なぜ働いていると本が読めなくなるのか 第7回

1980年代の労働と読書―女たちのカルチャーセンターとミリオンセラー

三宅香帆

1. バブル経済と出版バブル

「嫁さんになれよ」だなんて言えない時代になっても

「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの

(俵万智『サラダ記念日』河出書房新社、1987年)

こんなシチュエーション、どう考えても令和には起こり得ない。と、80年代のベストセラー『サラダ記念日』に収められた歌を読んで、苦笑してしまう。

今や結婚の二文字は缶チューハイ2本で冗談めいて言えるような気軽なものではなくなったし、そもそも「嫁さん」になってもない女を「嫁さん」という呼び方をする男を令和の女は信頼しないし、ていうか「カンチューハイ」を男女ふたりでいる時に飲む人って今どれくらいいるのだろう。

しかしこの歌が詠まれた1980年代には、これがリアルだったのだろう。この歌が収録された『サラダ記念日』は1980年代後半に刊行され、そして瞬く間に大ベストセラーになり、1年で250万部を超えた。この歌が若者たちの心を掴んだのだ。今となっては、男性が「嫁さんになれよ」なんて気軽に言えていた時代から遠くにやってきたな、という実感しか浮かばないけれど。

が、そんな80年代から遠く離れた時代になっても、ずっと変わらないことがある。

「若者の読書離れ」という言葉である。

現代においては「若者の読書離れ」なんて言われても、スマホがあると本を読まないのは仕方ないよねうんうん、と頷くほかない。が、実は「若者の読書離れ」という言葉が定着したのはなんと50年も前のことだったのだ。

1970年代後半から言及され始めた「若者の読書離れ」という言説は、80年代には既に常識と化していた。読売新聞と朝日新聞で「若者の読書離れ」を問題にした記事を調査すると、1980年代に激増していたという(清水一彦「「若者の読書離れ」という“常識”の構成と受容」2015年)。

日本人はほぼ半世紀もの間、ずっと「若者の読書離れ」を憂いてきたのだ。

ミリオンセラーと長時間労働サラリーマン

しかし少なくとも1980年代、出版業界の売り上げはピークを迎えつつあった。

1985年のプラザ合意から始まった「バブル景気(バブル経済)」の好景気に日本社会は沸いた。そして世間と同様、出版もまた、バブルに沸いていた。出版科学研究所の算出した出版物の推定販売金額によれば、80年代の売り上げは右肩上がり。70年代には1兆円の売り上げだった出版業界が、90年代初頭には2兆円を超えるのだ。ほとんど倍の盛り上がりだ。出版業界倍増計画の時代、それが80年代だった。

80年代に刊行された具体的な書籍の名前を挙げると、黒柳徹子の私小説『窓ぎわのトットちゃん』(講談社、1981年)は500万部を突破し、村上春樹の小説『ノルウェイの森』(講談社、1987年)は350万部、俵万智の歌集『サラダ記念日』は200万部を突破、吉本ばななの小説『TUGUMI』(中央公論社、1989年)は140万部を突破した。どれも1~2年で売れた数である。売れ過ぎである。歌集や私小説が、何百万部も売れる世界。

2023年現在、YouTuberの本が30万部超えで「売れ過ぎだ」と驚かれ、新人歌人の本が書店にたくさん並ぶだけで「短歌ブームだ」と感動する世界あることを考えると……80年代はもはや異世界だ。景気が良すぎる。

80年代、読書離れなんてしていたはずがない。――80年代から40年後の今となっては誰もがそう思うだろう。

一方で、長時間労働をしているサラリーマンもまた、右肩上がりで増えていた。80年代の終わりごろ、平日一日当たり 10 時間以上働くフルタイム労働者の割合は3人に1人ほどになっている(黒田祥子「生活時間の長期的な推移」2010年)。そして平日の余暇の時間も、70年代と比較すると、男性においては減りつつあった(黒田祥子「日本人の余暇時間  長期的な視点から」2012年)。

平日の長時間労働が増えた結果、余暇が減っていたのである。働く男性たちは、どんどん余暇がなくなってゆく。

はたしてなぜ80年代には、長時間労働も増えているのに、読書文化もまた花開いているのだろうか。

考えてみれば、バブルという華やかな時代の印象と、読書という地味なメディアの印象は、どうにもずれているような気もしてくる。景気がいい時、本は売れるのだろうか? みんな長時間労働で疲れて本なんて読めないのではないのだろうか? 

