21世紀のテクノフォビア 第4回

鉄道嫌いの時代(前編)

速水健朗

■不潔な都市と通勤の時代

19世紀半ばのイギリスの多くの工業都市は、深刻な衛生問題にさらされていた。工場とスラム地域が都市部に増え、労働者たちは狭い部屋に詰め込まれて生活を送っていた。

また、街中が馬糞で埋め尽くされていた。馬車が主要な交通手段なのだからやむを得ない。鉄道が開通して働く人は郊外に居を移し、最悪な都市から脱出が可能になった。鉄道が通勤を可能にした。通勤は鉄道が生み出した新しい生活様式であり、自由で新しい働き方だった。

当初の鉄道運賃は高く、都市近郊に住み始めた人種は、貿易商や建築家、株式の仲買人といった人々だったという。工場労働者がすぐに通勤を始めたわけではないが、やがて運賃が低価格化すると通勤も大衆化していった。

キツネ猟の猟場がなくなるという貴族からの反対もあった。だが逆に鉄道が普及すると、貴族たちは鉄道で猟場まで出かけて行くようにもなった。必ずしも家の近くの猟場がある貴族だけではないので、彼らの心配は杞憂だったのである。

■スピードの発見と”怯え”

イギリスの唯美主義者ジョン・ラスキンは、「鉄道がもたらすスピードや便利さが人々から人間性を奪っていく」(前掲書)と鉄道に異を唱え、利用すべきでないと主張した。

「そもそも鉄道旅行のシステムは時間のない人のためにできているので、当面はみじめで、つまらないものである。しないでよいのなら、わざわざそんな旅をしたい者はいないだろう<中略>世界を移動する力を得るために、人間性の高貴な特質が捨てられてしまうのだ」と。

馬車での移動にこそ旅の本質がある。こうした声が上がるのも想像に難くない。また、新しいテクノロジーの登場に”人間性を奪うもの”との反論は珍しくない。便利になったことを咎めるのもよく耳にする。一方で興味深いのは、スピードが人間性を奪うというくだりだろう。誕生してすぐの鉄道は、馬車と大差ない速度で走っていたが、すぐに時速30マイル(48キロメートル)で走行するようになる。この速度では、人は呼吸ができなくなるのではないかということも心配された。高いところに住むことで、人はおかしくなるといった議論が高層建築の時代に生まれたり、携帯電話の高周波が脳に影響を与えるのではないかと言ったような議論が出てきたりするのと同様、日常的にスピードにさらされる状態への不安を人は想像したのだ。

スピードをいかに絵に収めるか。画家のジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーの作品「雨、蒸気、速度――グレートウェスタン・鉄道」(1944年)は、鉄道のスピードを表現するために新しい技法を習得する。「あいまいな背景のなかに一部はっきりとしたところ描く」*2。つまり、背景は霞んでいて機関車の煙突だけがはっきり描写される。スピードを表現するために、写実を捨てて得た新たな表現手段である。

■鉄道バブルの崩壊

1843年の時点では鉄道会社だけで70社を超えていた。そんなバブルも1846年頃を頂点にはじける。無軌道に膨れ上がった鉄道計画も整理統合された。

そして、鉄道会社に資金を投じていた貴族や中産階級たちは投資で失敗した。長い目で見れば、貴族階級は没落していくが、投資に失敗した貴族は、それより前に自らの首を絞めてしまった。

鉄道に反対する人々は、百人百様だった。テクノロジーが普及して日常に馴染むまでは、あらゆる軋轢が起きる。鉄道はあらゆる日常のルールを逆転させていった。特に、階級によってルール付けられていた社会のあらゆることが鉄道の普及とともに揺らいでいったのだ。

*1『通勤の社会史』イアン・ゲートリー著、 黒川由美訳

*2『アート&デザイン表現史 1800s〜2000s』松田行正

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21世紀のテクノフォビア

20年前は「ゲーム脳」、今は「スマホ脳」。これらの流行語に象徴されるように、あたらしい技術やメディアが浸透する過程では多くの批判が噴出する。あるいは生活を便利なはずの最新機器の使いづらさに、我々は日々悩まされている。 なぜ私たちは新しいテクノロジーが生まれると、それに振り回され、挙句、恐れてしまうのか。消費文化について執筆活動を続けてきたライターの速水健朗が、「テクノフォビア」=「機械ぎらい」をキーワードに、人間とテクノロジーの関係を分析する。

プロフィール

速水健朗

(はやみずけんろう)
ライター・編集者。ラーメンやショッピングモールなどの歴史から現代の消費社会について執筆する。おもな著書に『ラーメンと愛国』(講談社現代新書)『1995年』(ちくま新書)『東京どこに住む?』『フード左翼とフード右翼』(朝日新書)などがある。

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