酒場から酒場へ 最終回

公望荘の昼酒

南條竹則

 友人のM君はそばが好きだ。
 そばといっても麺類一般ではない。蕎麦粉でつくる、いわゆる日本蕎麦のことである。
 M君は蕎麦処として知られる信州の出身だが、郷里にいた時はさほどこの食品に興味はなかった。大学に上がり、東京へ出て来てから蕎麦の──というより、蕎麦屋というものの味わいをおぼえたのだ。彼は東京の蒸し暑い夏が大嫌いだから、毎年真夏日が幾日も続くたびに、ああ、空気のすがすがしい信州へ帰りたい、と思わないことはない。しかし、帰郷すれば旨い蕎麦はあっても、M君好みの蕎麦屋がないため、五十の坂を越した今も江都(こうと)の下町にへばりついている。
 ゴミゴミして、殺伐として、空気の汚い東京だが、昔風の蕎麦屋に入って、板わさに天麩羅で清酒をチビチビ飲み、ぼんやりと思索に耽る(M君は哲学者である)。そのうち酒に飽いたら、水切りの良い、コシのあるせいろ蕎麦をつるっとやる。それがこの人を幸福にする。
 ところが、そんなM君の幸福を脅かす事態が進行している。
 一つには、昔ながらの蕎麦屋がドンドン姿を消していること。もう一つは、昼晩通しで営業する店が激減したことである。
 なぜなら、M君は蕎麦屋へ腹を満たすために入るのではない。昼酒を飲みに行くのだ。ところが、近頃のように昼間は二時まで、夕方は五時から営業といった店ばかりになると、とても酒が美味しく飲めない。


 昼酒というものは良い。
 他人が齷齪(あくせく)働いているのを横目に楽しむ悖徳(はいとく)的な快楽もあるが、それ以上に大きな値打ちは、自由で無為な時間をつくりだすことにある。
 晩に酒を飲むのは、当然しなければならないことをするまでであって、太陽の運行のごとく、一日の必然の成り行きに組み込まれている感じがある。
 昼間の酒は違う。
 悖徳的と言ったが、それは大袈裟にしても、やはりどこか天理に悖(もと)るところがあって、それ故にハッキリした自由意志の行使である。わたしなどは肝臓がもう昔のように丈夫でないから、昼間に酒を飲んでしまうと晩酌が旨くなくなり、そのことを考えると二の足を踏む。しかし、何かの行きがかりで白昼飲むと決めてしまったら、もう仕方がない。
 晩は犠牲になるかもしれぬが、昼間は本当にトロトロと酔える。
 このトロトロした時の気分が、わたしには幸福の絶頂のように思われるのだ。そんな時はまわり中が何もかもめでたくて、結構な感じがする。小窓から射し込む午後の光も、暖簾が風に揺れているのも、天麩羅を揚げる香りもめでたく、しかも、今この瞬間めでたいからには、永劫無窮にめでたいような確信がどこか心の片隅に生まれる。わたしはそういう確信を持ってあの世へ鹿島立(かしまだ)ちたい。
 杯を手に茫洋(ぼうよう)と過ごすそんな時間はたとえ十分でも五分でも良いのだが、しかし、こうした気分になるには、ある程度のゆとりが必要だ。一時に店へ入ったのに、「二時までです」と言われたのでは、せわしなくて、がんじがらめで、とても酒中の趣を味わうことはできない。


