マーク・キングウェル『退屈とインターフェース』を読む 第3回

「ステイホーム」でスマホから離れられなかった私たちが、ポスト・トゥルースについて考えるべきこと

③スクリーンという「怪物」
上岡伸雄

新型コロナウイルスが猛威を振るう最中、「ステイホーム」の号令下にあって、いつもとはまったく異なる日々を自宅で過ごした読者も多いのではないだろうか。外出機会が制限される一方で、ウイルスを巡っての深刻なニュースが矢継ぎ早に飛び込んでくるとあっては、必然的にスマホやパソコンを手放すことの出来ない時間が飛躍的に増えただろう。それだけではない。リモート会議などのコミュニケーションから生活を支えるオンライン通販、映画や音楽の視聴といった余暇まで、在宅におけるすべての事柄がこうしたデバイスに支えられていたとさえ言える。

wavebreakmedia / PIXTA(ピクスタ)

 

2019年4月、カナダでは非常にポピュラーな哲学者であるMark Kingwellが「退屈」という概念を哲学的に考察することで、こうした事態を巡る問題に警鐘を鳴らす一冊『退屈とインターフェース』を上梓した。その中でも現下の状況に最も関わりの深い第二部を、ドン・デリーロやフィリップ・ロスなどの翻訳で名高いアメリカ文学研究者、上岡伸雄の翻訳連載で送る。


 

(第2回より続き)

 悲しいかな、理性の権威を求める哲学の主張は、常に安定しているというより希望的なものだった。どんな主張をするにも真実に対する基本的な敬意がある──どんなに奇怪で、証明されていなくても──と我々は言いたい。毎晩評論家たちの討論を見たり、毒の利いた独断的意見をスクロールしたりしていれば、我々はそれを疑わざるを得ない。こうしたものがかぶっているのは理性を装った殻──弁論部的なテクニックと、このレトリックこそが言論であるという集団的妄想に守られた言論の鎧である。我々はマルティン・ルターがしたように、二種類の理性を区別しなければならない(もっとも、ルターは優先順位を間違えていたが)。一つは聖職者の理性で、それはすでに存在している信念に奉仕するよう議論を形成して配備し、自分はこれ以外を信じないということをほかの者に納得させる。もう一つは行政官の理性で、対照的に自律的であり、真実を追求する開けた議論をする──真実が必ずしも見つからなくても。もし証拠と議論が私の以前から抱いている信念と相いれないのなら、理性はその信念を変えるようにと要求する。

klss / PIXTA(ピクスタ)

 

 その一方で、これらを追求している者にとって、グーグル、フェイスブック、アマゾンは日に日に賢くなっていく。その進化したアルゴリズムはあなたの検索の質問や友達リクエスト、あるいは買い物の好みなどの形でデータを追跡して集積し、新たな結果を生み出して、驚くべき──あるいは、おそらく恐るべき──正確さであなたの性格を読み取ることができる。ある時点で、アルゴリズムは私が自分を知る以上に私を知ることになる。その大きな理由は──ジル・ドゥルーズがディヴィジュアルに関する洞察(「訳注:個人(individual)は複数のdividualからできているという考え方)で示したように──こうした質問やリクエスト、好み以上のものとして、我々が大事にしている個性的な内的自己というものがあるのかどうか、ますますはっきりしなくなっているからである。これくらい進化したアルゴリズムは新しい形の人工知能となり、我々がテクノロジーに没入していることを通して我々を利用する。このような企業体に対抗するために我々にできることは──それが特権的な人々の日常生活からまったく切り離せなくなっているだけに──包括的な拒絶だけである。あなたはアマゾンに提供する自分のデータを選択することはできない──あなたの買うすべての品目がデータ要素であり、あなたのこれまでのデータやこれからのデータと照らして──それから、ほかのすべての人たちのデータと照らして──さらなる分析に使われるのだから。

ZARost / PIXTA(ピクスタ)

 

 そのような拒絶の道を選ぶこともできるが、アマゾンはあなたの生活で不可欠なものとなることに全力を傾けており、次々と売り物を提供しようとしてくる。数時間のうちに届けてくれることもあるし、あなたの留守中に(あなたの許可を得て)家のドアを開け、安全な場所に置いてくれることもある。それを拒絶するのは、AからZに向かって矢印が伸びているアマゾンのロゴ──それは意味深ないたずらっぽい微笑みに見えてくる──に慣れてしまっていたら、かなりのものを失うように思えるだろう。こうした多様なサービスによって、アマゾン創業者のジェフ・ベゾスは、2018年現在、1431億USドルもの個人資産を築き上げた。私がこの数字を知ったのは、もちろんグーグルの検索による。グーグルなしの調査は、私のような伝統主義者にとってさえ、ほとんど考えられなくなった。自分がこれを書いているのと同じスクリーンを使って、ブラウザーのウィンドーを立ち上げ、スペリングや事実をチェックしたり、自分がはっきりと思い出せない参考文献を確認したりするのは、実に簡単なことだ。そしてここでも、私のデータを制限したりフィルターにかけたりするといった選択肢はない(ブラウザーの履歴を削除することはできるが、検索履歴は別のところですでに記録されている)。

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「ステイホーム」の号令下で、いつもとはまったく異なる日々を自宅で過ごした読者も多かったのではないだろうか。スマホやパソコンを手放すことの出来ない時間が飛躍的に増え、コミュニケーションから生活、余暇のすべてがこうしたデバイスに支えられていることを実感しただろう。カナダでポピュラーな哲学者・Mark Kingwellが「退屈」という概念を哲学的に考察することで、こうした事態を巡る問題に警鐘を鳴らした『退屈とインターフェース』から、現下の状況に関わりの深い第二部をアメリカ文学研究者、上岡伸雄の翻訳連載で送る。

関連書籍

テロと文学 9.11後のアメリカと世界

プロフィール

上岡伸雄

1958年生まれ。翻訳家、アメリカ文学研究者。学習院大学文学部英語英米文化学科教授。東京大学大学院修士課程修了。1998年アメリカ学会清水博賞受賞。フィリップ・ロス、ドン・デリーロなど現代アメリカを代表する作家の翻訳を手がけている。著書に『テロと文学 9.11後のアメリカと世界』、『ニューヨークを読む』、訳書に『リンカーンとさまよえる霊魂たち』、『ワインズバーグ、オハイオ』、共著に『世界が見たニッポンの政治』など。

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