「喫煙率が下がっているのに肺がん患者は増えている」論のデタラメ
これらの知識は日々の生活においてはたして役に立つのだろうか。実例で見てみよう。
2018年夏、東京都は受動喫煙防止条例を制定した。事の発端は、2017年に塩崎厚生労働大臣(当時)が、受動喫煙規制を強化し、「床面積30平方メートル以下のバー・スナック等は例外とし、それ以外の飲食店は全て屋内禁煙(ただし消煙装置などがある専用の喫煙室を設置する場合はその中でのみ喫煙可)」という案を出したことにはじまる。実は日本は、他の先進国と比べて受動喫煙防止対策が大きく遅れている。2020年の東京オリンピックを機に、この遅れを少しでも取り戻そうとしたのである。
この案は、残念ながらその後、タバコ産業をはじめとする既得権益層の激しい反対にあい、骨抜きにされてしまった。その中でも特に、自民党内の約260人もの国会議員が参加する「自民党たばこ議員連盟」は猛反対した。
多くの人が誤解している「常識」の一つに、「受動喫煙による害は完全には証明されていない」というものがあるだろう。
週刊誌の記事などで、日本は喫煙率が下がっているにもかかわらず、肺がんの死亡率が上がっているという話を目にしたことがある人もいるかもしれないが、これはデタラメである。喫煙率が下がってから肺がんの死亡率が下がるまでには約30年のタイムラグがあるからそう見えるだけである。もう少し待てば日本でも肺がんの死亡率が下がってくると考えられている。
喫煙率が下がっているのに肺がんの死亡率は上がっているので、タバコと肺がんは関連がないように見えるが(上のグラフ)、それは誤解である。日本は急速に高齢化しているのでその影響で肺がん死亡率は上がってしまう。高齢化の影響を排除するためには、年齢構成を補正した「年齢調整死亡率」を使用する必要がある
出典:国立がん研究センターがん対策情報センター/JT全国喫煙者率調査
受動喫煙に関しても誤解している人が多い。国立がん研究センターの研究によると、日本では毎年1万5000人もの人が受動喫煙によって命を落としていると推計されている。これには喫煙者の数は含まれないため、文字通り周りの人が吸ったタバコの煙を近くで吸っただけでこれだけの人が亡くなっているのである。世界では、年間約60万人が受動喫煙で死亡していると推定されているので、この日本の数字は妥当な値であると思われる。
日本の推定値の元の一つになったのが、受動喫煙によって肺がんになる確率が約30%上昇するという「メタアナリシス」の研究結果である。この論文では、日本人を対象とした9個の観察研究をまとめて、受動喫煙によって肺がんになるリスクが上がることが「確実である」と結論付けた。
タバコを用いたランダム化比較試験は行うことができないと言われている。数多くの観察研究においてタバコの害は科学的に証明されており、害があると分かっているものを、被験者に吸入させることは倫理的に許されないからである。よって、受動喫煙の害を評価するためには、観察研究のメタアナリシスが最も信頼できるエビデンスであるということができる。そして、それによって受動喫煙は肺がんのリスクを上げることが明らかになっている。受動喫煙による健康への害は科学的に証明されており、もはや議論の余地は無いということができるだろう。
動喫煙による年間死亡数推計値は、男女計で、肺がん2,484人、虚血性心疾患4,459人、脳卒中8,014人。乳幼児突然死症候群73人も加え、合計で年間約1万5千人の人が亡くなっていると推計されている。
出典:厚生労働科学研究費補助金循環器疾患・糖尿病等生活習慣病対策総合研究事業
「たばこ対策の健康影響および経済影響の包括的評価に関する研究」平成27年度報告書
【エビデンスに基づいた「新常識」】
受動喫煙によって、日本で年間1万5000人が亡くなっている
(「小説すばる」2018年7月号より転載)
テレビ、本、ネット……健康についての情報に触れない日はない。 だが、あなたが接している健康の「常識」は、本当に正しいものなのだろうか? 確かな科学的根拠に基づいて、誤った常識を塗り替える医療エッセイ。
プロフィール
カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)助教授。
東北大学医学部卒、ハーバード大学で修士号(MPH)・博士号(PhD)を取得。
聖路加国際病院、世界銀行、ハーバード大学勤務を経て、2017年から現職。
著書に『週刊ダイヤモンド』2017年「ベスト経済書」第1位に選ばれた『「原因と結果」の経済学』(中室牧子氏と共著、ダイヤモンド社)、『世界一シンプルで科学的に証明された究極の食事』(東洋経済新報社)がある。
ブログ「医療政策学×医療経済学」