 鶯谷の「公望荘」は、昼下がりにゆったりと飲める都心の貴重なオアシスだったが、二、三年前急に廃業してしまった。
 ここを贔屓(ひいき)にしていたM君は嘆き悲しんだ。
 店がやめて、建物に「売家」の札がかかった時、
「アア、僕に金があったら、あすこを買って蕎麦屋を続けるのに──」
 と何度も何度もボヤいていた。
 わたしも「公望荘」は好きだったから、近頃、鶯谷で乗り降りして駅前の空地を見るたびに胸が痛む。
 藪、砂場、更科のいわゆる御三家ほどではないが、「公望荘」も七十年ばかり続いた東京の老舗だった。なにしろ、わたしは半世紀前、祖母に連れられて行った記憶がある。
 店は鶯谷駅南口の改札を出ると、すぐ右手にあった。古い昭和の日本家屋で、前栽(せんざい)が植わっており、「御手打天下御免」という看板がかかっていた。
「公望荘」の蕎麦の味は時代によってかなり変遷したが、つねに水準は高く、またつゆが薄めて飲むと上等のスープになる良いつゆだった。昔からの名物は「十割蕎麦」で、これは言うまでもなく、蕎麦粉十割の蕎麦である。ただ、注文してから出て来るまでに時間がかかった。
 わたしはここで飲む時、よく蕎麦寿司と玉子焼きをつまみに取った。
 蕎麦寿司は蕎麦切りを海苔で巻いたもので、真ん中には干瓢(かんぴょう)だの玉子だのを入れる。
 蕎麦をつるつるやりはじめると、もう酒を飲むひまはないから、それはいきおい最後のシメにとっておくことになる。その前にちょっと蕎麦粉で出来たものを食べたい人間にとって、この寿司はありがたい。酒飲みのための大発明だ。けだし西洋のサンドイッチに匹敵する。
「公望荘」の玉子焼きは、どこにでもある黄色い玉子焼きではなくて、たっぷりとダシをきかせ、醤油と砂糖で甘辛く味をつけたものだ。昔の東京風の玉子焼きで、黒ずんでいて見てくれは悪いけれど、わたしの好物である。しかし、こういう玉子焼きを食べられる店は年々減ってゆく。
 それから、店をやめる前の数年間、「公望荘」では板わさに大磯の蒲鉾を使っていて、わたしにはそれに個人的な愛着があった。
 というのは、昔、祖母が怪我をして大磯の病院に長く入院していた時、泊まりがけで見舞いに行くと、いつも駅前の「大内館」という宿屋に泊まった。今はもう建て替えたようだが、当時は畳廊下の古めかしい旅館で、玄関に大きな提灯が下がっていた。そこの夕食に地元の蒲鉾が出て来たのである。
 ちなみに、わたしの叔父が言うには、「公望荘」では一時親子丼が非常に旨かったそうだ。玉葱を使わず、葱と三つ葉を用いる昔風の親子丼で、これにはファンがついており、久しぶりに来たからといって、蕎麦を食わずに親子丼だけ食べて帰る客もいたとか。


 蕎麦屋については、わたしも最近いささかの悲哀を味わっている。
 古い店がなくなってゆくし、東京の蕎麦屋らしい献立も消えてゆくからである。
 たとえば、「あられ蕎麦」。これは汁そばに貝柱を入れるのだが、青柳が高価(たか)くなって、鮨屋でもいわゆる「小柱」が稀少になった御時世では、どうにも致し方ない。
「小田巻蒸し」も、今は知らない人の方が多い。
 これは茶碗蒸しの中にうどんが少しばかり入っているもので、麺類というよりも料理である。
 先程言った叔父が子供の頃、南條家は日本橋に住んでいて、室町の「砂場」がつい目と鼻の先にあった。それで、曾祖母が叔父や叔母のおやつによくせいろ蕎麦を取ってくれたが、たまに懐(ふところ)が温かいと、せいろが小田巻蒸しに変わったという。
 そういえば、原宿に引っ越してから、近所の蕎麦屋に小田巻蒸しがないといって、叔母が憤慨したことがある。思えば、あの料理は当時から流行(はや)らなくなっていたのだろうか。
 わたしが今住んでいる南千住の「満留賀」という蕎麦屋には、小田巻蒸しがおいてあった。この店では茶碗蒸しの碗よりも直径が大きくて平べったい、独特の碗を使った。法事の仕出しなどで需要があるからやっているとのことだったが、御主人が高齢のため、最近閉店してしまった。
 わたしはこういう昔懐かしいものが食べたくなると、室町の「砂場」へ行く。昼酒もゆっくり飲めるし、味も良い。それに、近所をぶらついて、子供の頃を思い出すことも出来る。


「砂場」といえば、今のわが家に近い三ノ輪の「砂場」も、酒飲みにとってありがたい店だ。
 ここには蕎麦味噌もあるし、蕎麦がきもいつも旨い。焼鳥も、冬場に出す鴨南蛮の鴨も上等で、料理屋で食べるものに劣らない。
 わたしは最近、「鴨ぬき」で燗酒を飲むのが冬の楽しみになった。友達と行けばさしつさされつ、独りなら黙々と。そんな時は、ぐい飲みよりおちょこで飲むのが気に入っている──傘のようにパッと開いた、薄い、平たいおちょこが。
 これは酒とともに空気をたくさん吸い込むから旨いのかしらん、などと飲みながら考えている。

 第14回
酒場から酒場へ

今はない酒場、幻の居酒屋……。酒飲みにとって、かつて訪ねた店の面影はいつまでも消えることなく脳裏に刻まれている。思えばここ四半世紀、味のある居酒屋は次々に姿を消してしまった。在りし日の酒場に思いを馳せながら綴る、南條流「酒飲みの履歴書」。

関連書籍

人生はうしろ向きに

プロフィール

南條竹則
1958年東京生まれ。作家。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。学習院大学講師。『酒仙』(新潮社)で第5回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞受賞。他の著書に『吾輩は猫画家である ルイス・ウェイン伝』、『人生はうしろ向きに』(集英社新書)、『ドリトル先生アフリカへ行く』(集英社)、『怪奇三昧 英国恐怖小説の世界』(小学館)、『中華料理秘話 泥鰌地獄と龍虎鳳』(ちくま文庫)など。訳書に『タブスおばあさんと三匹のおはなし』(集英社)など多数。
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