プラスインタビュー

想像力で翻訳する身体の記憶

『記憶する体』著者・伊藤亜紗氏インタビュー
伊藤亜紗

――健常者も、よく考えてみれば、成長や老いという、自分の身体が別の身体に変わっていく経験をしていることになりますね。

伊藤 ですから、障害を持つということもある種の学習のプロセスと似ていて、ご本人からすると別の身体との出会いなのです。障害を持つことは、一般的にはマイナスの過程だと思われがちですが、どこかの機能が無くなると、身体全体が変わる。

たとえば片腕が無くなる、特に利き手が無くなったりすると「利き手交換」といって、それまで利き手ではない方の手を使って作業をしなければいけないわけです。そうなると、右手に包丁を持って何かを切っている時には左から見て切りますが、左手で切ったら今度は逆から見なければいけないので、利き手を替えるだけではなく、中心線もずらさなければいけない。

一か所変わると、他の部分も全部書き換わるので、「減る」ということは単にマイナスではなく、全体のマッピングが変わる。だからそういう意味では学習のプロセスを含んでいて、それ自体が別の身体を獲得するということなのではないかと思います。

――単なる足し算・引き算では身体を語れないということですね。

伊藤 会社の合併とかに似ている、と、会社で働いたことが無いのに言っているんですが(笑)。いろいろな組織には今に至る経緯がそれぞれにあって、いろいろなローカルルールがあるわけです。それが他社と合併するとなった時に、単なる足し算にはならず、また別のルールをそこで生み出さないと絶対にうまくいかないものでしょう。

逆に分割する時も同じで、単なる足し算・引き算だけでは終わらない、全体的な質的な変容を含むはずです。それは組織でも身体でも同じだと思います。

東京工業大学准教授・伊藤亜紗氏

怪我などで失われたはずの手や足に痛みを感じる幻肢痛という現象は典型的です。エピソード6に登場する女性は「自分には手があってこそ身体全体だ」という記憶が残っている。一方で、実際には手は無くなってしまったので、無い状態を全体として生きていかなければいけない。そのギャップが幻肢痛という痛みとして現われる。

でもその幻肢痛があるということは、かつて自分には手があったという記憶そのものなので、それを簡単に無くしたくないという思いもある。自分の身体の全体像をどう再定義していくかというのが、中途障害の皆さんに共通する課題です。

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記憶する体

プロフィール

伊藤亜紗

東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授。専門は美学、現代アート。著書に『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社)『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)『目の見えないアスリートの身体論』(潮出版社)『どもる体』(医学書院)などがある。最新著は『記憶する体』(春秋社)

最新研究:「見えないスポーツ図鑑」 https://mienaisports.com/

 

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