コロナ禍をきっかけにピットイン
「今日は自分ひとりで好きなラーメンを作ってみて下さい」
講師役の男性がそういうと、生徒の男性が「えっ」とたじろいだ。
「ここに昨日作った鶏油(チーユ)、煮干しのタレとかがあります。どれでも好きなのを選んで」
男性が鶏油をレードル(小さなおたま)ですくって丼の底に入れた後、麺をほぐして茹で始めた。
ここは千葉県八千代市にある「食の道場」というラーメンスクールの1階にあるキッチンスタジオ。ラーメン作りを学びにきた男性に講師が指導をしている真っ最中だった。ラーメンを作り終えると男性と講師が交互に試食を始めた。
「うーん、普通に店に出せるレベルだと思うけど、また食べに来たいと思うかなあ」とクビをひねる講師に、男性も「もうちょっと醤油の味をキリッとさせたいですよね」と肯(うなず)く。
生徒の男性は千葉県内で飲食店を営む40代の男性。自分の店で出す締めの料理としてラーメンを考えているのだという。違う料理とはいえ包丁を握って20年以上というから大ベテランだ。3日間のレッスンで授業料17万円を支払ってここに来た。
「20年以上料理人をやっているから勘でラーメンを作ることもできます。でもそれだと味がブレて安定しなかったんです。ラーメンはスープが何cc、それにあわせて油、タレの量はいくらと方程式が決まってくる。そこに自分が作りたいラーメンを落とし込んで考えています。違うジャンルの料理だから講師の方の話も素直に聞けるし、決して17万円は高いとは思わないですね」
男性の店は1か月先まで予約で埋まる人気店だったが、このコロナ禍で客足が激減した。しかしそれをきっかけにして思い切って店を休業し、このスクールに通うことにしたのだという。F1レースで車がピットインしてタイヤを交換したりするのに似ている。それも飲食店のしたたかさだ。
日本全国に1万 8000軒。新規開店と閉店の「新陳代謝」を猛スピードで繰り返す、熾烈な市場競争。それでも、自分の一杯を極めるマニア性と一攫千金も夢ではない山師的な魅力は、多くの人々を惹きつけてやまない。 なぜ彼らはレッドオーシャンに飛び込むのか。その先に待っている世界の魅力と過酷な現実とは? ラーメンに夢中になり、人生を賭けた人たちの姿を追う。
プロフィール
1963年、大阪市生まれ。関西大学法学部卒業。大学卒業後、ジャーナリストの故・黒田清氏の事務所に所属。独立後、ノンフィクションライターとして現在に至る。主な著書に『ハノイの純情、サイゴンの夢』『「謎」の進学校 麻布の教え』、最新刊は将棋の森信雄一門をテーマにした『一門』(朝日新聞出版)。