前回までは、再開発などをテーマに「嫌われる都市」「好かれる都市」の話をしてきた。今回からは逆に、そのようにして都会を嫌った人々が向かう先である「田舎」の話をしたいと思う。その手始めに、ここ十数年ぐらいなんやかんやで話題になり続けている「移住ブーム」の話題を見ていこう。
ふるさと回帰支援センターの高橋公理事長によれば、最初の移住ブームは2008年。リーマン・ショックによる景気の悪化や、地域応援隊の前身である「田舎で働き隊」の創設により、地方移住・Uターンが盛り上がった。その後も東日本大震災や、コロナ禍におけるリモート・ワークの普及などもあって、「そろそろ終わるよね」という声をよそになんやかんやでブームはじんわり続いている。
そんな「移住」を、いささかの誇張も交えて後押しして話題となったのが、イケハヤ(イケダ ハヤト)氏の『まだ、東京で消耗してるの?』(幻冬舎新書)である。しかし実はこの本、「移住本」でもあると同時に、「都会ぎらい」を語った「都市論」でもある。しかも結構硬派な。
今回は、『まだ、東京で消耗してるの?』が描く「都会」と「田舎」の姿を見ていきたい。
その前に、ちょっと回り道を……
1.最近気付いたこと:安心したいから文字を読む
書籍やネットの記事を書きはじめて、そこそこの時間が経ったのだが、気付いたことがある。それは「人の不安を解消してくれる文章」は読まれるということである。個人的には本にしても文章にしても楽しいものを読むのが好きだったから、考えれば当然わかるであろうこの事実に気づくのに時間がかかってしまった。
健康に関する書籍や記事がここまで読まれるのは、この理由からだろう。ある程度歳を重ねると健康はどうしたって問題になってくる。それを解決してくれる(ように思える)から、そこまで需要がある。電車に乗れば、「〇〇健康法」なる本が「累計30万部突破!」という威勢のいい文言と共に宣伝され、下の方には「こんなに効果があると思いませんでした!(60代・女性)」「読んですぐ、職場で広めたくなりました(50代・男性)」といった推薦文。かくいう私も最近いい感じで休みが取れてないなあ、と思って『休養学 あなたを疲れから救う』(片野秀樹 著、東洋経済新報社)なる本を買おうか迷っているところで、そのときに「人の不安を解消してくれる文章は読まれる」ことに気がついてしまった。
さて、私の専門フィールドである「都市論」に引きつけて考えても、この仮説は正しい。というのも、「都市」はあまりにも広く巨大で、それをそのまま解説しても一般の人々にはピンと来ないからだ。なんだか抽象的になる。都市について書いた文章でよく読まれるのは、私たちの身近な「生活上の問題」を「都市」の観点から解説し、その不安の原因を突き止めてくれたり、解決策を提示してくれるものだ。
例えば、手前味噌だが、私が最近書いたものでいえば、こんなタイトルのやつである。
東京で「貧しい日本人」を排除する施設が増える訳 庶民にも開かれた大阪、ニセコと大差ない東京
煽るなあ、と我ながら思う(ちなみにタイトルを考えているのは筆者ではない)。
いずれの記事も「金がないと楽しめない」とか「街のカフェが座れない」、「なんか街が楽しくない」といった「生活に関する問題・不安」をフックに都市を語るものである。
中でも「渋谷のスタバ混みすぎ問題」はなぜか今でも根強い人気があり、多くの読者を獲得している。それぐらい、カフェの問題は身近な問題だということなのだろう。
2.「『わたしたちの問題』は『都市の問題』」話法
こうした傾向は私に限ったことではない。というか、都市論の多くは「私たちの問題」の原因を「都市」に求める、という話法で都市について語ってきた。
都市論の名著といわれるものも、実は巧妙にこうした「人の不安」を取り入れている。
例えば、前回も本連載で取り上げたジェイン・ジェイコブス『アメリカ大都市の死と生』。ジャーナリストであるジェイン・ジェイコブスがニューヨークを舞台として計画的な都市計画が人々の生活にもたらす影響を批判的に描きながら、「人間らしい街」の条件を定義した本である。ジェイコブスは研究者ではなくジャーナリスト。その点、学術的な正確さよりも、人々をアジテーションするような筆致がうまいのも特徴だ。
「ジェイコブスうまいねえ」と思ったのが(えらそう)、再開発批判の根拠に「治安」を持ってきていること。都市が計画的に開発され、エリアがゾーニングされることをジェイコブスは批判する。彼女自身がこのような論旨を展開するのは、都市のにぎわいや活気が消えてしまうことを恐れてのことだったが、正直、一般読者からすれば都市の賑わいとか活気は二の次、三の次、と思う人も多い。
