酒場から酒場へ 第11回

「リキ万」のビビンパ

南條竹則

 変わったといえば変わったけれど、巨大なショッピング・モールなどが出来ないせいか、高田馬場の駅前には、わたしが学生時代に通った街の雰囲気がまだかなり残っている。
 先日ふと思い立って、昔行った居酒屋が今もあるかどうかと、この界隈をぶらついてみた。知っていた店はあらかたなくなり、残っているのは明治通りの「葉隠(はがくれ)」と駅前の「幸寿司」という寿司屋くらいだったが、そのかわり、最近出来た本格派の湖南料理屋を見つけて、辛い料理を食い、白酒(パイチュウ)を飲んで帰った。
 今言った「幸寿司」というのはもう大分古ぼけた店で、昔、安い鉄火巻を食べた憶えがある。
 この店は駅の改札を出ると、向かい側の角にあって、そのわきの坂道を線路沿いに目白の方へ下りて行くと、二階建ての家が数軒、土手にヒザラガイのごとくはりついている。ここに以前「朝鮮料理 リキ万」と書いた大きな提灯(ちょうちん)がぶら下がっていたのが、今も目に浮かぶようだ。
 遠目にも目立つ提灯で、わたしは最初それに誘われ、一人でひょっと入ってみたのだった。


「朝鮮料理」と提灯には書いてあったけれど、店の人は北朝鮮(きた)の人ではなく、韓国の済州島(さいしゅうとう)に生まれたおばちゃん一人だった。
 髪は銀髪で、顔は丸くて平べったく、大きな眼鏡をかけていた。子供の頃から大阪育ちで関西弁を話す、いわゆる「大阪のおばちゃん」だった。
 店は二階にあり、狭い入口の階段から想像するよりは広々していた。
 入ると、左側の壁に作りつけた傘立てがあり、右側はLの字のカウンターだ。おばちゃんはその中でいつも煙草を吹かしている。カウンター席は五、六席で、焼肉に使う、(かぶと)のような形をした鉄板が並んでいる。店の奥には狭い小上がりもあったが、そこはめったに使わなかった。客がよっぽど大勢の時か、親戚の子供が遊びに来た時、ここに(すわ)らせるくらいだった。
 「リキ万」の献立は当時の普通の焼肉屋と大同小異で、肉はいずれも吟味したもの。量もたっぷりあった。中でもタンは分厚くて、(はさみ)で切らなければいけないほど大きな塊だった。
 そいつを例の兜のような鉄板で焼く。
 そういえば一度、何かの機会(おり)に「ラインガウ」の荒川さんとここへ来たことがある。京城生まれの荒川さんは鉄板の上いっぱいに肉を載せて、ジュウジュウ盛大に焼いたのを憶えている。
 焼肉以外の料理ではコムタンがおばちゃんの自慢だった。塩味の汁に入っている骨つきのテールは、それは立派だった。クッパやテグタン、冷麺(レーメン)もおいしかったが、何より鮮烈に印象に残っているのは、ここでのビビンパ体験である。


 この世界には、掻き混ぜて食べる料理というものが存在する。
 客の前に出す時には色とりどりの具を美しく盛りつけてあるが、いざ食べる段になると、マゼコゼにしてしまう料理である。
 中華料理の例を挙げれば、御存知、ジャージャー麺がそうだ。「大拉皮(ダーラーピー)」も同類である。これは東北料理の店へ行くとたいてい献立にあるが、粉皮(フェンピー)(緑豆の澱粉などでつくる太い春雨)に各種の具を混ぜ、胡麻だれで食べる冷菜で、味わいが冷やし中華に一脈通ずる。
 朝鮮料理のビビンパもこの仲間に属する。具と御飯をよく掻き混ぜてから食べるもので、あれを三色弁当のように部分ごとに食べたのでは、おいしくない。
 さて、コチトラもそのくらいは心得ていたのであるが、「リキ万」のビビンパは別格だった。何が別格かというと、おばちゃんの指導が厳しいのだ。
 ビビンパそのものにも特色がある。
 ふつうの店のビビンパにのっている具は、青菜、豆モヤシ、ゼンマイ、キムチ、人参と大根の酢の物、それに肉がチョンボリといったところだろう。「リキ万」製ビビンパは酢の物と豆モヤシと青菜の代わりに山菜が入っていて、色が全体に茶色っぽい。
 少し混ぜて食べようとすると、
「ダーメ、ダメ!」
 見ていたおばちゃんが声をかける。
「もっとよく掻き混ぜな!」
 それでもう少しやってみたが、やはりOKが出ない。
「御飯がまだダマになってるよ。それをつぶさなきゃ。胡麻油が御飯によくからまなきゃ美味(うま)くないよ」
 うちは上等の胡麻油を使ってるんだ、とおばちゃんは誇らしげに言った。具ばかりきれいに並べても、安物の油を使う店がある。それじゃあビビンパは価値がない、という。
 なるほどと拝聴して、今度は飯の塊をすべて丹念につぶし、白いところがなくなるまで一粒一粒に油と味噌をからませた。中々骨が折れる。
 それを見て、おばちゃんは「よし!」と言う。
 食べてみると、たしかに美味い。アダヤオロソカにしていない感じがする。
「レーメンもね」
 とおばちゃんは語り続ける。
「いい加減なキムチを使ったら、美味くないよ。レーメンはキムチの味で食べさせるんだから」


