都会ぎらい 第4回

嫌われない再開発は存在するのか?

谷頭和希

「再開発」という言葉に対して人々は驚くぐらい敏感だ。
「さ」の字を発音しただけで騒ぎ出し、「い」まで行くと卒倒する。
そのような根強い再開発反対派にも関わらず、ときたま「再開発の成功」とほめそやされる事例がある。
「都会ぎらい」第4回目、今回はこれまでとうって変わって「好かれる再開発」について考えてみたい。ちょうどここ最近、そんな開発の話をよく聞くからだ。

1 うめきた公園が好き

大阪の中心地、梅田。駅から10分ほど歩いた場所に「グラングリーン大阪」という商業施設がある。梅田駅の北側にある梅田貨物駅の跡地に建てられた施設だ。「関西最後の一等地」なんて呼ばれ方もしていたが、とうとう再開発されたのだ。

駅前再開発というと、イメージされるのはまず高層ビル。低層階には高級なショップが立ち並び、高層階にはオフィスやホテル……なんてもの。実際、グラングリーン大阪も商業施設だからそういう感じか?と思ってみると、その姿に多くの人が驚いた。先行まちびらきでメディアに公開された姿は、これまでの都市再開発の風景とはまったく異なるものだったのだ。

ここの中心にあるのは「うめきた公園」で、全体は約4万5000㎡の広さ。都市型公園としては、世界最大規模の大きさになるという。ちなみに約4万5000㎡は、東京ドーム1個分とほぼ同じ大きさだ。ビルがひしめく大阪駅の近くに、このサイズの緑地が出現したので、関係者の間では驚きが広がったのだ。

なかでも特筆すべきは、公園中央にある噴水広場と巨大な芝生。日本の都市ではなかなか見られない開放感である。芝生広場は5100㎡に及び、私が訪れたときは、そこで寝っ転がっている人がたくさんいて、外国の公園のようだった。彼らの視線の先には噴水広場があって、そこには水遊びをする子どもたち。なんだか、大阪であって大阪でないかのようなのだ。

ちなみにこの「梅田駅北ヤード」だが、元々は「梅田サッカースタジアム構想」なる計画が持ち上がっていて、巨大なサッカースタジアムになる予定だった。2022年ワールドカップの招致に合わせて、2009年より同地のスタジアム化に関する計画が持ち上がったが、2010年の開催地投票の際に日本が落選。招致は叶わず、緑地に転換されることが決まった。ある種の偶然がここに緑地をもたらした。

ここは、9月に施設全体の一部が先行開業したのだが、公開されるや否や、多くの賛辞が飛び交った。特に都市関係者を中心とした賞賛ぶりはすごくて、「再開発」というワードからは想像できないような褒められっぷりだった。私は基本的にひねくれているから、「どんなもんじゃい……」とかなり斜に構えて見に行ったのだが、完敗した。すごいよ、うめきた公園、楽しいよ大阪……と連呼するまでになり、最終的にうめきた公園を絶賛する記事を書いてしまった。

まさに開業してすぐ、「好かれる再開発」の筆頭に躍り出たわけである。

2 下北沢が好き

もう一つの「好かれる都会」は、東京・下北沢。こちらも「再開発の成功例」と言われることが多い。

もともと下北沢は、バンドマンや演劇人などが集まり、彼らが芸術談義に華を咲かせる街として有名で、ゴチャついた路地には多くの個人店が立ち並んでいた。なぜかカレー店も多く、カレーと文化の臭いが立ちこめる街だった。

ただ、小さな路地がひしめく下北沢では、交通の問題が必然的に生じてしまう。特に、駅周辺にある踏切は「開かずの踏切」として有名で、1時間のうち40分以上はゲートが降りることもある、驚異的な踏切。こうした事態を受け、小田急線の地下化の議論が持ち上がったが、それと共に東京都は幅26mにわたる巨大な道路を作ると発表。しかし、これに地元住民や下北沢にゆかりのある文化人たちが反対。シモキタの利点は、少しゴチャついた街区にあり、大きな道路を作ることによる回遊性の低下を懸念してのものだった。この反対運動は行政訴訟なども引き起こし、粘り強い交渉の末に東京都は計画を一部取り下げ。小田急線が地下化された後に誕生したスペースの再開発は、下北沢住民と小田急による「北沢PR戦略会議」での徹底した話し合いの中で進められた。

