21世紀のテクノフォビア 第5回

鉄道嫌いの時代(後編)

速水健朗

■日本の鉄道建設も反対派が多数

日本の鉄道は、2022年で150周年を迎えた。明治政府は新政府誕生の直後に鉄道の開通を打ち出すのだが、大勢は反対論、時期尚早論に占められた。理由は、財政の圧迫。国内の軍備増強が先だという意見に西郷隆盛や黒田清隆。推進派は、大隈重信と伊藤博文。当初は、大久保利通も反対派だったが、実物に試乗して意見を変えたという。

保守的な官僚からは「神国である日本に卑しい外国の機械文明を持ちこむことなどはもってのほか」*3 という反対の声が上がっている。まだ儒教の影響が強かったのだ。

「反対と妨害」の立場を鮮明にしたのは防衛を司る兵部省。品川八ツ島下の施設の用地引き渡しを拒み、埋め立ての作業が余儀なくされた。新橋〜横浜間の開通までの出来事。政府はそれでも1872年には、その区間の開通にこぎつけた。のちの民間出資による鉄道敷設計画が続々生まれていくことを期待しても大博打だった。

■鉄道の事故はなぜ陰惨なのか

鉄道での主人公の自死を描いたのはロシアのレフ・トルストイの『アンナ・カレーニナ』(1877年刊行)だ。この小説のクライマックスでは、「あそこよ、ちょうど真ん中のところへ、そうすればあたしはあのひとを罰せるし、誰からも、自分自身からものがれられるのだ」(岩波文庫『アンナ・カレーニナ』下P410)と自らの体を線路にさらけ出し、自死を選ぶ場面が登場する。鉄道による死は、なぜ暗く陰惨な印象をもたらすのか。

鉄道普及初期にはイギリスでもそれ以外の国でも、大規模な鉄道事故が多く起きている。「列車事故の記録は人を惹きつけてやまないところがあり、マスコミもそのくらい魅力を煽り、生々しい災難のぞっとするような記事を掲載した」*2 のだという。船の沈没事故や炭鉱の陥落事故に比べると、新聞を読む読者にとっても身近で自分が巻き込まれてもおかしくないのが鉄道事故だからだ。

映画のシーンでも鉄道事故は暗くて陰惨な場面として描かれる。

ポン・ジュノ監督の映画『殺人の追憶』(2003年)は、2人の刑事が連続殺人事件の犯人を追う物語。無実の容疑者を刑事が追い詰め、鉄道で事故死する場面で列車の車両が途切れることなく長く続いていく場面がある。連続殺人事件の混迷を予言するかのように、延々と続く車両は不吉な雰囲気とともに描かれていた。ポン・ジュノは、『スノー・ピアサー』でも長い列車を登場させている。

延々と続く車両のシーンが印象的なのは、ウォン・カーウァイの『グランドマスター』(2013年)。抗日戦争の混乱期にある中国で、南北カンフー界の統一が持ち上がる。その目論見は決裂。お互いの頭領同士が決闘で勝負をつける。チャン・ツィイーとマックス・チャンによるアクションシーン。奉天駅のプラットホーム。うしろには切れ目のない長い列車が走り続けている。日本が権益を持っていた南満州鉄道の車両。帝国主義の台頭を背景に、頭領同士が闘っている図。

鉄道とその事故はいろいろなものを想起させる。誰かの人生、混迷の時代、帝国主義、機械文明そのもの。線路は、そもそも別のどこかにつながっているもの。線路の先に人は何かを見ようとしてきたのだ。

*1『世界鉄道史ーー血と鉄と金の世界変革』クリスティアン・ウォルマー、 安原和見、須川綾子訳

*2『通勤の社会史』イアン・ゲートリー著、 黒川由美訳

*3『交通・運輸の発達と技術革新:歴史的考察』原田勝正

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21世紀のテクノフォビア

20年前は「ゲーム脳」、今は「スマホ脳」。これらの流行語に象徴されるように、あたらしい技術やメディアが浸透する過程では多くの批判が噴出する。あるいは生活を便利なはずの最新機器の使いづらさに、我々は日々悩まされている。 なぜ私たちは新しいテクノロジーが生まれると、それに振り回され、挙句、恐れてしまうのか。消費文化について執筆活動を続けてきたライターの速水健朗が、「テクノフォビア」=「機械ぎらい」をキーワードに、人間とテクノロジーの関係を分析する。

プロフィール

速水健朗

(はやみずけんろう)
ライター・編集者。ラーメンやショッピングモールなどの歴史から現代の消費社会について執筆する。おもな著書に『ラーメンと愛国』(講談社現代新書)『1995年』(ちくま新書)『東京どこに住む?』『フード左翼とフード右翼』(朝日新書)などがある。

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鉄道嫌いの時代(後編)