伝統工芸で空間プロデュース
KASASGIの具体的な事業の話に戻ると、起業時に主軸とした「どこよりも魅力的な伝統工芸のECサイト」が多くの課題に直面した一方、これを目指す過程で職人さんを訪ねて全国行脚し、膝を突き合わせて交流し、現場で教えてもらったことが新たな事業展開のヒントをくれた。伝統工芸の職人さんたちの技術を、現代のホテル、飲食店、住宅などの建材や内装に応⽤し、豊かで心地良い空間を生み出す空間プロデュース事業はそのひとつだ。この取り組みは日本各地および、僕がかつて留学したロサンゼルスで実績を重ねている。
単に「目先」を変えたわけではない。工芸の豊かさを探り続けるなかで、それは個々のモノだけでなく、産地、素材、技法、使われる場所など多様な要素からなる奥行きから生まれるのだという思いを強くした。伝統的な日本家屋の中で、蝋燭の淡い光に照らされた金蒔絵は本当に美しい。工芸品は、それが存在する場と幸福な関係を結んでいるとき、真の美しさを発揮する。これは物理的な関係性にとどまらず、さまざまな異なった背景を持ったモノが文脈で繋がりひとつになるいう話だ。ある職人さんに「本物は使えば使うほど良くなる」と言われて腑に落ちたが、それは「経年美化」と言える時間の蓄積があってこそだと思う。こうした気づきが、職人さんたちと共に空間をプロデュースする、という仕事につながった。
伝統工芸の奥行きの魅力のシンプルな例を挙げると、例えば木椀づくりにおける、原木からの材料の取り方がある。原木を垂直にスライスして、長い一枚板からポコポコと取っていくのが「横木取り」。対して、原木を輪切りにしたものから取り出していくやり方を「縦木取り」という。縦木取りのお椀はその木が持つ木目を素直に見ることができ、横木は個性的で面白い木目を愉しめるという特徴がある。また、木の繊維方向によって、作れるカタチにも差が生じる。宮大工の世界にも「木は生育の方位のままに使え」「木組みとは、木の癖を組むことと心得よ」という教えがあるそうだが、自然と長年向き合うなかで生まれる表現には、自ずと奥深い魅力と力強さが宿る。それは時代が変わっても同様で、手仕事にこだわる家具工房KOMAの松岡茂樹さんも、「木目に逆らって刃を入れても切れてくれない。だから最初に刃を入れるときにコイツの癖をさわって覚えて、進めていく」と仰っていた。他にも、備前焼の表面に現れる炎の流れや、金属を腐食させて色をつける高山銅器など、伝統工芸には自然の理と職人さんの創意工夫が響き合うことで生まれる魅力にあふれている。
「景色」のアップデート
器を焼き上げる窯の中で、人間には手に負えない自然の理によって予期せぬ特徴が生まれることがある。例えば黒い鉄粉がついてしまった、釉薬が灰をかぶってしまったなど、現代の大量生産の評価基準からすれば「規格外」のようなものだ。しかし、昔の茶人はそこに目を向けた。人間の意図を超えて生まれたそうした特徴は、自然の美、すなわち「景色」ではないかという解釈だ。工芸品のなかに景色を見出し、それらを愛でる独特の審美眼はとても秀逸なものだと思う。
ただ、そうした「景色」を人為的につくろうとする意図が前面に出て、形式化に至ってしまうと、今度はかえってうるさいものなるだろう。日常の手仕事から生まれた器などに美を見出す「民藝運動」を提唱した評論家・思想家の柳宗悦も、茶道の祖が見出した新たな価値観を評価しつつ、そこから生まれたものが形式化することには批判的だった。そして僕は、この指摘は彼が唱えた民藝についても同様ではと思っている。
民藝の本質は、簡単に言えば作為のない、素材をありのままに生かした自然の美、日々の実用品のなかに生まれた美にあると言える。しかしそれを称揚する「民藝」という言葉が先走って形骸化していくと、本質を置き去りにした「民藝っぽいもの」を作為的につくろうとする動きも生まれる。最たるものは、観光地などでよく目にする、「民藝調」と書かれたお土産だろう。実は僕は最初、民藝の銘品を前にしても「何か野暮ったいな……」と思ってしまったのだが、さまざまな職人さんの工房とその作品を観ていくなかで、民藝に大きな魅力を感じるようになった。だからこそ、本質を失った「民藝っぽいもの」が世にあふれてしまうことは、不健康な状況に思えてしまう。
工芸に向き合い、それを学ぶとき、民藝は避けて通れない重要なものだ。柳宗悦の美意識を起点に、日本のみならず世界に広まった民藝。柳は「私はそこに幾個かの種を下ろした。いつか春は廻り芽萌える時は来るであろう」と言った。彼が民藝を提唱してから100年が経つ今こそ、その価値を見つめ直し、民藝、そして工芸全体をめぐる状況をアップデートすることで、新たな可能性が開けるように思う。
