都会ぎらい 第6回

移住願望とユートピア幻想

谷頭和希

前回からは「移住」について考えている。都会を逃れる行為である「移住」を検討し、「都会ぎらい」の考察を深めよう、というわけだ。
そこで取り上げたのが、2010年代「移住」ブームの象徴的な書籍であるブロガー・イケハヤ氏の『まだ、東京で消耗してるの?』(幻冬舎新書)。内容は簡単にいえば、東京という過密で暮らしにくく競争が激しい街を捨てて、みんな田舎に行こうぜ!というもの。
興味深いのは、同書は「移住」の本であると同時に「都市論」の本としても読めることだ。実際、そこでは東京という街がいかに暮らしにくく、社会的弱者に厳しく、排他性が高い街であるかが語られている。

面白いのは、そこで語られる東京の問題が、かの有名なエベネザー・ハワードが語るロンドンの姿と重なることだ。後でも触れるが、ハワードが提唱した「田園都市」の考え方は、ロンドンの都市問題を背景に、都市と農村のよいところを合わせた形として提唱された。ハワードが語るロンドンは、たくさんの建物が建つことによる環境汚染や人口過密、さらには貧富の格差によるスラム化した街区が問題になっており、今も昔も都市に関する問題の本質は変わらないのだな、と思わされる。こうした点で、イケハヤ氏の本は、かなり都市論的な色彩を強く持っている。
では、同書の中でイケハヤ氏は、都市から逃れる先の場所としての「田舎」を、いったいどのように語っているのだろうか。そこは、都会で噴出している問題を解決してくれる場所なのだろうか。

地方にクルマは必要ないのか?

……ということで、『まだ、東京で消耗してるの?』に描かれている田舎の姿を解読し始めたのだが、ここでびっくりすることが起こった。
突っ込みどころが多すぎて、前に進まないのだ。この本、東京というか都市部の記述に関しては解像度が高いのだが、移住後の生活の話になったとたん、主張が曖昧なところが多く出てくる。
このような曖昧さを生み出しているのが、イケハヤ氏が「『田舎』の多様性」を等閑視していることだ。「田舎」といっても、いろいろな姿がある。ある程度は電車が通っている地方の駅前なのか、あるいはその駅から数キロ離れた国道沿いの住宅街なのか、それとも車で1時間以上かかる山奥の山村なのか。特に「移動」の問題は、その人間の暮らしを大きく左右する。イケハヤ氏はこう述べる。

 『自動運転車』が普及するまでは「クルマがないと生活できない」というのは、残念ながら真実です。

 が! それはあくまでも田舎の山間部の話です。

 地方にはどこでも中心的な都市があり、得てしてそこは「コンパクトシティ」で暮らしやすい場所になっています。高知だと、中心である「高知市」はまさにコンパクトシティで、市内で生活するだけならクルマは完全に不要です。

もし、これをお読みの方で「地方の中心都市」に住んでいる人がいれば、もうこの段階でめちゃくちゃ突っ込みたくなると思う。「それって高知市だけの話ですよね?」と。確かに、一部の都市では自家用車を持っていなくても駅前のみで生活ができるかもしれない。しかし、近年、「駅前」の荒廃はすさまじい。もはや何度言われてきたかわからないが、その要因は、1970年代以降に進んだモータリゼーションとそれに伴う郊外化である。

私は現在、香川県の丸亀市と東京で二拠点生活をしているが、丸亀がいい例だ。丸亀は香川でいえば、県庁所在地である高松に次ぐ第二の都市。しかし、丸亀駅前の商店街の荒廃ぶりはすさまじい。ほとんどの店が閉まっている。駅前にはスーパーが1軒とコンビニが数軒、さらにちょっと歩いて丸亀城の方までいくと(ちなみに、丸亀城は日本で一番高い石垣があるので、ぜひ見に来てください)、ドンキとスタバがある。飲食店はチラホラ点在しているが、買い物となると駅前だけですますにはなかなか厳しい。ドンキがかなり頑張ってくれてはいるが、車が無ければ、ドンキ・スタバ・地域の飲食店だけで生活をしなければならない。

