「S山さん」などと書くと、有名な写真家と間違われるといけないから、本名を書かせてもらおう。
柴山さん、通称シバさんというその人は、わたしよりも二つ三つ年上で、知り合った頃は、雑誌のために食べ物の写真などをよく撮っていた。後年、一緒に杭州へ行って満漢全席の料理を撮ってもらったこともあるが、端整で美味しそうな写真だった。
シバさんとは渋谷警察の裏手にあった「天芳」という店で出会ったのだ。
「天芳」の旦那さんは太極拳を、シバさんは少林寺拳法をやっていて、流派はちがうが何かウマが合ったらしく、この店へ行くと、いつもシバさんがいた。青山学院出身のシバさんは、この界隈の店を何軒もわたしに教えてくれた。その一つが「ラインガウ」だった。
この店は現在四谷で営業しているそうだが、まだそちらへ行ったことはない。当時――今から三十年前――は、渋谷の246号線沿いのビルの地下にあった。青山トンネルの少し手前で、並びに戸川昌子の「青い部屋」という店があった。
「ラインガウ」は、名前から察せられるように、ドイツ料理のレストランである。だが、わたしが通ったのは「荒川さんのラインガウ」とでもいうべき特殊な時間帯だった。その時間帯はレストランの営業が終わったあと、夜の十時半から始まる。荒川翠(みどり)さんという女性が一人で切り盛りするワイン・バーに変わったのだ。
食べ物はアイスバイン(豚脛肉の塩漬け)やザワークラウト(発酵キャベツ)、各種のソーセージ、チーズ――こうした簡単な物をつまみに、ビールとドイツワインが飲める。ワインはグラス売りと壜売りがあり、ライン地方、モーゼル地方、フランケン地方の葡萄酒が揃えてあった。甘口の高価なデザートワインもあれば、色の薄い紅ワインもあった。わたしはドイツの紅ワインというものを、ここで初めて飲んだ。
十時半から始まるということは、お客はたいてい二軒目か三軒目に寄るのである。だから、飲食よりも、マダムの荒川さんとおしゃべりをして、静かなひとときを過ごすことが目あてで来る客が多かった。
荒川さんは昭和一桁生まれで、わたしの両親の世代である。上品で、勉強が好きで、曲がったことの嫌いな人だった。彼女の人柄に引かれて集まって来るお客には、東大や國學院、青山学院、洗足学園といった大学の教授も多かったし、NHKが近いからだろう、有名な女優さんの姿も見かけたことがある。店は明け方まで開いているので、電車の始発を待つ人もいたはずである。
今は到底そんな元気もないが、若い頃のわたしは渋谷で年中梯子酒をした。シバさんにこの店を教えてもらってからは、しめくくりか、その一つ手前に、連日のごとく立ち寄った。そして年輩の先生方をつかまえ、生意気なことばかり言っていた記憶がある。思えば、みなさんはずいぶん寛容に接してくれた。
その頃、わたしは一時瓢簞に凝っていた。
瓢簞道楽というものも、今はほとんど滅びてしまった文化の一つだろうが、志賀直哉の小説「清兵衛と瓢簞」に文学的記念碑をとどめている。
この道の愛好家は、立派なフクベを見て楽しむだけではなく、育てるのだ。といっても、畑で栽培するという意味ではない。買ってきた瓢簞はただブラ下げておくだけでなく、毎日必ずつるりつるりと撫でてやる。そうすると次第に光沢が出て来て、十年、二十年もすれば名瓢となる。
つまりは愛情を注ぐことが肝要なのだと心得、わたしは神田の明神様で買った瓢簞をいつも持ち歩いていた。「ラインガウ」へも持って行って、顔見知りの客に見せた。
人々の反応はさまざまだった。
プッと噴き出すお嬢さんもいる。
「中々いい形ですな。このヒョウタンは、置いたら立ちますか?」
と鋭いことを訊く人もいる。
そう言われてやってみると、わたしの瓢簞は坐りが悪く、すぐにコロンと転んでしまった。
「ナニ、これは紐で吊るすものですから、欠点ではないんです」
とわたしは説明した。
「俗だ! この瓢簞は俗っ気が多すぎる。人に媚びるところがある」
知ったかぶりの似而非通人は、そんな世迷い言を言った――わたしの可愛い瓢簞に向かって。
ある時、隣に坐っていた老紳士が「ほう」と素直に関心を示した。
聞いてみると、その紳士は瓢簞について、技術史や文化人類学の観点から研究したことがあったのである。
瓢簞は自然物として珍しい複雑な格好をしている。切り方によってさまざまな形の器ができるため、古代人にとって大変重宝な物だった。それ故に、霊妙な力を持つ存在として、信仰の対象ともなった。
