20年前は「ゲーム脳」、今は「スマホ脳」。これらの流行語に象徴されるように、あたらしい技術やメディアが浸透する過程では多くの批判が噴出する。あるいは生活を便利なはずの最新機器の使いづらさに、我々は日々悩まされている。 なぜ私たちは新しいテクノロジーが生まれると、それに振り回され、挙句、恐れてしまうのか。消費文化について執筆活動を続けてきたライターの速水健朗が、「テクノフォビア」=「機械ぎらい」をキーワードに、人間とテクノロジーの関係を分析する。
■人間の側が機械に追いつくべき
私たちの生活は、今やテクノロジーなしでは語れない。しかし、どんなに世の中が進化しても、機械音痴という人種は絶滅しない。むしろ、その存在はテクノロジーの進化によって、ますます際立つばかりだ。
「機械音痴」は、「方向音痴」や「運動音痴」と同様、「音痴」から派生した言葉だ。音楽や運動が苦手な人は、学校の授業では苦い思いをしたかもしれないが、大人になれば、そうした苦痛からは解放される。社会では音楽も運動も強制されないからだ。しかし、機械音痴はそうはいかない。情報テクノロジーが避けて通れないものとなった現代社会では、苦手でも使わざるを得ない場面が多い。
最近では、道路案内図や駅名表示の看板が減っている。スマートフォンやカーナビなどの普及により、物理的な表示を省略しても困らないという前提があるからだ。情報過多の時代にあって、物理的なサインを減らすのは合理的ではある。だが、スマホがなければ、自分が今どこの駅にいるのかすらわからない、という事態も起こりうる。
機械音痴の中には、仕組みを理解できていない者、機械の操作に勘が働かないタイプ、端から苦手だと思い込んでいるタイプ、説明書を読むことが苦手なタイプなどがいる。苦手な理由や度合いは人によって違う。
現代では「リスキリング」という言葉が普及しつつある。今のところは政策提言レベルの議論が中心だが、やがて本格的に導入される可能性もあるだろう。
リスキリングは、足りないデジタルスキルを学び直すという発想に基づいている。つまり、機械音痴を克服させようという動きとも言える。筆者としては、機械の側こそが人間に歩み寄るべきだと考えるが、世間はもはやそれを常識とは見なさなくなっている。
1990年代半ばから、「デジタル・デバイド(情報格差)」という言葉が使われ始めた。最初はインターネットやコンピューターへのアクセス環境の格差を意味していたが、インフラが整うと、今度はそれを「使いこなせるかどうか」というリテラシーの差を示す言葉に変わっていった。そして現在、ついに「人間の側を矯正する」リスキリングの段階にたどり着いたというわけだ。
まるで「アキレスと亀」のような状況だ。テクノロジーというアキレスが追いつき、追い越した後、今度は亀=人間がアキレスに追いつこうとする構図である。本来のアキレスと亀であれば、アキレスは亀に追いつけないのだが、この現実のレースでは、すでに亀を機械が抜いてしまった。これから差は広がる一方だが、それでも「飽くなきリスキリング」で追いつけばいいということになるのだろう。
リスキリングが注目される背景には、日本の低い労働生産性の問題もある。OECD諸国の中でも日本は生産性が低く、かつて得意としたデジタル分野でも後れを取るようになって久しい。そこで、日本人全体のデジタルスキルを底上げする必要があるとされているのだ。
個人の労働者のスキルアップが必要な話は、そのとおり。個々に努力して労働市場での自分の価値を上げていけばいい。「リスキリング」もこのレベルで語られるのであれば問題はない。しかし、それを国家主導の再教育プログラムとして進めるのは、まったく別の話である。
そもそも、労働者にエクセルを教えるだけで済む話なのか、プログラミングまで習得させるべきなのか。その線引きは不明確だ。現在出版されているリスキリング関連の書籍や記事の多くは、具体的な内容に踏み込んでいない。
ちなみにエクセルは、必要に迫られれば誰でも覚える。労働者全体がエクセルをマスターしても、日本の労働生産性に直接寄与するとは思えない。全員にプログラミングを教えるという考えも、むしろ時代遅れだ。