前回も取り上げたが、イケハヤ氏は本の中で「人間として正常でいられる地方に、少しでもいいので滞在してみてください」という。しかし、「地方」であるところの丸亀に車無しでいると、毎日ドンキとスタバを往復することになる。チェーンストア研究家としては「人間らしい暮らし」と言いたくなるところだが、そうは思わない人の方が多いだろう。

一方で、駅前から数km車を走らせたところにある、国道11号線は活況を呈している。ショッピングセンターや、家電量販店、ユニクロ、うどん屋などなど、基本的に丸亀の中心市街地はこの11号線沿線なのでは、と思うほどだ。ちなみに11号線沿いではないが、その近くにはショッピングモール「ゆめタウン」があり、ここまで揃えば、人間らしい生活もできるかな、と思う。筆者は都市ジャーナリストとして様々な地方都市を訪れてきたが、状況は似たようなものである。「駅前中心主義」から「ロードサイド中心主義」への転換が街の変化として、明確に発生している。事実、日本の自家用車保持台数は年々増加の一途を続けており「自動車が無くても地方は大丈夫」というのは、イケハヤ氏自身の経験の過度な一般化である。

いずれにしても、イケハヤ氏の述べる「地方」やら「田舎」の輪郭はかなりぼんやりとしている。

美化される<田舎>

ヤバいのは、イケハヤ氏が「というわけで、『地方ではクルマが必需品だ』みたいなのは基本的に妄想なので、勘違いしている人は認識を改めましょう」と、したり顔で(知らんけど)述べた数行後だ。イケハヤ氏はこう書く。

 かくいうぼくも山奥に住んでますが、妻ともども、特に不便は感じていません。
 車で15分も山を降りればそれなりに大きなスーパーがあり、山のなかですが、新鮮なカツオのたたきも手に入ります(さすが高知!)。

おい、車持ってんじゃねえかよ。「さすが高知!」じゃねえよ。
と心の声が出ちゃったが、この前にイケハヤ氏は、「山間部ではクルマは必要、俺も持ってる」的なことをチラッと書いており、嘘をついているわけではない。が、普通に文章を読んでいると、移動手段に対するスタンスがわざと曖昧にされているような印象も受ける。イケハヤ氏自身の話なのか、一般論として述べているのか、なんだか曖昧なのだ。

こうした曖昧さは、おそらく意図的なものだろう。

先ほども書いた通り、本書の主眼は「問題だらけの都会を捨てて、田舎に行こう!」とアジることにある。であれば、「田舎」なり「地方」は、都会の問題を全て解決してくれる「パーフェクト」な場所として描かれなければならない。だからこそ、単純化して「美化」する必要がある。というわけで、イケハヤ氏が書く田舎は特別な意味合いが持たされているということで、<田舎>とでも表記しておく。

同書では、<田舎>における「人の助け合い」が、東京とは数段違うことも強調されている。よく言われる「人と人との暖かな心のふれあい」といったところだろうか。しかし、それだって<田舎>の水準をどこに置くかによって異なる。それこそ、2000年代に三浦展が指摘したように、ロードサイドに住む人々は車、大型量販店、ショッピングモール、と個人化された場所を行き来することにより、人同士の温かな交流を失っている(まあ、この話もやや極端な物言いではあるが)。私自身、丸亀の郊外に住んでいて、東京にいるよりもむしろ人間との交流が少ないことを感じる。車は究極の個人空間だし、ショッピングモールとて、人との交流があるかと言われれば、そんなことはない。

やはり、この記述においても、イケハヤ氏は過度に<田舎>を美化している。

なぜ、イケハヤ氏は高知を「フロンティア」と呼ぶのか

こうしたイケハヤ氏のスタンスが明確に表れているのが、この言葉だ。

この本で強調したいのは、地方はビジネスにおける「フロンティア」であるということです。

「フロンティア」とは、「最前線」という意味があるが、同時に思い浮かぶのはアメリカの西部開拓時代における「フロンティア」の意味だ。まだ開拓されていない場所、あるいはこれから自分たちが好きなように開拓できる場所、そんな意味合いがある。ちなみに、2016年よりイケハヤ氏は「合同会社 日本の田舎は資本主義のフロンティアだ」の代表を務めている。そんな会社名ってあるか。いずれにしても「フロンティア」が好きなようだ。

