おかげさまで本連載も一年以上の御愛顧をいただき、次回でめでたく完結の運びとなった。そこで今回は、第5回「カクテルの楽しみ」に書ききれなかった「トニーズ・バー」の話をさせていただきたい。
エドマンド・ブランデン(1896-1974)という詩人がいる。
二十世紀の英国を代表する詩人の一人と言っても良いと思うが、日本との縁が深く、戦前・戦後に東京大学で教壇に立った。
十九世紀初めのいわゆるロマン派文学に造詣が深く、「コリンズ・クラシックス」という叢書(そうしょ)の『キーツ詩集』の編者で、わたしはその本を座右の書にしていた。学生の頃、東大の書庫で棚をながめていたら、ブランデンが寄贈した本を何冊か見つけたことがある。そのうちの一冊は、一八一七年に出たキーツ*の『詩集』の初版で、なるほどと納得したものだった。
「トニーズ・バー」の御主人・松下アントニーさんのお父さんは、このブランデンと親しかった。それで、詩人はよくこの店へ寄ったのである。
「トニーズ・バー」に行きはじめたわたしは、細長い店の真ん中辺にある柱に、小さな額がかかっているのに気づいた。それはブランデンがトニーさんのために書いた四行詩で、訳せば、おおむねこんな内容だった。
トニーズ・バーのために、この歌を以て表わそう、
私達の心からの感謝を。
優しい彼がここにいてくれるおかげで
裏通りに遊ぶ喜びもひとしおだ。
トニーさんのお父さんは英国海軍の関係者だったが、やはり相当の教養人だったらしい。アーサー・ウェイリーの訳した「源氏物語」が高い評価を得たのに触発されて、「堤中納言物語」を英訳してみたけれど、あまりに古風な文体だったため、出版社が出してくれなかったという話を聞いている。
トニーさんにはジョニーさんという弟と、ベティーさんというお姉さんがいた。ジョニーさんはやはりこの界隈(かいわい)で「ジョニーズ・バー」という店をやっていたが、お兄さんよりも先に亡くなった。わたしはそちらの店にはついに行ったことがない。
お姉さんは、前回も言った通り、トニーさんとコンビを組んで店をやっていた。「トニーズ・バー」はトニーさんの名人芸もさることながら、このお姉さんの気配りで持っている面もあったと思う。
わたしの知っているベティーさんはもう年輩だったが、彫りの深い顔立ちの、絵に描いたような美人だった。背筋をいつもスッと伸ばしていて高貴な感じだが、口を利くと、ざっくばらんな東京のおかみさんというふうだった。
ベティーさんは懐がそんなに温かくないわたしたちに、ヴァージン・バーボンとかビームス・チョイスのグリーンとか、おトクで美味しい酒を教えてくれた。
わたしといつも一緒に行くO君などは、高価(たか)そうな酒を飲む時、
「これ、いくらですか?」
と遠慮なく訊く。
ベティーさんが言うことには──
「わたしどもも、そういって訊いてくださった方が有難いんですよ。うちはカードが使えないので、たまに値段を知らずに御注文になって、困ってしまうお客さんがいらっしゃいますから」
それは十分想像できる事態だった。なにしろ、このバーにはウイスキーだけで千五百種類以上(もっと多かったかもしれない)の洋酒がある。トニーさんの知らないウイスキーを持って行ったら、勘定がタダになるという伝説があったくらいだ。そういう酒の中には年代物も、珍品もあり、それらは当然値段が高価い。
珍品というほどではないが、ある時、一緒に行った知り合いがバランタインの三十年を一杯頼んだことがある。
ベティーさんは、
「アラマア!」
と驚いて、両腕を胸の前に重ねる仕草をした。その日の勘定は、果たして安くなかった。
また、こんなことがあったのも思い出す。
フランス生まれのわたしの弟が、アメリカの大学を出て日本へ来た時、彼の二十八歳の誕生祝いに「トニーズ・バー」へ連れて行った。
今日はこの弟の誕生日だと言うと、トニーさんは、
「それじゃあ、あなたと同い年(どし)のウイスキーを御馳走しましょう」
そう言って、店のウイスキーの分厚い目録を開いた。
それに載っていた何とかいうスコッチが、ちょうど二十八年前につくられたものだというので、その酒を棚から取り出し、まだ口の開(あ)いていない壜(びん)だったが、惜しげもなく開栓して弟に飲ませてくれた。
