プラスインタビュー

想像力で翻訳する身体の記憶

『記憶する体』著者・伊藤亜紗氏インタビュー
伊藤亜紗

最後に、今取り組んでいる研究について尋ねた。すると伊藤さんは「ちょっとやってみますか?」と言うや立ちあがり、テーブルの上にあったキッチンペーパーのロールをつかむと、取材に同行した編集者氏のおでこにロールの底面をあて、さらにもう一本のロールを継ぎ足すようにあてがい、「いきますよ」と声をかけると、ぐいぐいと手で押し始めたではないか!

――あの、いったい何をしているんですか?

伊藤 ラグビーでスクラムを組んでいる感じを表現しているんです。これはNTTの渡邊淳司さん、林阿希子さんと一緒にやっているスポーツ関連の共同研究なんですが、最初は目が見えない人にスポーツをどう伝えるかみたいなことをやっていました。普通は言葉で実況中継するわけですが、それだといまいち身体的な質感みたいなものが伝わらない。そこで今は、「言葉を使わないでスポーツを伝えられないか」という研究をしています。

ラグビーでスクラムを組む時には、相手チームと力を拮抗させるようにうまくバランスを探しながらではないとスクラムを組めない。それをどうやって表せるかを、ラグビーの第一人者の先生に来てもらって、色々試した結果、このキッチンペーパーを、一本だと簡単にバランスが取れてしまうので二本にして押し合うと、スクラムを組んでバランスをとっている感じに近くなるんです。

キッチンペーパーのロールを押さえながら説明をする伊藤亜紗氏

伊藤さんに「どうでしたか?」と尋ねられた編集者氏(ちなみにラグビー向きの体格である)は「首だけでなく腰の方まで、全身の力を満遍なく使いますね」とのこと。

予想外の展開にあっけにとられていると、伊藤さんは悪戯っぽい笑みを浮かべて、テーブルの上からアルファベットの形に切り抜いた板を取り上げた。

伊藤 これは何だと思います?

――さて、CとHですね。英語の勉強ですか?それとも元素記号?

伊藤 これはですね、片方を持ってください(と編集者氏に一方の板を持たせて)。軽く持つのがポイントです。で、私の持っているのと知恵の輪みたいに組み合わせてください。はい、いきますよ。外そうとしてください。

からまった文字型の板を編集者氏が外そうとすると、それにあわせて伊藤氏がくねくねゆらゆらと腕を動かすものだから、CとHはなかなか外れない。「あ、意外と外れないですね!」と驚く編集者氏。

伊藤 ……っていう動きなんですけど。

――これまた、いったい何を??

伊藤 フェンシングの動きです。フェンシングは、剣で突く競技のように思いがちですが、試合では、自分の剣を相手の剣の動きにうまく沿わせて、いなす動きが重要なのだそうです。相手が外そうとするのに対して、自分は外させまいとすると、うまく相手の動きに沿って動く必要が出てくる。

しかも、フェンシングで使う剣はしなやかで、曲がるようにできていますから、アルファベットのように直線や曲線の組み合わさった形のものを使うと動きに変化が出ます。この動きが結構フェンシングっぽいねって選手も言ってくれました。

「C」と「H」の文字板を手に説明をする伊藤亜紗氏

――なるほど。これも身体感覚の翻訳ですね。

伊藤 これは障害を持っている人の感覚を、持っていないなりにわかろうとするのと近いものがあります。見た目は本物の競技とはだいぶ違いますが、実際にその競技をやられている方と話しながら、どうしたらその競技ができない人でも、その種目を体感できるかを色々と試しています。それをいまラグビーやフェンシングの他に卓球やセーリングなど10競技についてやっていて、結果は「見えないスポーツ図鑑」というサイトを立ち上げて順次公開しています。

 

他人の身体になってみるという身体論の新たな展開はすでに始まっているのだった。

 

文責:広坂朋信/写真:野崎慧嗣

 

「見えないスポーツ図鑑」

https://mienaisports.com/

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関連書籍

記憶する体

プロフィール

伊藤亜紗

東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授。専門は美学、現代アート。著書に『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社)『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)『目の見えないアスリートの身体論』(潮出版社)『どもる体』(医学書院)などがある。最新著は『記憶する体』(春秋社)

最新研究:「見えないスポーツ図鑑」 https://mienaisports.com/

 

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