健康的であることの喜び
優れた工芸品を前にすると、それがつくられた土地や時代が自分と離れていても、素材やその活かし方、手間のかけ方の向こうに、つくり手の心持ちや気遣いを想像できる。その節々から感じ取れる雰囲気があり、「これは職人さんがものづくりの悦びを噛み締めながらつくっているな」と思うと、健康的に感じる。素材が矯正されることなくありのままで、職人さんの創造性によってのびのびと生かされているからだろう。いわば「作為と無作為のあいだ」で、人と共に生きるカタチ、つくる人の個性が自然を押さえつけない絶妙なバランスがそこにはある。ちなみに自然は仏典では「じねん」と読み、「おのずから しからしむ」、つまり「ありのままであること」を意味する。
良いモノの見分け方は、たくさん観て目を肥やす必要もあると思うが、僕の場合は産地に 出かけてその土地の風土を感じ、実際のつくり方を見せていただくことや、職人さんと地元の居酒屋で呑み明かして対話することで、ものづくりの気遣いを知る体験にも要点がある。そう考えると、工芸は和食に似ていると思うことも多い。両者とも、良い素材を使い、つくり手の作為によって素材のポテンシャルを閉じ込めることなく活かすことが、温かみや奥行きにつながる。
関連して言うと、価格イコール価値というわけではないだろう。ひとつの指標にはなるが、本来はそれぞれの生産過程や、つくり手がこだわった部分など、そのモノがどのように成り立っているかも大事なことのはずだ。しかし、このことは何事も急ぎ足の今の消費社会では置き去りにされがちなように思う。近年広まってきたエシカル(倫理的)な消費という考え方も含め、モノだけでなく「モノのありよう」を観ていくと、僕たちの世界の「景色」はもっと変わるのではないだろうか。
あるいは、一見するとどれも同じようなモノのなかに見えてくる景色もある。あるカタチを基準に複数の工芸品をつくる場合、それは素材の個性を無視することにならないだろうか? そんなことを考えていたとき、輪島の漆職人・赤木明登さんの言葉と出会った。「個性っていうのを消していったら、僕の本当の本質が出てきて、人間が共通して持っている個性みたいなものがあるんじゃないかと。そしてそんな人間の個性みたいなものを消し去ることができたら、哺乳類の個性みたいなのが出てきて、最後に残るのは宇宙の個性みたいなものかもしれない」。赤木さんのような職人は、常に素材と対話しながらその本質に迫り、自然と人が調和するカタチを導くものづくりをしているのだろう。
家紋を現代にアップデートする「京源」の波戸場親子からは、「在り方」の大切さを学ばせていただいた。彼らは着物に家紋を筆で描き入れる紋章上絵師(もんしょううわえし)だが、時代の変化と共にデジタル技術を制作に取り入れ、新たな領域を探求している。手仕事の世界から踏み出したその挑戦は、従来の表現からすると異色にも思えるが、家紋を突き詰めてきた彼らならではの価値観と経験のうえにこそ成り立つものだ。「やり方」は以前と違っても、根底にある「在り方」は変わらない。僕はそこに大きな魅力を感じる。
現代を生きる伝統工芸の職人さんたちの挑戦は人それぞれで、その多様さも魅力のひとつだと思う。ただ、いずれにも共通するのは、先人たちが気の遠くなるほど長い年月をかけて積み上げてきた「自然との向き合い方」の上に立ち、その先に自分のものづくりを探究していることだろう。
連載の最終回となる次回は、僕たちがこれから目指す「架け橋」としての仕事のあり方について、またそこで乗り越えねばならない、現代の工芸をめぐる課題についてもお伝えしたい。それは広く今の社会構造にも関わるものだ。そして、だからこそ工芸の持つ価値観がいま僕たちに必要ではないか、という思いを新たにさせるものだ。
編集協力:内田伸一
プロフィール
(つかはら りゅううん)
2000年生まれ。高校卒業後、米国大学に入学。留学先で日本文化の魅力と可能性を再認識したことをきっかけに、日本の美意識で世界を魅了することを掲げ、「KASASAGI」を創業。伝統工芸品のオンラインショッ「KASASAGIDO」や、伝統技術を建材やアートなどの他分野に応用する「KASASAGI STUDIO」を展開。いろいろあってインド仏教最高指導者、佐々井秀嶺上人の許しを得て出家し、インド仏教僧に。