――この『記憶する体』では、見えない眼で見たり、ない足で歩く人がいる一方、忘れた記憶はもう思い出そうとしないという人も登場して、障害への対処の仕方もいろいろですね。
伊藤 ゴールが人によって違うということですね。エピソード3で紹介した人は元々ダンサーで、自分の体を制御するのが好きだったから、義足を使いこなすことがゴールになりました。けれども、そもそも義足とか使わないで生活しても全然良いわけです。
エピソード11に登場する若年性アルツハイマー型認知症の人は、その日にあったことのメモを取っているのですが、メモを頼りに正確に思い出そうとしてもできないこともあります。何があったかという事実は確認できても、文脈や雰囲気といったものは思い出せない。
例えば、「注射」とだけあっても、検査のための注射か、薬を注射したのか、その注射は痛かったのかどうかなどはもうわからない。そこで、そのメモから想像力を使って、「注射が怖くてドキドキしながら受けた」などとストーリーを作り、それをご自分のブログに投稿するという方法で、自分の人生を楽しみ直しています。
エピソード1の全盲の女性は、自分の考えを整理するためにメモを取っていましたが、それとはまた別のメモの活用です。
結局、その人なりの落としどころがそれぞれ違っていて、そこに見えてくるその人の価値観だったり、そこに行くための工夫だったりがやっぱり面白いなあと思うんです。
――さまざまなタイプの障害を一冊の中で横断的に取り上げたメリットはなんですか?
伊藤 いわゆる「視覚障害」というカテゴリーだけで考えても、視覚障害の中のおひとりおひとりは、やっぱり違っていて、一般論では語れないそれぞれの方の条件があります。
今回の本では「ローカルルール」という言葉を使って、おひとりおひとりの、自分の身体の条件とかかわりながらつくってきた身体の歴史にフォーカスしています。ある人のローカルルールを掘り下げていくと、別の障害と話が通ずる場面が出てきます。
例えば、エピソード9に登場する慢性炎症性脱髄性多発神経炎(CIDP)という難病の患者さんは、体を思うように制御できません。その症状は、吃音の当事者が言葉を思うように制御できないこととよく似ています。CIDPと吃音はまったく別の障害ですが、物や他者によって引きずられやすい体という点では共通する部分があります。そういうところが見つかるのが面白いなと思っています。
プロフィール
東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授。専門は美学、現代アート。著書に『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社)、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『目の見えないアスリートの身体論』(潮出版社)、『どもる体』(医学書院)などがある。最新著は『記憶する体』(春秋社)。
最新研究:「見えないスポーツ図鑑」 https://mienaisports.com/