結果として、地下化された小田急線の旧線路沿いには「下北線路街」として13の施設が建てられることになった。「本屋B&B」なども入るBonusTrackや、下北沢駅の駅ビル「シモキタエキウエ」など、チェーン店だけではない個性豊かな建物が立ち並ぶ。これらはどれも低層の建物で、ほとんどが2階建て。また、緑もかなり意識的に取り入れられている。小田急が行った再開発は「支援型開発」と呼ばれ、住民たちの街に対する意向をヒアリングした上で、彼らの望む街の形を支援して作っていった。「チェーンストアはいらない」「街に緑を増やしたい」等々、さまざまな意見があがり、それらが集約された再開発プランが作られたのだ。

小田急再開発以外にも、京王線の高架下を一部用いた「ミカン下北沢」などの商業施設も建てられているが、こちらも高層ビルではなく、低層の建物である。

私がある20代前半の女性にインタビューをしたときのこと。彼女は再開発後のシモキタの常連だったが、「渋谷や新宿に比べて、下北沢は座れる場所が多い」と言っていた。それに「特に目的がなくても、街を歩いているだけで楽しい」とも言う。確かに、下北沢周辺を歩いていると、新しくできた商業施設は階段のところに座れるようになっていたり、あるいはベンチなどが多く置かれていたりもする。それに、街全体が回遊して楽しめるようにもなっていて、特に目的がなくてもなんとなく楽しめるのかもしれない。ある意味では「人間に優しい」街として、意識されているのだ。

こうした意味で、下北沢も「再開発の成功例」として語られるところとなった。

3 「高層ビルがないこと」が再開発の成否を決めるのか

しかし、ここで考えたいのは、これらの「再開発の成否」はいったい何で決まるのか、ということだ。うめきた公園に至っては今年の9月に開業したばかりだし、下北沢の再開発もここ数年の話だ。逆に10年後、20年後どうなっているかは誰もわからないし、なにを基準に「成功」といわれるのか。むしろ、この連載でも扱った、麻布台ヒルズや渋谷の再開発については「失敗」といわれることも多いが、それらはなぜ「失敗」なのか(それらだってここ数年の話なのに)。いずれにしても、どの再開発事案もまだ時が浅く、本質的には成否を決定することはできない。それに、そもそも再開発の成否に関する基準はあるようでない。それにも関わらず、明らかにそれぞれの再開発事案には「成功」とか「失敗」といった烙印が押されている。いわば、ある種の「印象」でこうした成否が決定されているといってよいが、それはいったい何で決まるのだろうか。 そこで、先ほど挙げた「うめきた公園」と「下北沢」の例で考えてみると、その一つの基準として「高い建物が無い」ことが重要な要素だと思えてくる。

下北沢で再開発後に建てられた施設は、そのほとんどが2階建てである。そもそも下北沢の街自体にそこまで高い建物が無い。実はこの背景には、そもそも下北沢の街が地下に電車が通っていること(小田急線は地下鉄ではないので)の影響などにより高い建物が建てられない、という事情があるのだが、これらが逆に街の再開発の成功に一役買っているともいえる。NHKの取材に対し、小田急の担当者は「高さのある建物を作れない=事業性としてはあまり高くない、と考えていました。大手のチェーン店や大手スーパーからあまり需要が見込めないので、出店できないというヒアリング結果が出た。正直、どうしたらいいんだろうかと思っていました」という。しかしこれが結果的に住民との対話の方向性に進み、下北沢再開発を「成功」とさせた。「高層ビルがないこと」が重要だったのだ。

うめきた公園も同様だ。グラングリーン大阪自体は46階建ての「ザ・高層ビル」だが、先ほども書いた通り、中央の芝生広場からはそれらの高層ビルがほとんど意識されないようなデザインになっている。視界を遮るものはなく、ただただ広い芝生が広がっている。