1970年代、日本の大企業では「大型計算機室」や「計算センター」が登場し、当時の管理職たちはCOBOLやFORTRANの講習会に通わされたという。将来のビジネスに不可欠だと考えられていたからだ。だが、今のリスキリングとそれにどれほどの違いがあるのだろうか。過去50年間うまくいかなかった取り組みに、名前だけ変えて再挑戦しても、成功するとは思えない。
■機械音痴に優しかった時代
かつての社会は、機械音痴にやさしかった。たとえば、ビデオデッキの予約録画機能は、かなり手間がかかるため、苦手意識を持つ人も少なくなかった。
VHSビデオデッキで初めて予約タイマー機能が搭載されたのは、1980年に発売されたマックロードL35(NV-3500)である。しかし、人々が気軽にテレビドラマを録画して観るようになったのは、1980年代半ばのことだろう。
当初、ビデオテープの価格は高く、ドラマを録画すること自体が贅沢だった。だが、1980年代半ば以降、カセットテープの価格が下がり、録画はより日常的な行為になった。ちょうどその頃、トレンディドラマがブームとなり、録画需要も高まった。
当時の予約タイマー機能は、非常に原始的だった。録画開始までの時間を手動で設定し、録画時間とチャンネルを選び、タイマーボタンを押すと一度電源が切れ、その後はテレビを視聴できなくなる。連続録画もできず、24時間以内の予約しか対応していなかった。
やがて、時刻を直接入力するタイプの予約機能が登場するが、それでも停電や電源オフで設定がリセットされるなど、不安定だった。全ての条件が整ったときにしか録画は成功しなかった。さらに、プロ野球中継が延長されれば、録画は台無しになる。
つまり、機械音痴でなくても予約録画は難しかった。ビデオデッキは、難解な家電として一般に認識された最初の機器の一つだ。録画を家族や友人に頼んでいた人も多かっただろう。ただし、本当に観たい番組なら、放送時間に家へ帰って観れば済む話でもあった。
当時の予約タイマー機能は貧弱かつ原始的だった。録画開始が何時間後かを設定し、録画時間を設定し、チャンネルを合わせて、タイマーボタンを押すと、いったん電源が落ち、その後テレビは見られなくなった。連続予約もできないし、放送前の24時間以内しか録画ができなかった。その後、時刻設定を入力しての予約録画が発売されるが、それも停電や電源がオフになるたびに時刻の設定はリセットされた。これらの条件がすべてはまったときにしかビデオ録画は成功しない。いや、それらがうまくいってもプロ野球中継が延長すると台無しになる。
つまり機械音痴でなくとも、タイマー予約録画は難しいものだった。難しい機械が世の中に登場した最初の1つがビデオデッキ。家族や友だちに頼んで録画をしてもらっていたというケースも少なくなかっただろう。ただ、どうしても見たいドラマであれば、それが始まる前の時間に家に帰って見ればいいだけのこと。
ビデオデッキの登場と前後して、家庭向けの情報機器の黎明期が始まる。ワープロ、当時はゲーム用としか見られていなかったパソコン、留守番電話機能付きのコードレス電話、携帯電話、衛星放送のアンテナとチューナー、そしてカーナビなどが次々登場。
オフィスに目を移せば、オフィスオートメーションの呼び声とともに、電子機器の類いが登場した。ポケベル、コピー機、ファックス。これらは使い方が難しいと言うこともなかったがワープロは少し別のところにいた。ワープロの使い方は、社会人としてはマスターしておくべきだという風潮も生まれ、ワープロを扱う資格認定も始まった。技術に労働者が追いつく必要性、つまりリスキリング的な発想は,この辺りから始まっていたのかもしれない。
とはいえ、こうした機器は必ずしも必要不可欠というわけではなかった。むしろ、ワープロやコンピューターは一部の愛好者が使うものにすぎず、使えないからといって社会的に困るようなことはなかった。
■機械が得意でお節介な人々はどこに消えたか
1980年代と比べて、現代のテクノロジーはもはや「マニア向け」としてスルーできるものではなくなっている。