この「フロンティア」という言い方から、イケハヤ氏の<田舎>観の一端を知ることができる。アメリカの500年以上におよぶ建国の精神史である『ファンタジーランド』を書いたカート・アンダーセンは、アメリカを突き動かしてきたのは、この「フロンティア」をはじめとする、「ユートピア幻想」だったのではないか、と大胆な予想をしている。

アメリカの「創世の神話」として知られている有名な話だが、そこは、イングランドやオランダを追われた急進的なピューリタン(キリスト教プロテスタント分離派の一集団)たちが入植したことで広がった。彼らは、当時開発され始めていたアメリカ大陸に目を付け、そこを自分たちの宗教的な思想を多分に発揮できる「ユートピア」と考えていた。メイフラワー号に乗って、マサチューセッツへと降り立った彼らは、「神政国家」という「神の意思」による政治が行える国家を樹立する場所としてアメリカ大陸を選んだ[1]

ただ、その言説の中では、元々そこにいたネイティブ・アメリカンたちはほとんど視野に入っておらず、それはアメリカ大陸という歴史を等閑視した一種の「幻想」であった。その後にやってくる「西部開拓時代」も同様だ。広いアメリカ国内の中での「ユートピア」(西部開拓時代の場合は「理想郷」ならぬ「黄金郷」かもしれない)である「フロンティア」を開拓者たちは追い求め続ける。

まさに、<田舎>を「資本主義」のフロンティアと表現するイケハヤ氏の言葉からは、彼がそこを一種の「ユートピア」として考えている姿が浮かび上がってくる。

「ユートピア」としての<田舎>


というか、イケハヤ氏の言葉を紐解いていくと、その態度はほとんど、ピューリタン的なのである。彼は明らかに高知で自らの「国」を作ろうとしている。『まだ、東京で消耗しているの?』には「自分の手で『国』を作りませんか?」という章があって、こう述べられている。

 地方では、自分の力で社会システムすら作れてしまうんですよ。いってみれば「国づくり」です。

 ぼくはこんな夢を見ています。まず、がっぽりお金を稼ぎます。で、住民税を納めて魅力ある町にしていただきます。ビジネスをどんどん拡張し、優秀な若者を雇用し、街の経済、コミュニティを豊かにしていきます。若者のなかには、NPOを経営する人、政治家を目指す人も出てくるでしょう。そうなれば、高齢者しかいない政治の現場は、徐々に若返っていきます。[…]

 うまくすれば、ぼくら若い世代は、自分たちが望む理想の社会を、自分たちの手で作ることができます。東京は大きすぎて無理でも、規模の小さい地方なら自分たちの「自治区」を作ることができます。これ、すごくワクワクしませんか?

 SF的にいえば、うまくいくと、将来は「実質的に独立している小国家」が日本に乱立するようになると思います。中央に頼らないで済む経済・社会システムを作れば、「日本国」である必要はないのです。[…]

 国作りましょう、国。待ってます。

 
イケハヤ氏はこの後、実際に「ユーザー参加型の農村テーマパーク的フィールド」である「イケハヤランド」を作っている。「ランド」には「国家」という意味があるが、これが上記のような狙いのもと作られたのは確かだ。

イケハヤ氏にとっての移住とは「国づくり」であり、高知とは彼にとって理想の国づくりができる「ユートピア」だったのだ。

先ほども指摘した通り、現実を見れば、<田舎>がひとくくりには出来ないことは明らかで、本書での主張には無理があることは明確だ。ただ、イケハヤ氏は<田舎>を「ユートピア」として考えていた(あるいは、読者にそう思わせたかった?)からこそ、そのように描かざるを得なかったのだ。