「いいな。僕も今度、誕生日に来よう」
とわたしが言ったら、
「南條さんはお金を払わなけりゃダメですよ」
かくのごとく「トニーズ・バー」はウイスキーの宝庫だったが、他の洋酒も良く揃っていた。
じつをいうと、わたしは子供の頃に親のブランデーを盗み飲みして味をおぼえたせいか、蒸留酒も西洋ではフランスの酒が一番好きだ。たまにフランス料理屋と称するところへ行って、リキュールを置いていないと言われた時の索漠たる気持ちは言いようがない。
わたしの場合、トニーさんの店へ来ると、最初にカクテルをもらって、次にウイスキーかバーボンを一、二杯味わい、最後はたいていフランスの酒を飲んだ。
ここにはブランデーはもちろんのこと、マールもカルヴァドスもシャルトルーズも上等の物がある。それらの酒をトニーさんは非常に大事にしていて、上の方の取りにくい棚に並べてあった。
丸ごとの洋梨の入ったポワールのブランデーなど、わたしにはとても注文する勇気がなく、いつも憧れの目でながめていたが、トニーさんが亡くなったあと、ベティーさんが、「召し上がる方が少ないから」といって大特価で飲ませてくれた。
そのベティーさんも亡くなり、店も看板を下ろした。ただ「トニーズ・バー」のあった十仁病院裏のあの空間では、内装など昔のままで、今もべつの人がバーをやっているそうである。
トニーさんは珍しい酒を探しによく香港へ行った。そのせいかもしれないが、中華料理が大好きだった。それで、わたしが杭州(こうしゅう)で満漢全席の宴会を催した時、一緒に食べに行きませんかと誘ったら、来てくれた。
本番の宴会が終わった翌日、わたしたち一行は観光バスで杭州の寺などを見物したが、トニーさんは他の二人の客と車で紹(しょう)興(こう)へ遊びに行った。
一行が泊まったホテルは「西湖国賓館」という、当時としては格式の高いホテルだった。建物は広い庭園の中に散在し、入口には軍服を着た門番がいて、入る者にパスポートか身分証を見せろという。
夜分、紹興から帰って来たトニーさんたちも門番にこれをやられた。ところが、相手は中国語で話しかけてくるから、何を言っているのかわからない。
トニーさんはあわてず騒がず門番に向かって、右手の大きな掌(てのひら)をパッと開いて突き出した。すると、相手は外国人とわかったからか、迫力に負けたのか、そのまま通してくれたそうである。
日本のバーテンダーはある世代まで、終戦後に進駐軍の将校クラブで腕を磨いた人が多かったが、トニーさんもその一人だった。
バーマンの修業の厳しさを感じさせたのは、氷に向かう態度である。
「トニーさんのところなら、水を飲んでも美味い」とO君の先輩が言ったのはあたっている。たしかにその通りで、したがって水割りやロックも美味しかったが、その秘密は氷にあったと思う。
トニーさんはよく助手の氷のかき方が悪いといって、叱った。忙しい時は自分でもアイス・ピックを握り、大きな塊にザッ、ザッと鋭い先端(さき)を突き立てていたが、まるで彫師が木に鑿(のみ)を入れるような気迫があった。
それを見て、わたしは思った──中華料理のコックは火と戦うが、バーテンダーは氷と戦うのだと。
トニーさんは優れた弟子を何人も育てたはずである。お客ですら少し怖かったから、弟子にとってはさぞかし怖い先生だったろうが、辛抱して立派な技術を身につけた人たちがいた。
わたしが直接知っているお弟子さんは、中川さんと三枝(さえぐさ)さんの二人だ。
中川さんは京都に帰って、祇園(ぎおん)の「サンボア」の御主人になった。この人がつくる「オールド・ファッション」は「トニーズ・バー」の味そのままだったが、惜しいことに病気で亡くなってしまった。
三枝さんは銀座で「Tosti」というバーをやっている。
店にはトニーさんの遺影が飾ってあり、昔の思い出話をすると、「トニー・マスターは」と言うのが三枝さんの口癖である。
* ジョン・キーツ。シェリー、ワーズワースなどと共に、英国ロマン派を代表する詩人。
今はない酒場、幻の居酒屋……。酒飲みにとって、かつて訪ねた店の面影はいつまでも消えることなく脳裏に刻まれている。思えばここ四半世紀、味のある居酒屋は次々に姿を消してしまった。在りし日の酒場に思いを馳せながら綴る、南條流「酒飲みの履歴書」。