 こんな調子で、おばちゃんは言うことがやかましく、初めのうちは少し怖かったが、馴れてくるとサッパリした、さばけた人であることがわかった。店に来る学生を可愛がって、肉の盛りなどサービスしていた。
 わたしは大学院の頃から行きはじめて、就職してからもこの店によく通った。ここへ来ると、肉を食べるより、特製の薬草茶割りや梅干入りの焼酎を飲みながら、おしゃべりをするのである。「リキ万」のおばちゃんとわたしには、一つ共通の話題があったからだ。
 それは温泉である。
 おばちゃんはアウトドア派で、若い頃はスキーをよくやり、写真と山菜採りが趣味だった。店には自分で撮った山や花の写真が飾ってあった。そういえば、『春の野の花』とかいう小さな図鑑をわたしにくれて、それは今も家の本棚のどこかにある。
 山菜採りの成果は顕著で、野蒜(のびる)やギョウジャニンニク、オカヒジキなどがおつまみに出た。おばちゃんには何か持病があり、時々十日くらい店を休んで湯治場へ出かけたから、山菜を採る機会もあったのだろう。
 おばちゃんがとくに贔屓(ひいき)にしている温泉は二つあった。一つは青森県の黄金崎不老不死温泉――海辺の露天風呂から見る夕陽が絶景なのだという。御存知の方もおありだろう。ここは当時から温泉通に人気の宿だった。
 もう一つは八幡平(はちまんたい)後生掛(ごしょがけ)温泉である。
「後生掛はいいネー」
 とおばちゃんはいつも決まり文句のように言った。
「あすこは広くて、お風呂もいっぱいあるし、部屋も色々ある。あたしはいつもあすこへ行くと、自炊部の大部屋に泊まるんだよ。床の下に温泉が通っていて、ポカポカしてあったかいのよ。タオルをかけて寝てると、良い汗をびっしょり掻くんだ」
 つげ義春の漫画に「オンドル小屋」という名作があるが、後生掛は、その舞台になった温泉である。わたしは話を聞いて以来、行きたいとずっと思っているが、いまだにその機会を得ない。しかし、鉛温泉はおばちゃんに教わるとすぐに行ってみた。
 そこは藤三旅館という一軒家で、「白猿の湯」という、立って入る湯が名物だ。湯船の深さが一メートルあまりもあり、下は岩盤で、透きとおった温泉が足元から自噴している。湯船の縁に寄りかかって、高い天井を見ながらつかっていると、じつに心地良い。
 鉛温泉は風呂も良いが、古風で広い自炊部が、いかにもおばちゃん好みの宿だった。
 帰って来て、「リキ万」へ報告に行くと、
「あすこはいいでしょ」
 とおばちゃんは(うなず)く。
 話はそれから山梨の下部(しもべ)温泉のことになり、わたしはのちにそこへも行って、ぬるい湯に入った。


 「リキ万」というと思い出すものに、もう一つ、チャリの塩漬けがある。
 チャリは和名をスズメダイという小魚で、韓国料理店ではよく「チャリ・フェ」にして食べさせる。フェというのは生の魚に胡瓜(きゅうり)、レタスといった野菜を和え、コチジャンなどの味で食べさせる、刺身というよりも(なます)だ。
 ある時、おばちゃんの済州島の親戚が、この魚の塩漬けをお土産に持って来た。
「五年物だよ」
 おばちゃんは墨のように真っ黒くなった魚を一匹、分けてくれた。食べてみると非常に(しおから)いが、じつに旨味がある。これをつまみにマッコウリを飲んだら、さぞ飲めるだろうと思った。

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第12回  
酒場から酒場へ

今はない酒場、幻の居酒屋……。酒飲みにとって、かつて訪ねた店の面影はいつまでも消えることなく脳裏に刻まれている。思えばここ四半世紀、味のある居酒屋は次々に姿を消してしまった。在りし日の酒場に思いを馳せながら綴る、南條流「酒飲みの履歴書」。

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プロフィール

南條竹則
1958年東京生まれ。作家。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。学習院大学講師。『酒仙』(新潮社)で第5回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞受賞。他の著書に『吾輩は猫画家である ルイス・ウェイン伝』、『人生はうしろ向きに』(集英社新書)、『ドリトル先生アフリカへ行く』(集英社)、『怪奇三昧 英国恐怖小説の世界』(小学館)、『中華料理秘話 泥鰌地獄と龍虎鳳』(ちくま文庫)など。訳書に『タブスおばあさんと三匹のおはなし』(集英社)など多数。
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