かつては、機械音痴とは対極にある「機械好き」の人たちがいた。新しい機械に詳しいだけでなく、他人の世話を焼くのが好きで、親切でまめな人が多かった。たとえば、身近にテレビの買い替えを考えている人がいると、その人たちの出番だった。新製品の傾向からおすすめ機種まで一通りの知識を持ち、相談相手として頼りにされた。
ちなみに、かつてのテレビの設置は今よりもはるかに複雑だった。アンテナ線(同軸ケーブル)の処理、衛星アンテナやビデオデッキとの配線、チャンネル設定など、ある程度の知識が必要だった。場合によっては、そうした機械好きの知人が秋葉原まで付き添い、購入から配線、設定まで一通り面倒を見てくれることもあった。こうした“機械に強い人”は、職場や親戚に一人はいたものだ。
バブル時代を象徴する映画『私をスキーに連れてって』に登場する小杉正明(沖田浩之が演じた)は、まさにそのような世話好きな機械オタクの代表だ。彼は常に防水カメラを持ち歩き、「とりあえず」と言って仲間の写真を撮る。複数の車でスキー場に向かう際は、無線機を搭載して仲間同士が連絡を取り合えるようにしていた。これは、まだ携帯電話が普及していなかった時代の工夫であり、物語の伏線にもなっている。
当時の機械好きは概ね、ハードウェアの仕組みに精通していた人々だ。テクノロジーといえば機械=ハードであり、その構造や原理を理解していることが「使いこなす」ことに直結している。
たとえば自動車も、ギアやレバー、ブレーキやクラッチといった物理的な装置で構成されており、それぞれの機構を理解することが運転がうまい人の第一条件だった。仕組みを知っていることは、機械についての勘が働く最低条件でもある。
だがオートマ車の時代になると、個々の機械の役割を知らなくとも自動車を運転をできるようになる。詳しい人でなくとも、扱うことのできる機械。それもテクノロジーが進むことで必ず起きることのひとつだ。
機械の中身は、時代とともに複雑になる。しかし一方で、操作方法は簡略化されてきた。たとえば、オートマチック車を運転する際には、もはやクラッチやギアの構造を知る必要はない。現代のユーザーの多くは、機械の内部がどうなっているか想像すらしないだろう。こうした状態をブラックボックス化ともいう。
機械好きの人々が活躍した時代は、まだ機械の要素の大半を占めるのがハードウェアだった時代である。だが現代の機械は、ソフトウェアの部分が占める割合が大きくなっている。
自動車でいえばエンジンの制御もサスペンションの操作もソフトウェアで調整される時代になった。その時代には、あとからソフトウェアをアップデートすることで、新機能を追加したり、機械の不具合でリコールが発生したとしても、スマホのアップデートのように、ネットにつなげるだけで故障が直ったりするようになる。
かつての機械好きの知識は、ソフトウェア中心の時代に、相対的に価値を持たなくなった。それ故、彼らの活躍はかつてほどは光らなくなったのだ。
■ジェームズ・ボンドすら機械音痴になっている
かつて機械に強かったはずの人物が、いつの間にか機械音痴のように振る舞う。たとえば、ジェームズ・ボンドがそうだ。以前は銃や車、秘密装備を自在に使いこなしていたボンドが、機械への理解不足をにじませるようになったのは、ダニエル・クレイグが演じる2006年以降のシリーズにおいてである。
シリーズ最終作『007 ノー・タイム・トゥ・ダイ』では、装備担当のエンジニアQが、ボンドにある秘密兵器を手渡す。電磁パルスを発生させ、周囲の回路をショートさせる腕時計型のデバイスだ。だが、映画を観る観客にも、それがどういった道具なのか、すぐには理解できない。開発者であるQも詳しい説明を省き、最低限の情報しか伝えない。
ボンド自身も、観客と同じ立場である。「これは何だ?」とは尋ねず、代わりに「どれだけの強さがある?」と質問する。少しとんちんかんな質問に思える。Qの返答は「テストが不十分で……」という曖昧なもの。つまり、素人には理解しがたい複雑な代物であり、Q自身も説明を放棄しているようにも見える。
Qがボンドに渡すのは、いつも開発段階の試作品のようなものである。市販品でもなければ使い勝手をを考慮したものでもない。かつての秘密装備、腕時計から電動ノコギリが飛び出したり、車のタイヤにスパイクが出現したりといった装置は、いかにも“スパイガジェット”らしい派手さがあったが、現代の観客はそれを「最先端」とは見なさなくなっている。