「嫁さんになれよ」と言う男たちは、そして言われていた女たちは、いつ本を開いていたのだろう。

2.「コミュ力」時代の到来

サラリーマンに読まれた「BIG tomorrow

前回で見たように、70年代のサラリーマンたちの読書風景として象徴的だったのは、通勤電車で読む司馬遼太郎の文庫本だった。それは高度経済成長期を終え、徐々に「自助努力」が説かれつつあった企業文化の産物でもありながら、それでいて教養や修身を重視する勤勉なサラリーマン像の象徴だった。

対して、80年代の出版バブルを支えていた存在。それは、雑誌であった。

たとえば1980年に創刊された雑誌「BIG tomorrow」(青春出版社)は、80年代後半には発行部数70万部に至る。普通のサラリーマン雑誌が70万部も売り上げていたなんて、今となっては驚異的な数字である。

80年代のサラリーマン雑誌を研究した谷原吏によると、当時の「will」や「プレジデント」はエリート層サラリーマン向け雑誌として位置づけられていた(「サラリーマン雑誌の<中間性>:1980年代における知の編成の変容」2020年)。これらの雑誌は、内容も「歴史上の偉人から教訓を学ぶ」教養重視。つまりは通勤電車で司馬遼太郎の小説を読み、登場人物の生き様から教訓(と朝礼の訓示のネタ)を得ようとするサラリーマン層の延長線上に位置する雑誌である。知識人、教養人を目指すエリート的自意識を見出しても良いかもしれない。

しかしそれよりも発行部数が多かったのが、「BIG tomorrow」だった。

「BIG tomorrow」は、「職場の処世術」と「女性にモテる術」の二軸を中心にハウツーを伝える、若いサラリーマン向け雑誌である。この二軸を示すだけでも分かる通り、この雑誌に教養主義的な側面はほとんどなく、すぐに使える具体的な知識を伝えることを重視する。そしてその知識は、読心術や心理話法といった、90年代的な「心理主義」に近いものだった。

司馬遼太郎の歴史小説から処世術を学ぶよりももっと即物的に、明日使える知識を伝える雑誌。それが「BIG tomorrow」のコンセプトだったのだ。

70年代の「教養」と80年代の「コミュ力」

谷原は「BIG tomorrow」が人気を博したことについて、80年代、サラリーマンの間で「学歴よりも処世術の方が大切である」という価値観が広まったことが背景にある、と指摘する。

80年代には大卒イコール少数のエリートという意識は薄れ、それよりも入社した後の企業内の昇進が注目されるようになった。つまり学歴で最初からコースが分かれるというよりも、学歴に関係なく「自分も出世できるかもしれない」という期待を入社後も持つことのできる文化が醸成されていたのだ。

竹内洋は『教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化』(中公新書、2003年)において、このような日本の大企業文化を、長期間にわたって細かな選抜の網の目のなかで差異化される環境だと説明する。そして企業に入った後の「選抜」においては、学歴や知識ではなく、処世術、つまりコミュニケーション能力が重視されていた。

こうして1960~70年代にあったサラリーマンの間の教養主義の残り香は、80年代には、消え去ることになる。労働に教養が貢献しなくなったからだ。

70年代にはまだ、進学できなかったことによる学歴コンプレックスから教養を求める労働者が多数存在した。だが80年代になって、進学率が高くなるにしたがって、学歴よりも、コミュニケーション能力を求める労働者のほうが多くなった。

労働に必要なのは、教養ではなく、コミュニケーション能力である。―当時のサラリーマンがおそらく最も読んでいたであろう「BIG tomorrow」のコンセプトからは、そのような当時の思想が透けて見えるのだ。

ちなみに「若者の読書離れ」言説を研究した清水によれば、80年代当時の「読書離れ」とは、正確に書けば「教養主義的な書籍の売り上げが落ちる」ことを指していた。つまり彼らは「若者が軽薄なマンガや雑誌ばかり読んで、教養の身につく本を読まない」と嘆いていたのである。これはまさしく70年代的思想と、80年代的思想の、サラリーマン間対立そのものだったかもしれない。

70年代までは、教養――の延長線上にある「学歴」こそが労働の市場に入り込む必須条件であり、それを手にしていないことへのコンプレックスも大きかった。

しかし80年代になると、学歴ではなく、「コミュニケーション能力」を手にしていないコンプレックスの方がずっと強くなったのだ。

「僕」と「私」の物語はなぜ売れた?