ちなみに、カート・アンダーセンの前掲書では、アメリカにおいてこの「ユートピア幻想」という「フィクション」が根強く信じられすぎた結果、それが幻想なのか現実なのかわからなくなることが起こってしまう、という。これは、完全なる主観ではあるが、イケハヤ氏の田舎に対する記述も、どこかそんなことを感じさせる。本書の基本的なスタンスは、イケハヤ氏が「盛って」いるものなのだろうが、どこかイケハヤ氏が自身で書いていることを強く信じているようにさえ思えてくる。彼は本当に<田舎>が素晴らしい場所であると信じている(気がする)。しかし、その<田舎>は「幻想」である。

「郊外」もユートピアだった

カート・アンダーセンの『ファンタジーランド』が興味深いのは、こうした「ユートピア幻想」がその後のアメリカのさまざまな文化を作っていったと述べていることだ。

例えば、その一つが「郊外幻想」。

アメリカの郊外生活を強力に推奨した建築家、フランク・ロイド・ライトは「アメリカを東海岸から西海岸まで郊外にするのが、新たなアメリカの『自明の宿命』」だとし、「私たちの開拓の日々はまだ終わっていない」と述べたという。ライトがこのように述べた背景には、アメリカで爆進する都市化に対する苛立ちがあったからだとカート・アンダーセンは言う。そんな都市とは異なり、緑に囲まれた「かつての古き良きアメリカ」を彷彿とさせる美しい場所が郊外住宅にはあると考えた。大都会の汚れのない「ユートピア」が郊外だというわけだ。

こうしたライトの思想には、彼が幼少期を過ごしたリバーサイドという郊外住宅地も影響している、とカート・アンダーセンは推測する。これはアメリカではじめての郊外住宅地で、オルムステッドとヴォークスという2人が設計した。そこは、明らかにかつてのアメリカの村の姿が再現されていたという。今は無い、かつてのアメリカの姿を再現した場所から「郊外」は始まった。

さらに、ちょうどこの頃には、「Suburb(郊外)」と「Utopia(ユートピア)」を結びつけた「Suburbia(サバービア)」という言葉も生まれていた。これは、今では「郊外」の英訳であるが、そもそも「郊外」は「ユートピア」だったのだ。

「都会ぎらい」の歴史は、「ユートピア」を求める精神史である

さて、そんなリバーサイドを渡米中に見て、影響を受けたのが、他でもないエベネザー・ハワードである。ここで、イケハヤ氏とエベネザー・ハワードがつながる。美しいリバーサイドの街並みを見たハワードは、これを着想源として、ロンドン郊外に美しい田園都市を計画することを思いつく。それを建設するべく、投資家向けに具体的な計画案として書かれたのが『明日の田園都市』だ。

最近の研究では、ハワードは田園都市構想の中で、キリスト教における「千年王国」を作ろうとしていたということがわかっている。これは、一種の「地上の楽園」で、まさにユートピアのことである。長谷川章の『田園都市と千年王国』は、これに加えて、まさにここで今語ってきた西部開拓時代におけるフロンティア・スピリット、さらにアメリカでの郊外生活もまた、一種の「ユートピア」を求める「精神都市」の一種であることが示されている[2]。汚れた都会を逃れ、<田舎>というユートピアを求める運動こそが、ハワードの「田園都市論」であり、アメリカの郊外造成だった[3]

そして構造的には、イケハヤ氏にとっての移住も、同じような色合いを持っている。彼にとって高知は「地上の楽園」であった。そこで彼が自分の理想とする国家を作ろうとしていたことは、先ほど引用した通りだ。その姿は、ピューリタンが約束の地を求めてアメリカに流れつき、ハワードが千年王国を求めて田園都市を作ろうとした姿に重なる。