ボンドは、敵地に潜入する前にナノマシン(体内に注入され、情報を送る微小装置)を体内に埋め込んでいた。また、彼が敵基地の最下層に仕掛けた3Dセンサー装置と連動し、彼の位置情報は遠隔地にいるQによってリアルタイムで把握されている。
ボンド自身は、自分の腕時計型デバイスの使い道も操作方法も知らない。しかし、それが起動すべきタイミングやシチュエーションはQが把握しており、遠隔操作でスイッチを入れる。つまり、ボンドは「知る必要のない情報」をあえて尋ねなかっただけなのだ。
この一連の描写は、現代におけるテクノロジーとの付き合い方を象徴している。あまりに複雑化した機械は、もはや素人の手には負えない。開発者も、すべての機能をユーザーに理解させようとはしていない。そんな時代において、ジェームズ・ボンドですら、機械音痴と表現されかねないのである。
■料理研究家の小林カツ代の機械音痴
料理研究家・小林カツ代は機械が苦手だった。彼女は「オンとオフしかないミキサーが限界という人」*で、多機能な調理器具には手を出さなかったという。
とはいえ、小林は戦後の高度経済成長期の1950年代末に専業主婦となり、家庭に家電が入り始めた最初の世代にあたる。
出世作となったレシピ「わが道をゆくワンタン」は、具と皮を別々に調理するという独創的な方法で、包む手間を省き、家庭料理に新しい風を吹き込んだ。彼女の人気は、この“手間を減らす”発想によるところが大きい。現代的で合理的が彼女の持ち味であり、支持された理由でもある。
現代的な料理において、機械が導入されるのも手間の軽減のためだ。
そもそも、戦後の台所の変革は、電気炊飯器という機械の登場から始まった。それ以前、米を炊く場所は土間(屋内の土足スペース)であり、強い火力が必要な炊飯は、室内では困難だった。冬の朝の土間は極寒だった。
1955年に登場した電気炊飯器は、屋内での安全な炊飯が可能になり、サイズも小型で、当時増加していた団地の台所にもすんなり収まった。
ただし、初期の炊飯器には保温機能がなく、炊き上がっても自動でスイッチが切れることはなかった。手動でオフにし、保温用のジャーにご飯を移す必要があった。やがて炊飯と保温が一体化した電子炊飯ジャーが登場する。
その転換点は1972年、三菱電機が発売した「ふた役さん」。小林の長男・ケンタロウが生まれた年でもある。多忙を極めていた小林は、家事の一部をケンタロウに任せており、小学生の彼が夕方に帰宅して米をとぐことが日課だった。タイマーも保温もない炊飯器では、それがなければ夕食に間に合わないのだ。
ケンタロウの小学生時代、つまり1980年前後には、すでに一般家庭には保温機能付き炊飯器が普及していた。それでも小林は頑なにシンプルな道具を使い続けた。「ボタンが2つ以上あるとお手上げ」という小林らしいエピソードである。
彼女が求めたのは、簡潔で明快な操作だった。機能を追加するたびにボタンが増えていくのでは、いつか誰にも使えなくなる。調理は、ボタン操作のスキル競争ではない。プロが使う道具とは、本来、多機能よりも「単機能で洗練されたもの」である。小林の信念は、まさにそこにあった。
*『小林カツ代伝 私が死んでもレシピは残る』中原一歩
■マイコン機能が登場した頃
江口寿史が80年代後半に連載していたエッセイ漫画『江口寿史のなんとかなるでショ!』。その最終回のタイトルは「SWITCH OFF」だった。
締め切りを終えた作家が、部屋の機器のスイッチを次々とオフにしていく。ステレオ、デスクライト、室内灯──。その描写をきっかけに、さまざまな「スイッチ・オフ」の場面が展開されていく。
テレビの画面では、殺人鬼がチェーンソーで女性を切り裂いた後、スイッチを「ヴィン……プスン」と切る。テレビを見ていた男がリモコンでテレビを消すとブラウン管の画面は「プツン」と音を立てて消える。ベッドで休む女性は、寝る前に枕元の照明を「パチン」と消す。バイブレーター、ウォークマン、ドライヤー、そして左右に倒すタイプの室内灯。どれもスイッチ1つで「パチッ」と操作できる時代だった。少なくとも、1980年代までは。