このような補助線を引くと、1980年代のベストセラー文芸――『窓ぎわのトットちゃん』が400万部超、『ノルウェイの森』が350万部超、『サラダ記念日』が200万部超――という華麗なる発行部数にも、ある種の合点がいく。というのもこの三点、どれも一人称視点の物語なのだ。

『窓ぎわのトットちゃん』と『ノルウェイの森』と『サラダ記念日』の共通点。それは作者の私小説的なフォーマットに則っていることである。

というのも『窓ぎわのトットちゃん』は自伝的フィクションなのは明白として、『ノルウェイの森』は、ワタナベという主人公の名は(作者と別に)あるものの、学歴や時代性などは作者である村上春樹本人の私小説かと読者に思わせる。本当に私小説かどうかは置いておいて、読者にそのような印象を与えているのだ。そして『サラダ記念日』は短歌という、主語が作者であることが前提の文芸だ。

つまりこの三作品、どれも「僕」や「私」の物語なのである。

一週間たっても電話はかかってこなかった。直子のアパートは電話の取りつぎをしてくれなかったので、僕は日曜日の朝に国分寺まで出かけてみた。彼女はいなかったし、ドアについていた名札はとり外されていた。管理人に訊くと、直子は三日前に越したということだった。どこに越したかのかはちょっとわからないなと管理人は言った。僕は寮に戻って彼女の神戸の住所にあてて長文の手紙を書いた。

(村上春樹『ノルウェイの森』講談社文庫)

70年代のベストセラー文芸が松本清張や小松左京といった社会と自分の関係をしっかり結んでいる作家だったのに対し、80年代ベストセラー文芸は、「僕」の物語を貫き通す。

「僕」から見た世界は、「私」から見た関係は、今こうなっている。そしてその「僕」「私」視点は、他の人に届くかどうか、わからない。もしかしたら届かないかもしれない。しかし「僕」「私」の思いは、コミュニケーションで伝えられなくとも、自己表現され得る。それが80年代ベストセラー文芸に見る傾向なのだ。

そう、70年代と比較して、80年代は急速に「自分」の物語が増える。そしてそれが売れる。

これは当時、コミュニケーションの問題が最も重要視されていたからではないだろうか。

自分と他人がうまく繋がることができない、という密かなコンプレックスは、翻って「僕」「私」視点の物語を欲する。

社会ではなく、「僕」「私」の物語を、みんな読みたがっていた。

それは労働市場において、学歴ではなくコミュニケーション能力が最も重視されるようになった流れと、一致していたのだ。

本をみんな読んでいた?

しかしミリオンセラーが連発される一方、実は一家庭あたりの書籍購入金額は、70年代と比べ80年代には少なくなっていた。総務省統計局が毎年調査している家計調査(家計収支編)の結果によれば、「書籍」の購入金額は1979年をピーク(1万4206円)として、80年代にはやや落ち込んでいたのである(1989年には1万818円)。

総務省統計局「1世帯当たり年間の品目別支出金額及び購入数量」(二人以上の非農林漁家世帯、全国(昭和38年~平成19年)よりグラフ作成)

つまり1980年代、世帯単位では「書籍離れ」がたしかに始まっていた。

ちなみに2020年代現在、一家庭あたりの書籍購入金額はいまだに右肩下がりである(2022年の書籍の購入金額は7738円)。1980年代から現在に至るまで、平日の余暇が減る(「日本人の余暇時間  長期的な視点から」)と同時に、書籍の購入金額も減っている。家計あたり書籍に費やすお金は、70年代がピークだった。

ならばなぜ、こんなにもミリオンセラーが登場していたのか。それは単に、人口増の恩恵だった。

そもそも人口が増えれば、書籍を買う人の母数が増える。テレビの影響もあり、「売れる本」は作られる。そして一部の本は売れる。だが一方で、70年代と比較すると、たしかに「書籍離れ」は始まっていた。

3.カルチャーセンターをめぐる階級の問題

カルチャーセンターに通う主婦・OLへの蔑視

では学歴コンプレックスゆえに教養を求める傾向は、80年代には消え去ったのだろうか?