「古代人のトーテムを調べてみますと、瓢簞のトーテムはじつに多いんです。中国の龍よりも多いくらいです」
そう語る紳士は東大農学部の教授だった。もうすぐ定年になるが、大学を退職したら語学学校を始めるのだと言っていらした。一度、このY先生御夫妻と荒川さんと一緒に中華料理を食べに行ったこともあるが、Y先生は定年後まもなく急逝してしまわれた。
「ラインガウ」では、由良君美先生にも何度かお目にかかった。
わたしが由良先生のことを初めて知ったのは、牧神社の出版物によってである。
広告のみで終わった幻の『トマス・ド・クインシー作品集』の共編者としてお名前が出ていたことや、雑誌「牧神」への御寄稿などを見て、わたしの好きな、いわゆる異端の文学に詳しい先生だと知ったのだ。しかも駒場で教えていらっしゃることがわかったので、大学の一、二年生の時、駒場寮の二階にあった研究室へ、よく教えを乞いに行った。
その頃、わたしは友人たちとリチャード・ミドルトンという作家の短篇集を翻訳していた。作品に「ハムレット」からの引用が出て来た時、わたしには訳せなかったので、由良先生に教わりに行った。先生は訳文と何幕何場という出典を書いたメモをあとでくださった。
有名な「由良ゼミ」のことは当時知らなかったが、先生の英語の授業を聴きに行ったことがある。
理系のクラスの授業で、教科書にはC・P・スノウの文章が使われた。スノウはイギリスの物理学者だが小説家でもあり、自然科学者と人文系知識人の大きな溝という問題を提起した『二つの文化』という本の著者である。
由良先生の教科書はそれからの抜粋だったか、同趣旨のべつの文章だったか、おぼえていない。ともかく、そういうものを理系の教材としてお使いになるのは、じつに気が利いていると思った。先生は予習をして来ない学生を激しく叱り、参観しているだけのわたしも、ちょっと怖かった。
そんなわけで、わたしは正規の学生ではないのだが、出来上がったミドルトンの翻訳を(手書きである)さし上げると読んでくださり、そのうちの一篇を白水社から出たアンソロジーに使ってくださったことがある。
由良先生はいつも片手にパイプを持って、美味しそうにふかしておられた。わたしにはその印象が非常に強く、お酒を召し上がるような感じはうけなかった。だから、ある夜遅く、小説を書く若い女性と「ラインガウ」へ来られたのは、意外だった。しかも、かなり聞こし召していらしたのである。
あの当時、由良先生はよく深酒をなさったようで、その後何度か「ラインガウ」でお目にかかった時も、酔っていらした。だから、わたしが愚かなことを言うと、「馬鹿者!」と一喝されたが、しばらくすると、こちらの悪いところを諄々と諭されるのだった。
その晩の先生は、もう足元もおぼつかないほどお酒を召し上がり、一人で店に入って来られた。
「もう今夜はおよしになったら」
と荒川さんが言う。
しかし、先生は、
「シュナップスをください」
と言われる。
御存知の通り、シュナップスは馬鈴薯などでつくるアルコール度数の高いスピリッツだ。ドイツ人はビールで冷えた腹を温めるために、こいつをキュッと飲るという。タバスコの壜くらいの小壜に入ったものをよく見かけるが、「ラインガウ」にもそれが置いてあった。
「先生、およしになって」
荒川さんはきっぱりと言う。
先生はそれでも駄々を捏ねておられるので、わたしは差し出口を利いた。
「ビールを召し上がったらいかがです?」
とたんに、「馬鹿者!」と大喝だ。
「ビールを飲んでからワインを飲んでも良いが、ワインを飲んだあとにビールを飲んではならないのだ!」
先生は結局、水だけ飲んでお帰りになった。
この時のことをあとで人に話したところ、ドイツにこんな諺があるという。
Wein auf Bier, das rat’ ich dir.
Bier auf Wein, das lass sein.
ビールのあとにワインは勧める
ワインのあとにビールはやめとけ
あれほど酔って人を叱るにも、ちゃんと典拠のある言葉を用いられる――やはり偉い先生だったと今でも思っている。
(第6回 了)
今はない酒場、幻の居酒屋……。酒飲みにとって、かつて訪ねた店の面影はいつまでも消えることなく脳裏に刻まれている。思えばここ四半世紀、味のある居酒屋は次々に姿を消してしまった。在りし日の酒場に思いを馳せながら綴る、南條流「酒飲みの履歴書」。