機械が単純だったのは、当時、まだ家庭用の機器にはコンピューター制御がほとんど導入されていなかったからだ。装置が単純だったため、電源のオン/オフも即時かつ物理的に完結していた。
やがて、装置にコンピューター基板が搭載されるようになると、事情は変わる。急な大電流を防ぐためにコンデンサーが使われ、オン/オフの操作にも繊細さが求められるようになる。「長押し」という操作が一般化したのも、こうした背景による。
1980年代、家電製品には「マイコン制御」というキーワードが広がった。同時に、操作パネルにボタンが増え始めた時代でもある。コンピューター制御により、加熱や蒸らしなどの細かな工程が可能になったほか、内釜の入れ忘れすら知らせてくれるようになった。
たとえば、タイガーのマイコン炊飯器「炊きたて」。1985年のCMでは、女優の古手川祐子が「ねえねえ、声が出るのよ」と言いながら炊飯ボタンを押すと、「ピピッ」という音に続いて「内釜がセットされていません」という音声案内が流れる。慌てて古手川が米を入れた内釜をセットし直すというものだった。
このように、「炊飯」ボタンひとつとっても、かつてのような単純なスイッチではなく、複数の機能を統合した“インターフェース”になっていた。
江口寿史の『SWITCH OFF』のラストでは、巨大なキノコ雲が見開きで描かれ、廃墟と化した渋谷パルコのコマへとつながる。すべてのスイッチをオフにした結果として──人類の文明そのものがスイッチひとつで終わってしまうという、皮肉と風刺の効いた締めくくりだった。
■炊飯器のボタンはなぜ増えるのか
機械のボタンが増えていることを確認したければ、手近な機器を見ればいい。たとえば、現代の炊飯器の前面パネル。
まず「炊飯」「保温」といった基本的なボタンが並び、「炊飯」を二度押しすることで「無洗米モード」に切り替わるという、時代を反映した機能もある。「予約」ボタンと、それに連動する「時」「分」ボタン。さらに「取り消し」ボタンも用意されている。操作ミスや設定変更に対応するため、キャンセルやリセットの機能が求められるようになったのだ。
「メニュー」ボタンを押せば、「エコ炊き」「白米」「極うま」「冷凍ご飯」「玄米」「おかゆ」「調理」「ケーキ」など、多彩なモードが選べる。だが、これらすべてが日常的に使われているわけではない。
ちなみに、もっとも大きなボタンは「フタの開閉用」。バネで跳ね上がる押しボタン式が多いが、取っ手を引いて開けるタイプもある。操作ボタンが多すぎるため、物理的に目立たせる必要があるのだ。
SF作家フィリップ・K・ディックは、機械と人間の関係性をテーマに数多くの作品を残した。彼が描くのは、機械の増殖ではなく、サービスの増大である。「われわれはあなたにサーヴィスを提供いたします、その代わりわれわれの条件を受諾し、使用法をすべて守っていただきます」*。人間は、自らの選択で自由を失い、機械の支配を選択する。そうした構図が、ディック的世界観の核心である。
機械のボタンが増えるのはいかにもディックらしい現象だ。デザイナーやエンジニアはボタンを減らしたいと考えている。だが、商品開発や営業部門は、機能の多さをウリにしたがる。店頭で比較されるとき、ボタンの数が多いほうが高性能と見なされやすい。メーカーもユーザーも、自らの選択でサービスを享受し、次第にボタンの多い機械に囲まれていく。
フィリップ・K・ディックが描いた「過剰なサービスが人間を縛る」という世界観は、まさにボタンの増殖によって現実化しているのだ。
ディックの作家としての全盛期は、1960〜70年代。消費社会批判も、この頃に生まれ、もてはやされる。フランスの批評家であるジャン・ボードリヤールは1970年に『消費社会の神話と構造』を刊行した。
本書でボードリヤールは、変速のワイパーを「差異化の道具」、つまりユーザーは必要としないのに、マーケティング的に産み出された余計な機能だと批判した。
これは車に乗る人であれば誰でも間違いだとわかる。激しい雨の中での高速道路を走行するときには、窓にかかる雨の量は、街中を40キロで走っているときのそれとは違う。ワイパーは2段階以上必要である。ボードリヤールは、高速道路を運転しなかったのだろう。