 

そんなことはない。ここで私たちは、カメラのフォーカスを、これまで当たって来なかった存在―女性に向けよう。

その舞台は、カルチャーセンターにあった。

80年代とは、カルチャーセンターの時代だった。

1974年に開講された朝日カルチャーセンターが人気を博して以来、1980年代には企業主催のカルチャーセンターは黄金期を迎えていた(歌川光一「カルチャーセンター研究史 生涯学習・社会教育研究における趣味講座の位置づけをめぐる試論的考察」2009年)。どの教室も満員で、教室数はどんどん増えていた。

カルチャーセンターとは一体何か。実態としては、習い事講座のようなものだったらしい。料理や華道といったいわゆる花嫁修業的なものから、小説講座や現代思想講座などのアカデミックな内容に至るまで多種多様な講座を開講していたカルチャーセンターは、80年代になると「カルチャーセンターに通っていることそのものが一種のステイタスシンボル」(宮原誠一・室俊司「朝日カルチャーセンターと生涯教育」1978年)という傾向まで生み出していた。

1979年に芥川賞を受賞した作家・重兼芳子もまた、カルチャーセンターに通う女性のひとりだった。彼女はカルチャーセンターで小説講座を受講し、その末に芥川賞を受賞する。普段は主婦であり、当時流行しつつあったカルチャーセンター受講生である彼女の芥川賞受賞に、メディアは色めきたった。そして重兼を、「普段は夫や子を支える良き妻でありながら、カルチャーセンターという場に向かったことで、普通の主婦が作家になった」という物語に閉じ込めることになる(歌川光一「重兼芳子における芥川賞受賞とカルチャーセンター ―女性の教養をめぐる戦後教育史上の課題―」2020年)。

当時のカルチャーセンターの受講生のうち、8割は女性が占めていた(野崎俊一「男性の生涯学習」2006年)。通っている男性も50~60代がほとんどで、30~40代の男性はほぼいなかったという。野崎によれば、男性をターゲットにした講座はほぼ過半数のカルチャーで開講されているため、カルチャーセンターの内容というよりも、働いているとカルチャーセンターに行く時間がなくなることが原因だろう。

しかしその傾向は、反転して「カルチャーセンターは、暇な主婦の道楽だ」という批判を生み出すことになる。重兼の芥川賞受賞後、カルチャーセンターの創作コースや文芸コースは人気が殺到した。それについて男性向け週刊誌が「主婦の暇つぶし」という蔑視をもって記事にすることは少なくなかった(「重兼芳子における芥川賞受賞と カルチャーセンター ―女性の教養をめぐる戦後教育史上の課題―」)。

更にその視線は、女性間でも巻き起こる。批評家の大塚英志はカルチャーセンターで小説講座を受講するOLたちに対し、文芸評論家の斎藤美奈子が些か批判的な眼差しを向けていることを指摘する。

だが、たまたま目についたから引用するが、評論家の斎藤美奈子が「OL『作家になりたい症候群』の不気味」(『諸君!』九七年五月号)で、「手記を書く女たち」の果てに位置する、『公募ガイド』の類を読み、カルチャーセンターで小説を学ぶ「作家になりたい」女性たちの「自己表現」の素人ぶりをプロの立場(彼女はそれを「芸人」と一見もっともらしく表現しているが)から「薄気味悪い」と切り捨ててしまっているように、この問題に関する女性たちの視点は案外と冷ややかである。

(大塚英志「〈母性〉との和解をさぐる 萩尾望都の葛藤」、『AERAMook コミック学のみかた。』朝日新聞出版社、1997年 収録)

「薄気味悪い」というひとことに集約されているのは、斎藤が自身を「カルチャーセンターに通うOLたち」と切り離して考えているということである。

編集者のキャリアを経て文芸評論家として活躍する斎藤と、カルチャーセンターで自己表現を学ぼうとするOL。その狭間にあるほんの少しの溝は、これまでこの連載で何度も見てきた、階級の問題ではなかっただろうか。

つまり文化的趣味に触れる姿勢の背後にある、階級格差のことだ。

「大学ではない場の学び」

芥川賞受賞作家である重兼もまた、小説講座に通い始めた経緯について、旧制の高等女学校を出てすぐ結婚したことから「学歴コンプレックスがあった」と打ち明けている。それゆえに「本を読んだり、講演を聞いたり、随分としたのね」と語りながら、カルチャーセンターが自分の学歴コンプレックスを埋める場であったことを語る。

そこにあるのは、戦後学歴コンプレックスを埋めるために「教養」を求めた男性たちと同様の行動が、80年代になって女性にも開かれた、という構造である。

つまり、明治~大正時代の雑誌『成功』で、新渡戸稲造が「教養」を説いていたように。あるいは戦後の勤労青年が雑誌で繋がり合いながら「教養」を求めていたように。あるいは司馬遼太郎の文庫本が電車通勤のサラリーマンたちに歴史という名の「教養」を授けていたように。カルチャーセンターは、学歴のない女性たちに「教養」を授けていた。

