——大学卒業後は西日本を離れ、再び北海道に戻られます。その時には、どのような心境だったのでしょうか。
瀬川 岡山にいたとき、僕はものすごく違和感を覚えていました。たとえば『アイヌ学入門』(講談社)の中にも書いた記憶がありますが、北海道時代には水田景観の原体験が無かったんですよ。特に道東なんかに行くと、もう本当に無いですよね。そんな水田に囲まれていて、どこか「ここは自分が入っていける世界じゃないのかもな」という皮膚感覚みたいなものを抱いていました。
他にも“弥生”の遺跡だとか、“古墳”に馴染めなくて。そういうものに囲まれている中で、違和感というか拒絶感が消えませんでした。それで、自分の立脚点はやっぱり北海道なんだな、と気付いて帰ってきたわけです。
——北海道に戻った時には、どのような仕事を志望されたのですか?
瀬川 考古学と縁のある職場というと、市町村や県の教育委員会に、文化財の保護のセクションがあります。そこでは、遺跡が破壊されるときに発掘調査をしたり、記録を保存したりということが「文化財保護」の名目で行われていました。そのセクションに務めるのが、ひとつの進路になっていたんですね。それを見て、僕もそういう方向で食べていこうかなと。
今となってはおかしな話ですが、大学時代の先生なんかを見ていたら、研究者というのは「虚業」だな、っていうイメージを当時は抱いていました。やっぱり汗水を垂らして働かないと、だめになっちゃうんじゃないかって思っていまして。僕はそんな真面目な人間じゃないはずなんですけど、当時はそう思い込んでしまったんですよね。だから、現場に出て働きたいという気持ちから北海道の行政に入ることにしました。
当時はバブルの少し前でしたが、全国でものすごく盛んに開発が行われていて、至るところで発掘調査をやっていました。そんな中で、関係で旭川の方から「来てみないか」という話があって、旭川の市役所で採用してもらうことになりました。
そうしてずっと遺跡の発掘をやっていたんですけれども、40歳になった頃に博物館に異動になりまして。そこからは学芸員として、腰を据えて調査・研究を本格的にやり出したということになります。
——最初から博物館で研究をされていたわけではないんですね。
瀬川 実は、そうではないんです。
プロフィール
1958年生まれ。北海道札幌市出身。考古学者・アイヌ研究者。岡山大学法文学部史学科卒業。2006年、「擦文文化からアイヌ文化における交易適応の研究」で総合研究大学院大学より博士(文学)を取得。旭川市博物館館長を経て、2018年4月より札幌大学教授。主な著書に、第3回古代歴史文化賞を受賞した『アイヌ学入門』(講談社現代新書)をはじめ、『アイヌの歴史』『アイヌの世界』(ともに講談社選書メチエ)、『アイヌと縄文』(ちくま新書)など。