ちなみに、自動車の余計な機能で言えば、もっとも余計なボタンの典型は、スポーツモードボタンだろう。高グレードの車種によく見られ、「ダイナミックモード」「スコーピオンモード」など名前も派手だが、その役割は加速時のエンジン音を大きくし、性能を一時的に高めること。だが、それは一方で、通常モードがわざと性能を抑えているという印象すら持ってしまう。所有者としては、まずメーカーの姿勢に疑問を感じてしまう。
買って間もない頃は試してみたくなるが、結局は燃費や乗り心地を優先して使わなくなる。存在意義の薄いボタンがまたひとつ増えていた。
*『壊れゆく世界の哲学 フィリップ・K・ディック論』ダヴィッド・ラプシャード著、堀千晶訳
■スティーブ・ジョブズが考えた理想のマウスの形
スティーブ・ジョブズには、生前から多くの“神話”がつきまとっていたが、その中でも特に有名なのが、機械の「ボタン」にまつわる逸話である。
1979年、ジョブズはゼロックスのパロアルト研究所を訪問し、Altoというマシンのデモンストレーションを見学した。Altoは、現代のコンピューターが備える「ディスプレイ・キーボード・マウス」のインターフェースを初めて統合したマシンだった。ただし、それは市販目的ではなく、研究機関や社内用のプロトタイプにすぎなかった。
このAltoを見たジョブズは、パーソナル・コンピューターの未来形を確信した。
とりわけ彼が注目したのが、マウスだ。GUI(グラフィカル・ユーザー・インターフェース)、つまり感覚的な操作でコンピューターを使う上で、重要なポインティングデバイスの存在をそこで初めて知ったのだ。Altoのマウスには3つのボタンが搭載されていたが、ジョブズはアップルのエンジニア、ディーン・ハーヴィーに対し、アップル版のマウスの開発を指示した。そして、そのマウスのボタンはひとつでいいという指示を出している。
Appleは1983年に「Lisa」というコンピューターにマウスを採用するが、成功が広く知られるようになるのは、その翌年に登場したマッキントッシュからである。Mac用のマウスはボタンがひとつだった。
ほぼ同時期、マイクロソフトのビル・ゲイツもゼロックスを訪れており、やはりマウスの重要性に気づいていた。1985年、マイクロソフトはMS-DOS用のマウスを発売するが、そのボタンはふたつだった。
マウスの基本操作は、誰でも直感的に理解できる。動かせば画面上の矢印が動き、ボタンを押せば選択できる。しかし、複数のボタンがあれば、初心者は混乱する。だからこそジョブズは、ボタンを1つにした。ゲイツも、3は多いと感じたのだろう。だが機械の操作には、ある程度の複雑さも必要だ。そう思ったのか、アップルのマウスとの差異を作りたかったのか、ボタンはふたつを選んだ。
通常、ものづくりや製品デザインの分野で伝説的に語られるのは、アップルの製品であり、マイクロソフトのデザインの功績はあまり耳にする機会はない。とはいえ、1ボタンが「正解」だったわけではない。実際、アップルは2005年に2ボタン機能を持つマウス(Mighty Mouse)を正式に導入している。長い年月を経て、「2ボタン派」が結果的に優位になったとも言える。
■初代のiMacの取り出しボタン
1984年に発売された初代マッキントッシュには、フロッピーディスクを取り出すための「イジェクトボタン」が存在しなかった。
これは一見、不便な設計だった。当時のMacは頻繁にフリーズすることがあり、ディスクが入ったままだと取り出せない。その場合、ディスクスロット脇の小さな穴に針金を差し込んで物理的に排出する必要があった。
だが、この“イジェクトボタンを排除した設計”こそが、後にコンピューター史の象徴的エピソードとなる。
マッキントッシュでは、画面上のフロッピーディスクのアイコンを「ゴミ箱」のアイコンにドラッグすることで、物理的にディスクを排出できた。画面上の操作が実際のハードウェアの動作に連動する、これは当時、非常に革新的だった。