80年代のカルチャーセンターに通うことは、一種のステータスとなっていたという。なぜそれがステータスになり得るかといえば、カルチャーセンターで学ぶことが、彼女たちにとっては社会的な「教養」を身につける行為だったからだ。

そう、80年代になってやっと主婦やOLにも「教養」は開かれ、そしてその変化のひとつにカルチャーセンターがあった。

カルチャーセンターに通う主婦への蔑視について、重兼は以下のように綴る。

大学が市民に向かって開かれていない限り、学問への欲求を充たすには今のところカルチャーセンターしかない。

カルチャーセンターに通う中年族をからかい、眉をしかめ、優越感を抱いて攻撃するのは主にエリートの人たちだ。

ようやく落ち着いて半ばでやめた学業を取り戻している。それを笑う権利がどこにあろうか。少しは恥を知るがよいと私は腹の中で憤る。

(重兼芳子『女の人生曇りのち晴れ』主婦と生活社、1984年)

翻って令和の私たちの風景を考えてみると、カルチャーセンターに向けられた視点は、オンラインサロンに現在向けられる眼差しとやや似たものを感じてしまう。

たとえば現代で「大学」を冠するYouTubeやオンラインサロンは蔑視の対象になりがちだ。

そして、「自称大学」の主戦場はYouTubeやオンラインサロンなので、外野からは実像が見えないものになっています。ゆえに「信者ビジネス」「サロン会員は養分」だとか、とにかく外野からはバカにされがちです。

(藤谷千明「大学全入時代の〈自称大学〉」集英社新書プラス)

もちろんカルチャーセンターと現代のオンラインサロンでは、母体となる企業がどれだけしっかりしているか異なるだろうとか、ファンコミュニティ的な側面はカルチャーセンターにはなかったとか、さまざまな異論はあるだろう。

が、それにしたっていつの時代も「大学ではない場で学ぼうとする人々」には、蔑みの視線が向けられるものらしい。

そしてそれは、重兼のいう「エリートによる優越感からくる攻撃」が、繰り返されている証である。

ちなみに冒頭に言及した「若者の読書離れ」という言説もまた、本を読んでいたエリート層の優越感を確認するための言説であることを清水は指摘する「「若者の読書離れ」という“常識”の構成と受容」)。

つまり読書は常に、階級の差異を確認し、そして優越するための道具になりやすい。

重兼の言う「学問への欲求」を、大学で満たせなかった人、あるいは大学を出ても満たせなかった人は、どうしたらいいのか――その答えをエリート層は探そうとしない。

自己表現や自己啓発への欲望を、エリート層が蔑視する。そのような構造は、本連載で見てきたように、戦前の夏目漱石が描いた『それから』から、カルチャーセンターへの眼差し、そしてオンラインサロンへの言説に至るまで、繰り返されている。

女性作家の興隆と階級の問題

斎藤美奈子は、自身の著作『日本の同時代小説』(岩波新書、2018年)のなかで80年代、吉本ばななや山田詠美、そして俵万智のような、少女的な感性が純文学を席巻したことを、戦後の脱近代の傾向の延長線上に位置づける。

「近代の文化の担い手が「オトナの男」である以上、「コドモの女」の視点が導入されること自体、文化の相対化につながります。実際、この時代には文学以外の分野でも少女文化に注目が集まりました」と彼女は言う。

しかし斎藤の言う「コドモの女」の感性とはつまり、カルチャーセンターに通いつつ、生活のなかで自己表現を目指すOLや主婦のなかから生まれた存在だったはずだ。それはアカデミックな専門教育を受けていたり、新聞記者のようなキャリアを積んでいたりしなくても、大衆が本やカルチャーセンターを通して教養を身に着け、その末に自己表現できる時代の産物だった。

つまりは80年代とは、それまで男性たちの間で閉じられてきた「教養」が、女性たちにひらかれた時代だった。そしてその結果、『サラダ記念日』や『キッチン』(吉本ばなな、福武書店、1988年)といった女性の文学が生まれ、なによりもそれらを読む読者が生まれたのだ。

斎藤が明らかに「オトナの男」と似たような目線を主婦やOLたちに向けているのは皮肉だが、一方で斎藤もまた、「オトナの男」に閉じられていた「批評」の世界を女性にこじ開けた書き手のひとりだった。

