酒場から酒場へ 第4回

白鳥の歌

南條竹則
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 宮城県の東鳴子温泉というところに、以前わたしが定宿にしている宿屋があった。
 「田中温泉」という大きな宿で、お湯は界隈随一といわれ、わたしはここに幾日も泊まって原稿を書いた。
 神経の 苛立いらだつ東京とちがい、温泉ではいつもぐっすり快眠をむさぼることができるのだが、ある時、夜中に「ギャッギャツ!」という耳障りな声がして、目醒めた。
 猿の声とはどうもちがう。それほど鋭くはない。むしろ鵝鳥がちょうの声に似ているが、いずれにしろ騒がしいことこの上ない。
 翌朝、宿の仲居さんにその話をすると、
「白鳥だよ」
 といわれた。
 鳴子から東鳴子、さらに川渡かわたびまでの一帯は合川あいがわに沿って国道が走り、宿はおおむね国道沿いに並んでいる。その江合川に、毎年冬になると白鳥が渡って来る。かれらが好んで巣をつくるのは、ちょうど鳴子と東鳴子の境目あたりの、あしの茂る水辺で、わたしも何度かその姿を目にしていた。
 読者のみなさんもきっとそうだろうが、わたしも白鳥の声は美しいものとばかり思っていた。
「白鳥の歌」という言葉があるではないか。
 これは、ふだん美しい声で鳴く白鳥が、死ぬ間際には一生一度の妙音を発するという意味だと解していたが、現実を知ると、べつの意味に取りたくなる。ふだんはガアガアやかましく鳴き騒いでいる連中が、死ぬ前のいっときくらいは、きれいな声を出すというのではなかろうか――
 そんなことを考えると同時に、鵝鳥みたいな声で鳴くから、鵝鳥のように美味いだろうとも思った。
 たぶん、この推測はあたっていよう。
 西洋人は昔、白鳥を食べたからである。
 クリスマスの御馳走というとまず七面鳥が思い浮かぶが、七面鳥を食べる習慣はもちろんアメリカからの輸入で、それ以前、ヨーロッパ人は鵝鳥を食べていた。それよりもっと昔にさかのぼると、御馳走は白鳥だった。
 カール・オルフというドイツの作曲家がいる。
 中世の学生歌を歌詞にした「カルミナ・ブラーナ」という愉快な声楽曲を書いていて、その中に、焼いて食われる白鳥の嘆き節があるから、ラテン語の詞をちょっと訳してみよう。

  以前まえ湖に住んでいた
  以前まえは姿も美しい
  白鳥だったわたしだが
  哀れや哀れ
  こんがり焼けて
  今は真っ黒

  しもべは 焼串くしをクルクル回す
  まきがわたしをこんがりと焼く
  今は給仕がテーブルへ
  哀れや哀れ
  こんがり焼けて
  今は真っ黒

  今では皿に寝ているわたし
  空飛ぶことも出来ぬなり
  御馳走を噛む歯が見える
  哀れや哀れ
  こんがり焼けて
  今は真っ黒


 わたしはひょんなことからこの鳥への同情を少し失ったけれど、姿を見る限り、白鳥はやはり美しい。
 鳴子の人々は、毎年渡って来る鳥たちをいつくしんで、以前は餌などもやっていた。鉄砲で撃って食べるような人はけしていなかったはずである。
「スワン」というバーの名前も、この白き客人まろうどたちにちなんでつけたものだ。
 そのバーは、鳴子温泉の東のはずれにあった。わたしが行きはじめた頃は、「湯泉楼」という廃業したホテルの残骸が、すぐ近くに幽霊のごとくぬっそりとそびえていた。
「スワン」はバーというよりも、大箱のクラブのような造りだった。店内にはカウンター席とボックス席があり、ダンスのできる空間が広々ととってある。昔は生バンドが入っていたそうで、戦後の高度成長期の酒場の匂いが残っている。
 店主は白髪の上品なマダムで、わたしが行った最初の頃は、まだバーテンがいた。鳴子の若手芸者だというきれいな女の子が遊びに来たりしていた。
 鳴子温泉は硫黄泉をはじめとして、芒硝ぼうしょう泉、石膏せっこう泉、重曹泉、食塩泉、鉄泉、単純泉と多種多様なお湯が湧く、我が国でもまれな温泉場である。旅館ごとに泉質が異なり、一軒の旅館がしばしば二つも三つも違う源泉を持っている。
 だから、本来湯治場や保養地としても良い環境のはずなのだが、かつては湯治客は東鳴子や川渡へ行き、鳴子自体は歓楽温泉として隆盛をきわめた。
 この町に置屋があり、芸者やお酌が大勢いた頃の「スワン」は、きっと石原裕次郎がドラムでも叩いていそうな、にぎやかな店だったろう。しかし、時は移り、鳴子の夜も静かになるにつれて、この店も落ち着いた雰囲気のバーに変わった。
 芸者さんとチークダンスを踊るような時代だったら、わたしはきっとこの店に入らなかっただろう。
 わたしは人の多いところが嫌いだ。昔は華やかだったけれども、今はひっそりと余生を過ごす老人のような店や旅館が好きなのだ。