そこでジェイコブスは、このように都市がゾーニングされると、そこが単一の機能しか持たないため、ある区画のある時間帯ではそこに人がいなくなってしまうことを問題視する。そうなると、その区画は人目が無くなり犯罪の可能性が高まってしまう。例えば、昼間のビジネス街は人がいるけれど、誰も用が無い夜は無人になる。すると、そこでは犯罪が起こりやすくなるでしょう?、だから再開発はヤバいんですよ、とアジった。さすが、ジャーナリストとして一般大衆に向けて文章を書いてきた人間だ。人々の不安につけこむのが抜群にうまい(ディスってない)。言わずもがな、犯罪率が高いニューヨークにおいては、こうした警告はかなり効いた。1961年に刊行された『アメリカ大都市の死と生』が後世まで名を馳せているのは、もちろんその内容が素晴らしいことは言うまでもない。けれど、私としては、適度に「わたしたちの問題」を取り入れた内容がセンセーショナルかつジャーナリスティックな広がりを生んだ側面も見逃してはならないと思う。 ちなみに、ジェイコブスとかなり似た方法で都市を語ったのが、三浦展である。彼が2004年に発表した『ファスト風土化する日本 郊外化とその病理』(洋泉社 新書y)は、当時全国に広がりつつあったジャスコ(なつかしい!)や郊外型量販店の拡大と、それを支えるロードサイドの発展をきわめて痛烈に批判した本である。出版当初から大きな話題を読んだ本で、人々がどことなく持っていた「均質化する日本への不安」に言葉を与えた。
同書において、郊外批判の根拠の一つとなっているのが、やはり「治安」なのである。三浦はいくつかの若者の凶悪犯罪などを取り上げながら、それらと「郊外化」がどのように関わっているのかを力説する。そして、さまざまなデータを持ってきて「ジャスコがあると近隣の犯罪率が上昇する」という。こうした主張には、データの取り扱い方の問題も含めて疑義・批判があるものの、論法としてはかなりジェイコブスと似ている。そして、目論見通り、それは広範な影響力を与えた。「治安悪化」という「わたしたちの問題」の原因は、「都市の問題」なのだ、と例の「話法」を使って、多くの読者を獲得したわけだ。
このように見ていくと、さまざまな都市論において「『わたしたちの問題』は『都市の問題』」話法が使われていることがわかる。
3.『まだ、東京で消耗してるの?』は伝統的な「都市論」の本である
さて、こうした話法の系譜に通じるのが、最初に書いた『まだ、東京で消耗してるの?』である。
同書は2014年から高知県の限界集落・本山町に移住したブロガー・イケハヤ氏の著作。幻冬舎新書から2016年に出版され、イケハヤ氏に憧れて高知に移住する人までをも生んだぐらいだ。内容としては単純で、東京という過密で暮らしにくく競争が激しい街を捨てて、みんな田舎に行こうぜ!というもの。そして実際にイケハヤ氏は移住生活したことによって暮らしやすい環境を手に入れ、年収も上がり、人生ハッピーになった……らしい。
本書が典型的に「『わたしたちの問題』は『都市の問題』」話法を使っているのは、以下のような終章の言葉からも明らかだ。
この本を手に取った方のなかには「会社でも活躍できず、やりたいことも見つからず、うつ病気味で、もうだめだ」みたいな方もいるでしょう。「こんなに頑張っているのに、ぜんぜん成果を出すことができない。自分は無能なんだ」とか。
これ、間違っているんです。あなたが悪いんじゃないんです。あなたが選んだ「環境」が悪いんです。
まさに「あなたの問題」は「都市」という環境から発生する問題なのだと断言している。 では、東京の環境はどのように悪いのだろうか。以下、丁寧に見ていこう。まず、イケハヤ氏は「はじめに」でこう書く。
東京で暮らすことのハードルは上がりつづける一方で、今後も東京は生きにくさを増していくでしょう。今以上に、若者、老人、障害者、子育て世帯、マイノリティの人々に優しくない街になっていくと、ぼくは見ています。
簡単に言えば「東京オワコン」。そんな立場が繰り返される。なんせ第一部のタイトルは「東京はもう終わっている」だ。そもそも東京がいつ始まったのかもよくわからないが、とにかく「終わった街」らしい。
第一部では、とにかく東京暮らしが否定され続けていて、読んでいておもしろい(興味深い、ではなくお笑いとして、という意味)。しかし、これがある一定の広がりを持ったのは、やはりそこで「わたしたちの問題」と東京の問題を紐付けたからだろう。ジェイコブスや三浦と同じように、イケハヤ氏は「治安」に紐づけて、こう書く。
ほら、東京って怖いじゃないですか。悪い人がいっぱいいて。通り魔とか普通にありますよね。最近だとテロの危険も現実的にあります。ぼくはかなりビビリで、東京は日本橋のワンルームマンションに独居していた頃、「今夜、寝ている間に突然犯罪者が入り込んできて、そのまま殺されるんじゃないだろうか」と本気で恐れていました。ほんとうに。共感してくれる人、いますよね?
