——発掘調査を行われていた頃は、具体的にはどのような活動をされていたのでしょうか。
瀬川 正直に言いますと、発掘をやっていると、一日中、外でスコップで土を掘っているので、毎日帰ったらビールを飲んでいました。そして、テレビをボーッと見て、すぐ寝ちゃう。そんな生活を送っていると、もう論文を書かなくなるどころか、本を読むことすらなくなっちゃって。「これで良いのかなぁ」と、30歳を過ぎたくらいで、ふと思ったんです。
その時から少しずつ、「年に1本は何か論文を書きたいな」とノルマを課して、どんなものでも良いから書こうと決めて取り組みだしたんです。それが30代の後半ですね。そうすると、年に1本というはっきりしたノルマがあるので、色んな課題を常に考えていなければならなくなりました。ただ、当時はお給料が安く、どこかに遠出して調査・研究をするなんて、時間的にも金銭的にも不可能で。結局は自分の身近な場所で、旭川を中心に、自転車で行ったり、車で行ったりできる範囲で、お金を使わずにテーマを掘り下げて研究するということを続けました。
それが結果として、すごく良かったと思うんですよ。
私が専門にしている擦文時代は、それまで北海道全体を大きく俯瞰した研究しかありませんでした。でも、私は旭川で、「時代によって遺跡はどう変化していくか」だとか、「なぜ擦文時代には遺跡の立地が劇的に変化するのか」とか、そういうことを足を使って調べていったら、段々と傾向が見えてきて。それはなぜなのか、っていうことをずっと考えて、論文を書いて、また次に、その次の論文で掘り下げて……ということをしばらく続けていたら、「北海道中がそうした変化の渦に取り込まれていたのではないか」という大きな結論が見えてきたんです。
あえて地域に埋没することで、逆に全体が見えてくると言えばいいでしょうか。条件の制約から、そうせざるを得なかったんですけれども、結果としてすごく良い結果につながりました。
仮に大学に残って研究の道に進んでいたら、常に論文を書かなければならないというノルマがありますし、旭川の周辺の狭いエリアのことだけずっと書いていたら、簡単には評価されないですよね。大きな視野で論じなければならない、ということになります。そんな状況だったら、自分はここまで色々なことを書き継いで来ることはできなかったと思うんですよね。
なので、当時は「切ないなぁ」と思うこともあったんですが、それは決して無駄になっていなかった。今から考えると自分には合っていたし、基礎になってくれました。
よく、色々な人が自らの人生を振り返って「無駄なことはひとつも無かった」なんて言っていますけれども、僕自身も振り返ってみたら、本当に無駄なことはひとつも無かったんだなあと思いますね。
プロフィール
1958年生まれ。北海道札幌市出身。考古学者・アイヌ研究者。岡山大学法文学部史学科卒業。2006年、「擦文文化からアイヌ文化における交易適応の研究」で総合研究大学院大学より博士(文学)を取得。旭川市博物館館長を経て、2018年4月より札幌大学教授。主な著書に、第3回古代歴史文化賞を受賞した『アイヌ学入門』(講談社現代新書)をはじめ、『アイヌの歴史』『アイヌの世界』(ともに講談社選書メチエ)、『アイヌと縄文』(ちくま新書)など。