筆者が初めてMacに触れたのは、初代発売から約10年後だったが、それでもこの排出操作には驚かされた。当時の主流のコンピューターは、ファイルを起動するには、フォルダの内容を表示して、その中のフォルダ名を指定するなど、すべての動作はコマンド入力で行われていた。マッキントッシュの場合は、マウスでファイルをつかみ、移動してフォルダに重ねたら、それでファイルの移動ができた。つかむ、移動する、重ねるといった、身体の動作の比喩によって説明可能な操作方法。つまり、身体の感覚に近いユーザー・インターフェースが用いられてたということ。
そして、ディスクをゴミ箱に重ねれば排出される操作法は、トンチのようなユニークさが感じられた。
ただ、このジョブズのボタンの話はまだ続きがある。90年代末に、アップルはiMacを発売する。ジョブズは、そのiMacの製品発表のプレゼンテーションのリハーサルで目を疑う事態に直面する。iMacの前面にはCD-ROMドライブが付いていたのだ。
彼は思わずそのボタンを押してみる。すると、CDトレイがせり出してきた。その瞬間、リハーサルは中断され、ジョブズは開発チームに激怒したという。実はこの仕様については、以前から何度も説明されていたにもかかわらず、ジョブズは聞き流していたらしい。
その場を収めるため、設計担当のルビンシュタインは「次のモデルでは、ボタンを廃止してスロット式のCDドライブにする」と約束することで、怒りを静めた。ジョブズが取り出しボタンを付けたくないことをアップルの設計担当者が知らなかったわけはない。ただ当時はコンピューター用、書き込み可能なCD-Rライターの機能が付いたCD-ROMドライブの部品メーカーは、ボタン式のものしかつくっていなかった。ないものを搭載するわけにはいかない。それを説明していたつもりだったが、ジョブズには通用しなかったのだ。
彼は、デザインを最優先にするため、現場にたびたび口を出した。時には理不尽に思えるほどの激怒もあったが、その根底には「機械は使いやすくあるべきだ」という揺るぎない信念があった。
もう少しだけジョブズとボタンの話を続けると、彼は移動のための専用のビジネスジェットでも、客席のキャビンを仕切るドアにあった開閉用のボタンをひとつに減らさせた。ボタンを1個で開閉ができるように求めたのだ。
このエピソードを聞くと、果たしてジョブズは「ユーザーのため」にボタンを減らそうとしたのか? それとも、単なる美学や好みの問題だったのか。その境界は、簡単には見えてこない。
■らくらくスマートフォンが使いにくい理由
複雑な機械は、機能を削ってシンプルにすればよい。そうした発想は一見もっともらしく聞こえるが、現実はそう単純ではない。その代表例が「かんたんスマホ」や「シニア向けスマホ」と呼ばれる機種である。
携帯キャリア各社は、シニア世代向けのスマホの普及に力を入れており、「かんたんスマホ」は、主要な機能だけを大きなボタンでまとめ、複雑さを排除する設計がされている。だが実際には、こうした端末の評判はあまり芳しくない。
たとえば携帯ショップで「かんたんスマホ」について相談すると、多くの場合「おすすめしませんね」と言われることがある。そのネガティブな評価は、ネットの書き込みでも多く見られる。
とはいえ、最初から誰もが否定的というわけではない。導入時には「シンプルでわかりやすい」と評価されることもある。だが、操作に慣れていくうちに、次第に不満が噴出するのだ。
これらの端末は、基本機能だけを大きく表示することで使いやすさを演出している。しかし、ユーザーが一通りの操作に慣れ、それ以上のことをしたいと思ったとき、「メニューに表示されていない機能がどこにあるのかわからない」という壁に直面する。結果として、通常のスマホの方が結局使いやすいという逆転現象が起きてしまう。
物事は単純すぎると退屈になり、複雑すぎれば難解になる。サッカーが良い例だ。単に「手を使わずゴールを狙う」だけではなく、オフサイドのような複雑なルールを取り入れることで、ゲーム性と戦術の幅が生まれている。シンプルすぎる設計は、かえって本質を損ねることがあるのだ。
「らくらくスマホ」が使いにくい理由は、ひとつではない。たとえば、売れているスマホであれば、使い方がわからなくても、ネット検索で簡単に情報が見つかる。しかし「らくらくスマホ」のようなニッチ商品は、ユーザーが少なく、ウェブ上の情報も極端に少ない。