ここまで東京が怖けりゃ、そりゃ地方に行った方がいいだろうな、と思わずにはいられないが、まあ確かに人が多ければ単純に犯罪率は上がってくる。実際、犯罪の認知件数は東京がダントツでトップ。ただ、犯罪遭遇率は茨城県が9年連続1位らしいから、茨城への移住も避けた方がいい、ということになる(私は大好きだ)。
イケハヤ氏の筆致はあえて物事を極端に書くことで話題を集めるタイプのものだから、いささか(というか、かなり)誇張されている。けれども、「治安」に惹きつけて人々への注目を集める点では、ジェイコブスや三浦の都市論と、かなり似ているのだ。
つまり、『まだ、東京で消耗してるの?』は、けっこう伝統的な「都市論」の本である。
4.イケハヤ氏の「東京ぎらい」が止まらない!
東京の問題点を指摘するイケハヤ氏の筆致は活き活きしていて、楽しそうだ。この連載に惹きつけていえば、すごくポジティブな「東京ぎらい」な感じがする。というわけで、ここからはイケハヤ氏の「都会ぎらい」がどのようなものなのか、考えてみよう。
例えば、イケハヤ氏は「通勤」に憎悪の目を向ける。
ぼくが東京を離れたのは、移動に嫌気がさしたからです。毎日毎日、移動してばっかりで、やるべきことに集中できないんですもの。
なぜ語尾が上品になったのかはわからないが、こう言ってイケハヤ氏はざっくりした計算をして、一般的に人は年500時間も移動に時間を費やしていると書く。そして「ぼくは500時間あれば、ブログ記事を2000本は生産できます。[…]みなさんが時間とエネルギーを消耗している間に、ぼくはコツコツと仕事をしてあなたの年収を超えるお金を稼いでいるんです」と言う。
また、先ほども書いた通り、私が追い続けている「渋谷のスタバ混みすぎ問題」も、イケハヤ氏が先取りしていた。やられた。
たまに東京に出ると、どこに行っても混んでいてげんなりします。「ちょっと疲れたから、カフェで休憩しよう」と思っても、そこを仕事場にしているノマドワーカーやサラリーマン、主婦、学生などが陣取っていてなかなか座れません。で、また違うお店を探してさまようわけです。
そして、「高知ではカフェは混むことはない」と高知生活の素晴らしさを語るのだ。わたしも体感的に、「カフェに座れない問題」が非常に多くの人の興味関心を集めることは知っていたが、すでにイケハヤ氏はそのことに気が付いていたとは。さすがプロブロガーである。
これ以外にも、東京では賃金が高くても住宅費などの固定費が高くて子育てがしづらいことを述べつつ、第1章の終わりにこう書く。
育児にせよ、ホームレス問題にせよ、ギャンブル依存症にせよ、本来ならば「社会の責任」として扱うべきテーマを、「個人の自己責任」で片づけてしまう。これが東京の貧しさ、住みづらさの根源です。
東京は「あなたがどうなろうと、私には関係ない」という冷たい排他性が顕著に共有されているのです。田舎なんかより、よっぽど「よそ者に排他的」であることに気付いてください。
ちなみに私は「東京で「貧しい日本人」を排除する施設が増える訳」などで現在の東京では「排他性」が高まっているのではないか、という記事を書いている。俺ってもしかしてイケハヤだったのか……?