ただ、アメリカの郊外都市やハワードの田園都市が宗教的なビジョンの反映だとすれば、イケハヤ氏の「イケハヤランド」は「儲かる」という資本主義的なビジョンの反映である。宗教的な精神は無い。もはや、現代では「資本主義」が「神」のポジションに鎮座していることの表れかもしれない。
そのような違いはあるが、やはりイケハヤにとっての「移住」・ハワードにとっての「田園都市」・アメリカにとっての「郊外都市」は、やはりその構造的なレベルで似ている。問題だらけの都会を脱出し、ユートピアとしての田舎を求め、そこに自分だけの王国を作る、という点で、だ。

すでに、『明日の田園都市』と『まだ、東京で消耗してるの?』における「都市観」が近いことは、本稿の冒頭部分、および前回の連載で書いてきたことだが、二人の態度に共通するのは「都会ぎらい」であった。だとすれば、彼らに見られる「ユートピア幻想」とは、まさに「都会ぎらい」の表れなのではないだろうか。日本・アメリカ・イギリスと場所もバラバラで、時代もバラバラではあるが、これらの動きはすべて「都会ぎらい」という言葉でまとめることができるのではないか。

「都会ぎらい」の歴史は、「ユートピア」を求める精神史なのかもしれない。

「都会ぎらい」を考えるためのヒント

ところで、「国家を作る作業」として「移住」を捉えたのがイケハヤ氏であったが、同じように、「移住」と「独立国家」を結びつけて考えた人物がいる。

アーティストの坂口恭平だ。彼は『独立国家のつくりかた』にて、移住先の熊本でどのように「独立国家」を作ったのかを書いている。坂口の「移住」については、検討が必要だろう。

また、今回の収穫の一つは「都会ぎらい」と「ユートピア幻想」の関係について言及できたことだ。となれば、次にしなければならないのは「ユートピア幻想」の歴史を振り返る作業である。トマス・モア『ユートピア』などを思い浮かべることができるが、いったいこの思考にはどのような歴史があったのだろうか。そして、それは「都市」とどのように関わってきているのだろうか。これも探求する必要がある。

いずれにしても、イケハヤ氏の「田舎」を探ることで、「都会ぎらい」の次につながる多くの論点が見えてきた。


[1] ちなみに、『ファンタジーランド』の主題は少し異なるところにある。実は、ピューリタン上陸以前もすでに、アメリカに入植していた人々はいる。彼らは「アメリカにはたくさんの黄金があって、アジアにも抜けられる」という一種のフェイクニュースを信じてアメリカに行っていた。しかしそれはフェイクニュースだから、アメリカ各地で黄金が出るわけはない。しかし、後年のアメリカ人はこうした「フィククニュースを信じた人」ではなく、「神の意思に従ったピューリタン」を自分たちの祖先として選んだ。ここに、トランプ大統領誕生までに通じる「見たいものを見る」アメリカ人の国民性が表れている、というのだ。
[2] また、先ほども書いたピューリタンたちもこの「千年王国」思想を強く持っていたので、ハワードとこのピューリタンたちの思想の連続性があるのは当然のことだ。
[3] ただし、ハワードの『明日の田園都市』をよく読めばわかるように、「田園都市論」は、都会のよいところと田舎のよいところを折衷させる意味合いが強い。その点で、単純に「都会から田舎へ」というまとめ方は出来ないが、少なくともハワードが都市ではないユートピアを求めたことは確かだろう。

 第5回
都会ぎらい

東京における再開発ラッシュやそれに伴う反対運動、新しい商業施設への批判、いまだに報じられる地方移住ブーム……なぜ人々は都会に住みにくさを感じるのか。全国のチェーンストアや東京の商業施設の取材・研究を続けているライター、谷頭和希がその理由を探求する。

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プロフィール

谷頭和希

たにがしら かずき チェーンストア研究家・ライター。1997年生まれ。早稲田大学文化構想学部卒業、早稲田大学教育学術院国語教育専攻修士課程修了。「ゲンロン 佐々木敦 批評再生塾 第三期」に参加し宇川直宏賞を受賞。著作に『ドンキにはなぜペンギンがいるのか』 (集英社新書)、『ブックオフから考える 「なんとなく」から生まれた文化のインフラ』(青弓社)。

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