これは例えば、同じように緑化が進められている「麻布台ヒルズ」と比較するとわかりやすい。麻布台ヒルズの中にも広場があって、中には小川が流れている。ただ、それらは東京の高層ビルに挟まれている中にあって、ぐるりと周囲を見渡すとどうしても高い建物が目についてしまう。ちょっと圧迫感があるのだ。逆に東京の高層ビルを楽しみたい人にとっては「ザ・トーキョー」な風景が広がっているから面白いとは思う(インバウンド観光客などにとっては)。けれども、やはりどこか「都会っぽさ」の方が意識されてしまうから、そこまで賞賛はされないのかもしれない。

その点では、うめきた公園の視界の広さは素晴らしいものがある。そしてそれは、「高いものが無い(見えない)」ことに支えられていると感じるのだ。

4 ジェイン・ジェイコブスは下北沢が好きだろうな

「高層ビルがないこと」が、再開発の成否の基準になっている―― そんなことを考えたとき、ふと思い出したことがある。都市論の大家、ジェイン・ジェイコブスの議論だ。ジェイコブスは『アメリカ大都市の死と生』(山形浩生 訳、鹿島出版会)でニューヨークを舞台として再開発が人々の生活にもたらす影響をジャーナリスティックかつ批判的に描いた。それ以外にも彼女の著作は都市論の重要文献として現在でも参照され続けていて、特に再開発を巡る問題提起としては未だにその新鮮さを失っていない。彼女が生涯を通して主張し続けたことが「人間のための都市を作ること」、そしてそれを担保するために「都市の多様性を保つこと」。同一街区の中に、用途が異なるさまざまな建物が混在し、さまざまな人がいることで街には活気が生まれる。その方が人間はその都市に対して居心地の良さを感じる。ル・コルビジェが提唱した都市計画「輝く都市」など、近代的な都市計画が都市の中の「機能」を優先して積極的なゾーニングを進めることを批判し、「人間中心」でごちゃ混ぜの都市のあり方を大胆に提唱したのである。

彼女が『アメリカ大都市の死と生』で提示した都市の多様性のための4つのテーゼは非常に有名だ。それが、以下の通り。


1 地区、そして、地区内部の可能な限り多くの場所において、主要な用途が2つ以上、望ましくは3つ以上存在しなければならない。そして、人々が異なる時間帯に外に出たり、異なる目的である場所にとどまったりすると同時に、人々が多くの施設を共通に利用できることを保証していなければならない。

2 街区のほとんどが、短くなければならない。つまり、街路が頻繁に利用され、角を曲がる機会が頻繁に生じていなければならない。

3 地区は、年代や状態の異なる様々な建物が混ざり合っていなければならない。古い建物が適切な割合で存在することで、建物がもたらす経済的な収益が多様でなければならない。この混ざり合いは、非常にきめ細かくなされていなければならない。

4 目的がなんであるにせよ、人々が十分に高密度に集積していなければならない。これには、居住のために人々が高密度に集積していることも含まれる。

これらの4つのテーゼの結果として、彼女が強く批判するのが高密度な高層住宅、いわゆる「高層ビル」、今風の言葉でいえば「タワマン」だ。巨大な高い建物は人々の活動を縦に分断するし、大抵それらが建てられるときは古い建物が一掃される。その意味では、ジェイコブスにとって高層ビルの存在は都市の多様性を消してしまうものだった。

ジェイコブスの議論を読めば読むほど、彼女は「下北沢」が好きだろうなあ、と思う。先のテーゼの2番目などは、まさに下北沢を歩いていて感じることだ。「街区のほとんどが短く、角を曲がる機会が頻繁に生じる」。まさに、である。下北沢の街区は再開発後でも迷路みたいになっていて、すぐに角を曲がらないといけない。さらにはテーゼの3番目。「地区は、年代や状態の異なる様々な建物が混ざり合っていなければならない」。下北沢では駅の周辺は再開発が進んでも、ところどころに古い建物が残っている。古い建物と新しい建物とかが混在する、まさにジェイコブスからしてみれば理想の街かもしれない。

ジェイコブスの理論は現在の都市論の基底を成していて、多くの都市論関係者がジェイコブスの議論に影響を受けている。だから、そんな人々が下北沢を評価するのは当然のことなのかもしれない。

5 高層ビルを嫌うことの代償は?