5.東京では、本当の自分が「疎外」されている
それは脇に置くとしても、この後に続く記述は、かなり硬派な「都市論」である。というか、ジェイコブスっぽい。すごく。長いけれど、引用する。
東京という都市が「包摂性」を獲得しない限り、格差は広がり、治安は乱れ、多様性は失われ、経済も衰退していくでしょう。[…]
東京のようなシステムが肥大化した街に住むと、個人として備えているはずの自然な倫理が損なわれ、「落ちてしまった人間」を受け入れる余裕がなくなるのでしょう。他人を助ける余裕なんてものは、東京に住んでる時点で、失われてしまうのです。
このような「人間として当然の倫理」が損なわれているから、東京では子育て世代を応援しようという人が少ないし、ホームレス問題も等閑視されてしまう。ジェイコブスは、近隣住民たちの「助け合い」や「協力」を重視し、再開発がそのようなコミュニティを生み出さなくなってしまうことを危惧した。両者の主張はどことなく似ている。
もう一つ、この記述で面白いのは、イケハヤの主張はマルクスのいう「疎外状態」をほぼそのままトレースしていることだ(本人が意識しているかしていないかはわからないが)。疎外状況とは資本主義によって、人間が本来あるべき姿でなくなってしまうこと。東京の街が資本主義とともに巨大になるにつれ、分業化が進み、個々人は社会とのつながりを見失ってしまう。本来は社会や自然とつながるはずの人間のあるべき姿が資本主義にまみれた都会では失われてしまう、というわけだ。イケハヤの言葉には随所に、マルクスの疎外論が見え隠れする。
異常な東京を離れて、人間として正常でいられる地方に、少しでいいので滞在してみてください。
ここから読み取れるのは、都会での暮らしが「あるべき人間の姿を疎外する」という認識だ。そして、ここからその文章は「だから田舎に行って、人間としてあるべき姿を回復しよう」となる。
ところで、多くの「移住本」は「田舎にいくと、『ほんとうの自分を発見できます』」と書いている気がする。この問題はまた連載の別の機会に詳しく検討するが、この「疎外論的アプローチ」は「移住」の問題を考えるときのヒントになりそうだ。
6.「ロンドンぎらい」と「『移住』のススメ」
話を戻そう。
イケハヤ氏と顔が似ている人物として、エベネザー・ハワードが挙げられることは言うまでもない(気になる人はネットで調べてみて欲しい)。
エベネザー・ハワードは1850年にイギリスに生まれた社会改良家である。同書でハワードは、当時のロンドンの劣悪な環境を脱し、郊外に計画された職住近接型の「田園都市」の建設を提唱した。その主張は『明日の田園都市』で細かく書かれている。
実は、イケハヤ氏とハワードは顔が似ているだけでなく、その主張もかなり似ている。ハワードも当時のロンドンの都心部について、イケハヤと同じような苛立ちを持っていたのだ。『明日の田園都市』の中で彼は「都市」の基本的特性を次のように書いている(一部抜粋、山形浩生訳による)。
自然の締め出し、仕事場から遠い、高い家賃や物価、失業者の群れ、スラムやジン酒場、群衆の孤立
仕事場から遠い、というのはイケハヤ氏が「東京では移動が多い」と文句を言うのと同じだろう。そして「高い家賃や物価」は言わずもがな。さらにイケハヤ氏が「東京は排他性」が高い、といっているのはホームレスなどを見てのことだが、「失業者の群れ」や「スラム」といった言葉もそれに近い。
むろん、当時のロンドンの状況と現在の東京の状況がまったく同じだとはいわないが、それでもハワードが都市に感じていた「住みづらさ」の多くの部分はイケハヤ氏とかなり似ている。イケハヤ氏が「東京ぎらい」だとすれば、ハワードは「ロンドンぎらい」で、ある意味で二人とも「都会ぎらい」だったのかもしれない。
それに、ハワードはいわゆる「社会主義者」で資本主義に対する懐疑を持って、社会の改良を行おうとする人間だった。マルクスなどのハードな共産主義とは立場が少し異なるけれども、資本主義自体が「人間性」を損なうと考えていたのは似ている。その点でも、時代を隔てたイケハヤ氏とハワードの主張は通底するものがある。
そして、イケハヤ氏が最終的に「田舎への移住」を勧めるのと同様、ハワードはロンドンとは離れた場所に、理想とする「田園都市」の建設を主張するのだ。イケハヤ氏が移住を勧める100年前ぐらいに、すでにハワードはより大規模な形で「移住」を勧めていた。
「移住ブーム」は100年以上前から存在していたのだ。
7.「都会ぎらい」が語る「田舎」の姿とは
唐突にハワードの議論を持ち出したように感じるかもしれない。しかし、実はハワードとイケハヤ氏の議論を比較することで、イケハヤ氏が語ろうとしている「田舎」の輪郭も明確になってくる。
今回は、いくつかの都市論を見ながら、『まだ、東京で消耗してるの?』が「都市の問題」を語るという都市論の伝統的な話法に乗っ取った本として読めること、そしてその都市観は、ハワードの都市観と類似していることを確認してきた。
では、その結果としてイケハヤ氏が積極的に移住を勧める「田舎」とは一体どんな場所なのだろうか? 次回は引き続き、イケハヤ氏とハワードの議論を比較させつつ、彼らが目指す「田舎」ないしは「田園都市」の輪郭を見ていきたい。
(次回へ続く)
東京における再開発ラッシュやそれに伴う反対運動、新しい商業施設への批判、いまだに報じられる地方移住ブーム……なぜ人々は都会に住みにくさを感じるのか。全国のチェーンストアや東京の商業施設の取材・研究を続けているライター、谷頭和希がその理由を探求する。
プロフィール
たにがしら かずき チェーンストア研究家・ライター。1997年生まれ。早稲田大学文化構想学部卒業、早稲田大学教育学術院国語教育専攻修士課程修了。「ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾 第三期」に参加し宇川直宏賞を受賞。著作に『ドンキにはなぜペンギンがいるのか』 (集英社新書)、『ブックオフから考える 「なんとなく」から生まれた文化のインフラ』(青弓社)。