80年代、読書や教養は「オトナの男」から見放されつつあったが、それを拾い上げたのは女性たちだった。カルチャーセンターや少女小説という場で彼女たちが見出したものは、まさしく読書や教養を使って、自己表現を果たし、その末に男女という見えないガラスの壁に阻まれた格差を超えようとする営みではなかっただろうか。

それはフェミニズムという学問が、メディアを通して一般向けに開かれ、大衆化していった時代の運動そのものだった。カンチューハイ二杯で「嫁さん」になることを決めるかもしれなかった時代、読書や教養を通して、彼女たちは自己表現の手段を手に入れたのだ。

だとすれば、読書や教養とはつまり、階級を上がろうとする運動の際に身につけるべきものを探す作業を名付けたものだったのかもしれない。

それを踏まえると、80年代において書籍の購入金額が減っていったのは、労働時間の影響もあるが、それ以上に「もう階級を上がろうとしなくていい」という、男性たちの感覚の投影だったのではないか。

80年代、男性たちの間では余暇の時間だけではなく、「自分は努力すれば階級を上がることができる」という感覚もまた、失われゆく萌芽があったのかもしれない。

(次回へ続く)

●参考文献
 
清水一彦「「若者の読書離れ」という“常識”の構成と受容」(『出版研究』45、2015年)
黒田祥子「生活時間の長期的な推移」(『日本労働研究雑誌』52、2010年)
黒田祥子「日本人の余暇時間  長期的な視点から」(『日本労働研究雑誌』54、2012年)
谷原吏「サラリーマン雑誌の<中間性>:1980年代における知の編成の変容」(『マス・コミュニケーション研究』97、2020年)
竹内洋『教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化』中公新書中央公論新社、2003年
竹内洋『立身出世主義〔増補版〕―近代日本のロマンと欲望』世界思想社、2005年
歌川光一「カルチャーセンター研究史 生涯学習・社会教育研究における趣味講座の位置づけをめぐる試論的考察」(『生涯学習・社会教育学研究』33、2009年)
野崎俊一「男性の生涯学習」(『生涯学習研究e事典』日本生涯教育学会、2006年)
岩崎三郎・林三平・幸田三郎「都市における成人講座受講者の学習行動に関する一考察 : 新宿区における事例調査」(『青山學院女子短期大學紀要』30、1976年)
宮原誠一・室俊司「朝日カルチャーセンターと生涯教育」(『月刊社会教育』22、1978年)
小平麻衣子『夢みる教養 文系女性のための知的生き方史』河出書房新社、2016年
大橋照枝「ニューライフデザイン (8) ライフスタイルの「拡大志向」高まる女性ニューシングル」(『繊維製品消費科学』31、1990年)
歌川光一「重兼芳子における芥川賞受賞と カルチャーセンター ―女性の教養をめぐる戦後教育史上の課題―」(『学苑』952、2020年)
大塚英志「〈母性〉との和解をさぐる 萩尾望都の葛藤」(『AERAMook コミック学のみかた。』朝日新聞出版社、1997年)
藤谷千明「大学全入時代の〈自称大学〉」集英新書プラス(YouTubeが大学になる(かもしれない))、2023年7月25日
斎藤美奈子『日本の同時代小説』岩波新書、2018年
重兼芳子『女の人生曇りのち晴れ』主婦と生活社、1984年

 第6回
第8回  
なぜ働いていると本が読めなくなるのか

「大人になってから、読書を楽しめなくなった」「仕事に追われて、趣味が楽しめない」……そのような悩みを抱えている人は少なくないのではない。しかし、それは現代だけの悩みなのだろうか。書評家・批評家の三宅香帆が、明治時代から現代にかけての労働と読書の歴史を振り返ることで、日本人の読書観を明らかにする。

プロフィール

三宅香帆

みやけ かほ 

作家・書評家。1994年生まれ。高知県出身。京都大学大学院人間・環境学研究科博士前期課程修了(専門は萬葉集)。著作に『人生を狂わす名著50』(ライツ社)、『文芸オタクの私が教えるバズる文章教室』(サンクチュアリ出版)、『副作用あります!?人生おたすけ処方本』(幻冬舎)、『妄想とツッコミで読む万葉集』(だいわ文庫)、『(読んだふりしたけど)ぶっちゃけよく分からん、あの名作小説を面白く読む方法』『女の子の謎を解く』(笠間書院)、『それを読むたび思い出す』(青土社)、『(萌えすぎて)絶対忘れない!妄想古文』(河出書房新社)。

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1980年代の労働と読書―女たちのカルチャーセンターとミリオンセラー