「ステイホーム」でスマホから離れられなかった私たちが、ポスト・トゥルースについて考えるべきこと
そこで第二のオプションがある──少なくともある種の人々にとって。それは、ドラッグを変えること。「我々の目にそれほど負担をかけないデジタルエコシステム(訳注:メディアや通信業界などの企業群が、自然の生態系にも似た経済的な依存関係や協調関係を構成すること)は、誰にとってもよい結果となり得る──没入性や中毒性がより少なく、マルチタスキングにより有益で、社会的に受け入れられやすく、おそらく我々の政治や社会関係への癒しにもなる」とマンジューは熱心に説く。しかし、こうした遠大な主張は信じがたい。テクノロジー過多に対する解決策がさらなるテクノロジーだと、どうして我々は想像しなければならないのか? 声に反応する個人アシスタント型テクノロジーが検索結果やプランを即座に示してくれるからといって、魂を吸い取るスクリーンよりも、いかに「没入性や中毒性がより少なく」なるのか? 確かに、視覚による刺激は我々が経験するなかで最も強力なものだろう。しかし、少なくともスクリーンがあれば、自分が中毒に隷属し、そして中毒を引き起こす関心経済(アテンション・エコノミー)企業(訳注:人々の関心を取引の材料とする企業)の利害に隷属していることがわかる。常に付き添ってくれる親切なデジタル執事(バトラー)として企業のエージェントが家のなかに招じ入れられるようになったら、魂とソフトウェアのスムーズな統合は完成したことになるのではないか。この分析では、革命に対する熱い期待が感じられるが──「革命」という言葉が見出しにも使われている──新しい段階の偏在的つながりがいかに政治や社会関係への「癒し」になるのかは、具体的にほとんどわからない。政治や社会関係も、いまではソーシャルメディアの形で、間違いなくテクノロジーによって汚されているではないか。正確には、いかにして脱スクリーンのネットワークが我々の助けになるのだろう? アレクサは我々に代わって投票したり、我々のためにロビー活動をしたり、してくれるだろうか? シニカルな結論を述べても責められはしないはずだ。ここで起きている唯一の革命は、すでに支配的なテクノロジーの大企業が、また新しいおもちゃを我々に差し出し、遊びなさいと言っているだけなのである。
そして最後に、正直になろう。世俗の仕事をすべてアレクサかシリに託したとしても、私にはまだ認識の容量がたくさん残っている。それは意味がなくても強制力の強いアプリやゲームの侵略を受けやすく、こうしたものによって消去されてしまいかねない。スクリーンはまだ上限に達していないのだ。中毒はまだ、我々の目を通して、脳の美味しい部分にはびころうとしている(中毒に関しては第3部でさらに述べる)。
もちろん、こうしたツールのすべてのユーザーが退屈していて、孤独なわけではないのは、ソーシャルメディアの参加者が挑発的なことを書く人ばかりでないのと同じである。しかし、テクノロジーは決して中立的なものではない。その傾向や偏向は、使いやすさや親しみやすさによってしばしば打ち消されているが、実際のところ我々の返答や反応を条件づけ、我々の不安定な主体性の諸要素を形成しさえする。我々が日常生活でウェブサイトのために費やす時間とタイピングは、意味とつながりを約束するものだ。我々は、インターフェースのお気に入りの名詞を動詞化した言葉で言えば、「友達している」。しかし、キーボードが約束する「意味」は、芸術が約束する幸福と同様、永遠にその実現を先延ばしにされているように思える。ときに我々は退屈からスクリーンに向かうが、それ以上頻繁ではなくても同じくらい頻繁に、スクロール自体の過酷な退屈さをそこに見出すだけである──気晴らしを求めた場所でまた気晴らしに逃げ込むことになる。このことは我々がスクリーンとキーボードから離れ、声で指示できるようになったとしても、変わりようがない。人工知能は我々が関心を抱くために、つまり我々が──アマゾンでの購入であれ、気まぐれなツイートであれ──何かとつながりたいという悲しい習性を持つために、どんどん強力なものになっていき、こうして半ば壊れた人間たちからの抵抗はほとんど受けることがないのである。我々はより強い刺激でも緩和できない倦怠感に溢れ──我々の精神という液体はすでに過飽和状態なので──もっと目的と一貫性を持つ人工知能たちに簡単に騙されてしまう。我々は結局のところ、この幽閉状態を進んで受け入れたのだ。孤独は、約束されたつながりの影絵芝居において、さらに孤独を生み出してしまう。
(第5回へ続く)
「ステイホーム」の号令下で、いつもとはまったく異なる日々を自宅で過ごした読者も多かったのではないだろうか。スマホやパソコンを手放すことの出来ない時間が飛躍的に増え、コミュニケーションから生活、余暇のすべてがこうしたデバイスに支えられていることを実感しただろう。カナダでポピュラーな哲学者・Mark Kingwellが「退屈」という概念を哲学的に考察することで、こうした事態を巡る問題に警鐘を鳴らした『退屈とインターフェース』から、現下の状況に関わりの深い第二部をアメリカ文学研究者、上岡伸雄の翻訳連載で送る。
プロフィール
1958年生まれ。翻訳家、アメリカ文学研究者。学習院大学文学部英語英米文化学科教授。東京大学大学院修士課程修了。1998年アメリカ学会清水博賞受賞。フィリップ・ロス、ドン・デリーロなど現代アメリカを代表する作家の翻訳を手がけている。著書に『テロと文学 9.11後のアメリカと世界』、『ニューヨークを読む』、訳書に『リンカーンとさまよえる霊魂たち』、『ワインズバーグ、オハイオ』、共著に『世界が見たニッポンの政治』など。