれいだったんですよ。満天の星空です。

 家族で、「わあ、すごい」って。

 普段、星をまじまじと見ることなんてないじゃないですか。すごくよく覚えています。

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 第2回
一週間 ――原発避難の記録

2011年3月11日からの一週間、かれらは一体なにを経験したのか? 大熊町、富岡町、浪江町、双葉町の住民の視点から、福島第一原子力発電所のシビアアクシデントの際、本当に起きていたことを検証する。これは、被災者自身による「事故調」である!

 
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