「スワン」を発見するまでには、少し経緯いきさつがあった。
 湯治場に滞在していると、わたしのような酒飲みは時々赤提灯が恋しくなる。そんな時、ひなびた東鳴子にはほとんど店がないので、鳴子までタクシーをとばした。
 運転手氏に良い居酒屋へ連れて行ってくれというと、郵便局の並びにある「太閤」という店へ案内された。
「太閤」にはちょっと三國連太郎を思わせる風貌の旦那がいた。この人はかなり腕の良い板前で、冴えた味の さかなをつくってくれた。
「田中温泉」に長逗留ながとうりゅうして原稿を書いているというと、わたしを売れっ子作家か何かと勘違いしたのであろう。旦那は鳴子の良さを世間にアピールしてもらいたいといって、わたしをあちこち連れまわした。宣伝係にまず御当地の魅力を教えるためだ。
 春、山菜の時季になると、このあたりの人もよく山へ採りに行く。中には車で秋田まで遠出をする人もある。
「太閤」の旦那はわたしを屏風岩びょうぶいわというところへ連れて行った。その名の通り、屏風のように横に長い岩場で、コゴミやわらびが採れる。タラの芽もある。採った山菜は「太閤」に持ち帰って天麩羅てんぷらにしたが、モチのタラの芽というものがあることを、この時初めて知った。味が違うのである。
 ネマガリタケの季節になると、旦那の知り合いの家で、細い象牙のようにきれいなタケノコをたくさん食べさせられた。
 旦那はこけしや漆器が好きで、漆職人の工房へも行ったし、温泉神社が所蔵する昔の名人の作を見せてもらったりもした。
 そうして半日遊んだあとは、もちろん酒を飲む。
 わたしたちは「駒」だの「ローマン」だの、鳴子中の酒場をめぐった。そのうちの一軒が「スワン」だったのである。
 わたしは「スワン」がとくに気に入り、何度も一人で行った。この店のバーテンはやがていなくなり、Aさんという中年の女性がマダムの手伝いに入った。カクテルは飲めなくなったが、ここには上等の洋酒が置いてあった。


「太閤」の旦那は、酒を飲みすぎているようだった。
 じつは、わたしが知り合う少し前に夫人に先立たれ、その上、一人息子をバイク事故で亡くしたのだそうである。酔っ払うと、息子さんのことを言いながら涙ぐむことも何度かあった。
 やがて、旦那は身体を壊し、店をたたんでしまった。
 それより一年ほどあとだったと思うが、「スワン」も廃業した。終わりの頃はマダムも病気がちで休んでいることが多く、もっぱらAさんが店に出ていた。
 十月の半ばの鳴子には、紅葉目あての観光客が押し寄せる。
 ある日、昼にタクシーで駅前へ買い物に行ったら、帰りにはもうタクシーがつかまらない。仕方がないので国道を東へ向かってトボトボ歩いてゆくと、「スワン」の前を通りかかった時、ひょっと声をかけられた。
 Aさんだった。
 マダムの体調が悪いので店はとうとう閉め、今ちょうど片づけをしているという。
「ウイスキーがまだ残ってるから、飲んで行きなよ」
 店に入ると、ジョニ黒をコップに並々とついでくれる。
「これがお別れの一杯か――」
 そう思って名残なごりを惜しんでいると、誰か人が来た。Aさんはその人と今すぐどこかへ出かけて行かねばならないという。
 わたしはコップを持って、また国道へ出た。
 東鳴子に向かって、テクテク歩く。
 ジョニ黒をチビチビやりながら江合川の向こうを見れば、紅葉はここらへんも美しい。
 酒は美味く、好い景色もあり、よそ目に見るとノーテンキな人かもしれないが、風流といえなくもない。
 結局、こんなことばかりしていたものだから、わたしはいまだにウダツの上がらぬ一書生なのだ。

 (第4回 了)

 

 第3回
第5回 
酒場から酒場へ

今はない酒場、幻の居酒屋……。酒飲みにとって、かつて訪ねた店の面影はいつまでも消えることなく脳裏に刻まれている。思えばここ四半世紀、味のある居酒屋は次々に姿を消してしまった。在りし日の酒場に思いを馳せながら綴る、南條流「酒飲みの履歴書」。

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プロフィール

南條竹則
1958年東京生まれ。作家。東京大学大学院英語英文学修士課程修了。学習院大学講師。『酒仙』(新潮社)で第5回日本ファンタジーノベル大賞優秀賞受賞。他の著書に『吾輩は猫画家である ルイス・ウェイン伝』、『人生はうしろ向きに』(集英社新書)、『ドリトル先生アフリカへ行く』(集英社)、『怪奇三昧 英国恐怖小説の世界』(小学館)、『中華料理秘話 泥鰌地獄と龍虎鳳』(ちくま文庫)など。訳書に『タブスおばあさんと三匹のおはなし』(集英社)など多数。
 
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