一方、ジェイコブスの議論については批判もある。都市経済学者であるエドワード・グレイザーの著書『都市は人類最高の発明である』(山形浩生 訳、NTT出版)は、ジェイコブスの功績を認めつつも、あまりにもその論調が「高層ビル」否定に偏っていることを指摘する。

 ジェイン・ジェイコブスの都市刷新反対は、さらに背の高い建物すべてを十把一絡げに嫌う方向に向かった。[…]ジェイコブスは自分の住んでいた背の低い近隣の美徳はよく理解していたが、もっと背の高い建物の地区にもある強みは理解できていたかどうか、必ずしも明らかではない。[…]彼女の都市ビジョンは、自分のグリニッジヴィレッジの近隣や、そこの酒場や思索家や低層タウンハウスにだけ根ざしたものだった。古い建物が好きだったので、新しい摩天楼では自分の好きな混合用途が実現できないと思ってしまった。

(『都市は人類最高の発明である』p.193-194)

ジェイコブスが述べる都市の活気は、高層ビルで実現できないのか。グレイザーは、高層ビルの中でも面白い店や活気のある場所はあるとして、ジェイコブスが「低層の建物」だけを都市にとって必要だと語ることを批判する。その主張の下には彼女自身が住んでいたニューヨークのダウンタウンへの郷愁があることもグレイザーは匂わせる。ジェイコブスはニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジというところに住んでいて、そこでの経験が彼女の論調に大きな影響を与えているのではないか、というわけだ。

グレイザーがここまでジェイコブスに対して手厳しいのは、このような「低層建築の奨励」と「高層建築への制限」が、逆に都市の荒廃を進めるのではないか、という懸念を彼が持っているからだ。

グレイザーが例として挙げるのは、ニューヨークのマンハッタンのこと。マンハッタンでは多くの土地が「歴史的地区」になっていて、外観の変更はランドマーク委員会という都市保存団体の承認を要する。つまり、建て替えが極めて難しい。逆に言えば、街並みが保存されているのだが、グレイザーは「開発を制限する代償は、保存地区が高価になり金持ち専用になるということだ」と言う(『都市は人類最高の発明である』p.197)。高層ビルが建てられなければそれだけ住める場所が減り、需要と供給のバランスが崩れ、どんどん既存の建物の賃料が上昇する。実際に「マンハッタンの歴史的地区に住む人々は、そうでない人々より七四%近くも裕福だ。歴史的地区に住む人々のうち、大卒は四分の三だが、それ以外では五四%だ。歴史的地区に住む人々は白人確率が二割高い」とデータを持ってくる(『都市は人類最高の発明である』p.197)。開発の制限が、逆に地区の多様性を失わせるのだ。こう述べて、グレイザーは次のように結論づける。

 全員が高層ビルに住めというのではない。多くの都市住民は、ジェイン・ジェイコブスと同様に、古い背の低い近隣が好きだ。でもかなりの人々はそびえる都市に住むのも喜ぶし、政府は彼らの夢を満たす高層ビルを止めてはいけない。高層開発を制限しても、おもしろい多様な近隣は保証されない。単に物件価格上昇が保証されるだけだ。

(『都市は人類最高の発明である』p.200)

誤解が無いように言うと、グレイザーも「多様な都市」を否定しているわけではない。ただ、むしろ都市に真の多様性が生まれるためには、「開発の制限」がその足枷になる可能性を述べている。
その点で、高層ビルが建つことへの拙速な反対運動にグレイザーは待ったをかけるわけである。

6 タワマン規制は善か?

ちなみに、高層ビルの開発制限は、現代の日本でも「良いこと」として扱われる傾向にある。顕著なのが神戸のタワマン規制だ。これは2020年から神戸市で始まった取り組みで、三宮や元町などの神戸市中心部で、建物の容積率の上限を設定するなどして、事実上の「タワマン規制」が行われている。NHK取材班『人口減少時代の再開発 「沈む街」と「浮かぶ街」』(NHK出版新書)では、この規制が決定するに至った裏側が取材されているが、神戸では1995年の阪神淡路大震災の経験があり、タワマンなどによる都心一極集中の負の側面を、身をもって体験していた。その経験も強く作用して、全国でも異例となる実質上のタワマン規制が行われているのである。景観的な多様性の面からもこの取り組みには賛成の声も多く聞かれる。