製品が多く売れていれば、使いづらい機能があったとしても、次期モデルで変更されるなど改善が行われていく。ユーザーからのフィードバックがあるし、自然淘汰や市場原理が働くのだ。
しかし「らくらくスマホ」にはそれが働きにくい。なぜなら、この種の製品は「高齢者向け配慮」という社会的責任の側面で作られているためだ*。フィードバックも乏しく、家族に操作方法を尋ねても誰も分からない。また、メーカーによって操作体系が統一されておらず、それが混乱に拍車をかける。結局、操作を教えてもらうためには、販売店に出向くしかない。
「ボタンが多いと混乱するから、シンプルに」という発想は、一見正しく思える。だが、マウスのボタン数の例でも分かるように、スティーブ・ジョブズやビル・ゲイツですら最適解にたどり着くには20〜30年かかる。単に機能を減らせばいいというものではない。そこには、適度な複雑さと機能を削る合理的な理由が必要なのだ。
■複雑な運用とシンプルな制度
機械における複雑さとシンプルさの関係について、デザイン理論家のドナルド・A・ノーマンは、次のように述べている。
「我々は、不可解で奇妙な機械を学ぶのに1時間を費やすのは本当に嫌がる。しかし、難しさや複雑さがタスクに見合ったものであれば、学ぶのに数週間ないし数年を喜んで費やすのである」*
たとえば、車の運転、ピアノの演奏、かけ算の九九など、それ自体は複雑であっても、その価値や必要性が明確であれば、人は喜んで努力をする。エクセルやプログラミングの習得だって、意味と目的があれば苦にならない。しかし、それが強制的で、一方的な命令のもとに与えられたものであれば、人は苦痛を感じる。
私たちは、機械の複雑さそのものを忌避しているわけではない。時と場合によって、その複雑さを受け入れたり、拒否したりする。ただ、そもそもテクノロジーは、むしろ社会の複雑な問題を解決するために利用すべきだ。
たとえば、都市部の渋滞は現代社会の深刻な課題のひとつである。自動車の台数は増え、都市機能の停滞を引き起こす。ここに導入されているのが「ロードプライシング」と呼ばれる制度だ。
「渋滞税」あるいは「通行税」とも言われ、都心への車の流入を制限するために、通行に課税する制度である。従来はロンドンやシンガポールなどで、ナンバープレートの制限などが導入されていた。
しかし、現代の技術と組み合わせれば、より複雑な運用が可能になる。たとえば、時間帯に応じて通行料を変動させることで、交通量をコントロールする。混雑時には高く、空いている時間には安くする。これはすでにETCのような自動課金システムが普及した今の時代であれば、十分に実現可能である。
どの程度の価格差が、交通量にどの程度の変化を与えるのかは、実際に試してみないと分からない。社会実験的な要素もあるが、自動化によって試行のコストも抑えられる。さらに、徴収した税金を道路整備などに還元すれば、渋滞解消とインフラ維持の一石二鳥にもなる。
このように、制度が複雑であっても、テクノロジーの力でその運用をシンプルに見せることができれば、人々の負担感は減る。これはテクノロジー本来の使命である。
*「我々は簡単さを切望する一方で、複雑さを必要としているのである」(『複雑さと共に暮らす デザインの挑戦』D.A.ノーマン、伊賀聡一郎、岡本明、安村通晃、新潮社)
(次回へ続く)

20年前は「ゲーム脳」、今は「スマホ脳」。これらの流行語に象徴されるように、あたらしい技術やメディアが浸透する過程では多くの批判が噴出する。あるいは生活を便利なはずの最新機器の使いづらさに、我々は日々悩まされている。 なぜ私たちは新しいテクノロジーが生まれると、それに振り回され、挙句、恐れてしまうのか。消費文化について執筆活動を続けてきたライターの速水健朗が、「テクノフォビア」=「機械ぎらい」をキーワードに、人間とテクノロジーの関係を分析する。
プロフィール

(はやみずけんろう)
ライター・編集者。ラーメンやショッピングモールなどの歴史から現代の消費社会について執筆する。おもな著書に『ラーメンと愛国』(講談社現代新書)『1995年』(ちくま新書)『東京どこに住む?』『フード左翼とフード右翼』(朝日新書)などがある。