ジェイコブス的な「都市の多様性」の観点から高層ビル建設に待ったをかける場合もあるが、同時にこの神戸の事例のように「防災」の観点からみてもタワマンなどに密集して住むことの弊害を語ることができる。実は、この点に関しても、グレイザーは反論をしている。もちろん、都市への一極集中は災害時のリスクを高める。しかし、都市はコンパクトなので外部からの攻撃や災害に対して守りやすい。また、災害時でも1箇所に人が固まっているほうが救助しやすいのではないか。また、環境経済学者であるマシュー・カーンの研究を元に、災害による死亡率は人口密度の増加につれて減少すると述べ、「どうもコンパクトさというのは、平均で見ると、災害よりは安全につながる見通しが高いようだ」と書くのだ。確かに、阪神淡路大震災の場合も、神戸や大阪にそれほど人が集まっていなかったら、もっと被害が拡大したかもしれない、という予想を立てることは可能だろう。

むろん、だとしても2019年に多摩川の洪水によって武蔵小杉のタワマンが浸水し、一部の住民が自分の部屋まで何十階も階段を歩かないといけなくなってしまったように、タワマンならではの災害リスクは当然ある。とはいえ、一般に思われているような「都市一極集中=災害リスクの増加」についても、一定の留保が必要なことは間違いないのである。

いずれにしても、色々な研究結果を加味すると、「タワマン規制=善」と言い切れないところがある。高い建物が無いからといって、それがすなわちパーフェクトな状態ではないということだ。

7 「都会ぎらい」と「好かれる再開発」は意外と似ているのかもしれない

下北沢やうめきた公園が称賛されるのを、拙速だとはいわない。しかし、先ほども言ったように、それらはまだ開発が始まったばかりで、これから先どうなっていくのかわからない。

だとすれば、グレイザーのような「『高層ビル反対』に対する一歩引いた目線」を持っておくことも大事ではないか。

すでに本連載で何度も述べているように「都会ぎらい」は、さまざまな要素が混ざった複合的な「感情」である。ジェイコブス自身が住んでいたグリニッジ・ヴィレッジへの郷愁が強いあまり、高層ビルのポテンシャルを過小評価していたのと同じように、私たちはどこか感情的に「高いビル」への拒否反応を示しがちである。

私自身も称賛しているから、あまり強くは言えないが、「うめきた公園」や「下北沢」に対するほぼ一様の「称賛」の論調は、逆にほぼ一様に展開される「渋谷再開発への批判的論調」「神宮外苑再開発への批判的論調」の裏返しのようにさえ感じられる。どちらも「感情」が先行していると思う。もちろん、人間である以上、ある出来事に対して感情を完全に廃して臨むことなどできないが、「都会ぎらい」を少し警戒して見るのと同時に、「好かれる再開発」についても、どこかひいた目線で見ることが大事だろう。

まあ、うめきた公園はいいし、下北沢も好きな街なんだけど。

しかし、この連載では「都会ぎらい」にも関わらず、都会のことを扱いすぎた。思えばここまでの連載の全てが、東京を中心とする大都市の話ばかりをしている。そこで、次はそんな「都会ぎらい」が集まる「田舎」に行ってみたい。広がる青空、キレイな空気に、のどかな風景、そして暖かい人々との交流。そこはこの世の楽園である。どうして、人々は「都会」を逃れ、田舎に行くのか。その精神の歴史を追っていく。

(次回へ続く)

 第3回
第5回  
都会ぎらい

東京における再開発ラッシュやそれに伴う反対運動、新しい商業施設への批判、いまだに報じられる地方移住ブーム……なぜ人々は都会に住みにくさを感じるのか。全国のチェーンストアや東京の商業施設の取材・研究を続けているライター、谷頭和希がその理由を探求する。

プロフィール

谷頭和希

たにがしら かずき チェーンストア研究家・ライター。1997年生まれ。早稲田大学文化構想学部卒業、早稲田大学教育学術院国語教育専攻修士課程修了。「ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾 第三期」に参加し宇川直宏賞を受賞。著作に『ドンキにはなぜペンギンがいるのか』 (集英社新書)、『ブックオフから考える 「なんとなく」から生まれた文化のインフラ』(青弓社)。

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嫌われない再開発は存在するのか?